10分間のコーヒータイムから始まる

突然の雨 10分間のコーヒータイムから始まる恋

 運命を感じていたはずの彼氏は私に対して日常的に暴力をふるうようになっていた。
 恋人である無職の男は帰るといつも通りの暴言を吐いた。
 反論すると首を絞められる。
 怖くなった私は護身用のスプレーを顔にかけた。
 彼が目をつむった瞬間、必死に台所にあった果物ナイフで彼の体を刺していた。
 もしかして、男を殺してしまったかもしれないと怖くなる。
 護身用スプレーだけだと、彼の方のダメージはあまり大きくなく、近くにあった果物ナイフに手をかけたのを見逃さなかった。
 このままでは私が刺されてしまう。
 焦って目を閉じて相手に向けると、相手に刺さる感触がした。刺してしまったと感じる。
 怪我で済むのだろうかもわからない。
 生きていたとしても報復される可能性があり、日常生活を送ることが困難になることは目に見えていた。
 私は殺人犯になって指名手配されてしまうのではないかと恐怖におびえる。
 仕方がなかった。このままだと殺されしまいそうな状況になっていた。
 首を絞められ抵抗できない私に力ずくで男は細い腕でなんとか生きるためにやったこと。
 ネットで購入してコンビニ受け取りをした護身用のスプレーが役にたったけど、果物ナイフで刺すなんて、最悪自己防衛を通り越して犯罪者になってしまうかもしれない。
 怖くなった私は衝動的に現場を離れ、昔行ったことがある秘湯に向かった。
 佐和涼香という本名ではない名前を書いて旅館に泊まることにした。
 自宅から駅に向かい、秘湯とは逆の電車に乗っては降りを繰り返す。
 どこへ向かうのかわかりにくくするために、遠くの駅からバスに乗ることにした。
 一人旅なんてしたこともない私は気づいたら逃亡犯になっていた。


 私はブックカフェに勤務する25歳。彼氏とはブックカフェで出会った。
 本が好きだという彼氏は当時大学院生で名の知れた大学のインテリな雰囲気が新鮮だった。
 つきあい始めた頃は優しくて、物静かな人だなと思っていた。
 大学院を卒業しても、これといった定職に就かないなんて思いもしなかった。
 当時、彼は小説を書いていて、受賞歴もある人だった。そんな才能を持っていた彼に興味を持ったのだと思う。
 彼は私が勤務している時間帯に頻繁にブックカフェに来るようになった。
 店に来るきっかけは、ふらっと入った店の雰囲気が気に入ったらしい。
 彼との出会いは桜が舞い散る春の終わる頃だろうか。
 久しぶりのときめきが全身を纏っていた。
 今思えば、まるで人工的に造られたお花畑のような脳内だったように思う。
 最悪の事態を想定した恋愛などこの世界にあるわけがない。
 
 その日は天気予報が大外れの大雨だった。
 急な雷雨に傘を持ってこなかったことをひどく後悔した。
 自然とため息があふれ出る。
 閉店時間になっても雨は止みそうもない。
 数人いた客は折り畳み傘などを持っているようで、彼と私一人だけ雨に足止めされた夜。
 終わりかけた桜は突然の大雨で最後の花びらが形として残りそうもなかった。
 濡れ落ちた桜の花びらはとても残念な気持ちになる。
 その日は店長に遅番を任されていて、戸締りは私の役割だった。
 今年最後の夜桜を見ながら帰宅できるかと思ったけど、これではずぶぬれだ。
 雨が止むまで少し待ったほうがいいかもしれない。
 近所にコンビニがあるけど、そこで傘を買い物するには少し距離がある。
 この店で時間を潰そうと思った。
 どんよりな雨雲が空を覆う。
 見上げると巨大な黒い雲がオフィス街を取り囲んでいるかのようだった。
 地下鉄の駅まで徒歩10分弱といったところだろうか。
 駅まで傘なしは無謀な挑戦だとしか思えなかった。

 目の前にビニール傘が差しだされる。
「これ、使ってよ」
 耳に馴染む声が聞こえた。
 常連客の蘭堂(らんどう)さんの声だ。
 このカフェがなかったら、私たちの人生は決して交じり合うことはないだろうと思われた。
 そもそも人生のベクトルが平行線で、今後の人生で交じり合い友達になることなんてありえないような世界の人のような気がしていた。
 
 とりあえず会話として出したのは「雨の日は嫌い」という話だったと思う。
 店員としての会話以外で接するのはなんだか新鮮な気がした。
 なんとなく手を空に広げる。今どれくらい降っているのかの確認だ。
 店を離れれば店員ではない私と客ではない彼の関係。
 もどかしい気持ちになる。

「一緒に入っていかない? どうせ同じ方向だし」
「申し訳ないですよ。このままここで時間を潰します」
 申し訳なくて、一応断ってみる。
 
「俺は、このまま濡れてもかまわないし」
 本気なのだろうか? それはさすがに申し訳がない。
 どこか少しばかり影のある蘭堂さんの名前も最近知ったばかりの関係だ。

「風邪をひかせるわけにはいきません」
 その言葉を無視するかのように半ば強引に、にこりとした笑顔で傘を差し出された。
 蘭堂さんの黒髪はいつもよりも憂いをおびているように思える。
 湿気のせいかもしれない。
 彼の人柄がよく現れているように私は感じていた。
 申し訳なくなり、雨が止むのではないかと少しばかり会話を試みた。
「もしよかったら雨が止むまでコーヒーでも飲みませんか? サービスします」
「いいの?」 
 少し驚いた顔をして、黒い瞳が少し大きくなる。
 私の人生の分岐点はいつもコーヒーと共にあるのかもしれない。
 彼と親密な関係になったのはこのコーヒーを一緒に飲んでからだった。
 実を言うと、以前から蘭堂さんの話し方も声質とかコーヒーの飲み方も好きだった。
 蘭堂さんはコーヒーカップを口元に運ぶ。
 相変わらず彼はコーヒーが様になる。かっこいいなと思う。
 純粋に、誠実そうで穏やかそうな人柄が伝わっていたからかもしれない。
 蘭堂さんの声も顔立ちも全部好きだと思える。
 なんだか憧れている人と近づけた時間だった。

「もっと佐和さんのことが知りたいな」
 ぽつんと言ったその一言が嬉しいと思う。
「私も蘭堂さんのコーヒー談義とか本の話とかもっと知りたいです」
 にこりと笑う蘭堂さんは本を持つ姿がとても繊細で知的な印象だった。
 10分程度のコーヒータイム。
 この時間が恋の始まりだった。

 結局少し話しても全然小ぶりにならないため、仕方なく二人で一つの傘に入って帰ることにする。

「地下鉄通勤だっけ?」
「はい」
「じゃあ一緒だね」

 相合傘状態になったのだけど、彼の純真な気持ちでの親切心だということにも私自身は気づいていた。
 偶然のチャンスに照れながらも一緒に帰った。
 突然の雨に感謝をしたのは初めてかもしれない。
 苦手な雨がチャンスをくれた。

「雨の日ってなんだかなぁ」
 灰色の空に向かってつぶやく。
「俺は雨の日は喧噪がかき消される気がして、結構好きだな。家で読書とかしながら静かに過ごしたいなって思うよ」
 彼はいつも前向きな性格で、あまり物事を否定しない。受け入れ上手な彼らしい意見だなと思う。

 相合傘にドキドキしているなんて素振りは微塵も見せずに肩が触れないように歩く。
 一定の距離を保たないと心が落ち着かないというのも本音だった。
 今後縮むかもしれない距離に期待をする。

「でもさ、雨の日っていいこともあるよね」
「何?」
「こうやって佐和さんと会話ができたこと」
 純真無垢な笑顔で言われると私はどぎまぎしてしまう。
「何言ってるの?」
「まぁ、佐和さんにとってはいいことでもなんでもないよね」
 思わず照れて笑みがこぼれる。
 当たり前のように流れる時間。このしとしとと降る雨の時間が貴重なことだなんて、言えるはずはなかった。

 つい、勢いで言葉が溢れる。
 もっとそばにいたい。
「佐和さんとまた一緒に帰りたいな。だめ?」
「またまた御冗談を」
「俺、本気なんだけど」
 近くもなく遠くもないはずだった私たちの距離が縮まった瞬間だった。

 視線が重なる。私たちの足元はアスファルトも水たまりで水が靴を纏う。
 足元を見た後、空を見上げる。
 気づくと、あんなに激しかった雨が止んで月が見えた。
 足元の水たまりには街の明かりが反射して、とてもきれいに見えた。
「水たまりがきれい」
 視線が足元に向く。
「月がきれいですね。なんてね」
 彼の言葉に心が震えた。
 これは、愛してるという意味だろうか。
 少しロマンチストな彼らしい告白に胸が躍った。

 私にとって今日雨が降ったことはラッキーとなった。
 でも、そんなこと言えない。
 私たちは、ただ夜の空を見つめていた。
 駅までの10分は2人の距離を縮めた。


 地下鉄の方向が一緒だということで、駅に向かう。
 ところが、アナウンスがあり、事故のため点検してから運行するとのことだった。
 人々が並び、いつもよりも混んでいた。
 少しコートが濡れていたので、体が冷えるなと思う。

「よかったら使って。未使用だから」
 ハンドタオルを渡される。
「よかったら暖かい飲み物でも飲もうか」
 人が多いので、端のほうの自販機のほうに移動した。
 地下鉄は風通しが良く、冬は特に冷える。

 歩く姿も、風になびく髪の毛もかっこいいな。
 私たちの関係はこれから何かかわるのだろうか。

「ホットコーヒーの微糖でいいかな? ってさっきコーヒー飲んだばかりだよね」
「私はコーヒー好きだから」

 さりげなく蘭堂くんがおごってくれた。
 スマートな優しさもすごくいいなと思う。

 二人だけのティータイムは駅の中での立ち飲みだったけど、なんだか距離が縮まったような気がした。
 温かい飲み物の温度が体中に染み渡る。
 彼の優しさの温度みたいで、もっと好きになってる自分がいた。
 自分が思ったよりも駆け引きとか大人の恋愛ができないというもどかしさを感じていた。

「実は佐和さん目当てでブックカフェに通っていたんだけど。良かったら俺と付き合ってほしいな」
 優しそうな彼からの正式な告白。
 私は迷うことなくうなずき、彼と付き合うことになった。

 私たちの恋はコーヒーから始まった。
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