仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

第1章・Scene10 小さな一歩

 夜の稽古が終わり、出演者たちは次々と荷物をまとめて帰路につき、スタッフの間でも「お疲れさまです」の声が飛び交っていた。

 照明が少し落とされた楽屋には、白い蛍光灯の光がまだらに落ちている。
 衣装ハンガーが揺れるかすかな音だけが、静かに空気を震わせていた。

 優香は台本や資料を整えながら、そっと視線を上げた。

 鏡の前に座る大地が、まだ衣装のまま、肘をついて身じろぎもせずにいる。
 明るいブラウンの髪は少し乱れ、ライトの残照を受けてやわらかく光っていた。
 ゆるめの白シャツの袖口、胸元のシルバーのブローチが、微かに揺れている。

 だが彼は、鏡そのものを見ているのではなかった。
 そこに映る“何か”を追うように、ぼんやりと虚空を見つめていた。

(……また、あの顔)

 ステージのきらめきをすべて剥いだあとに現れる、疲れた素顔。
 その無防備さに、優香の胸がチクリと痛んだ。

 けれど、今まではこういうとき、声をかけたことがなかった。
 マネージャーは余計なことを言わないほうがいい――そう自分に言い聞かせてきたから。

 ……でも、今は違った。

 資料を机に置いたまま、優香は小さく息を吸う。
 自分の足が、自然と彼のほうへと向かっていた。

「……あの、今日は……本当にお疲れさまでした。」

 その声に、大地はゆっくりと顔を上げた。
 ふいに目が合った瞬間、瞳が驚いたように揺れた。
 そして戸惑いを隠すように、まばたきをひとつ。
 長いまつげの影が、頬に落ちる。

「……ありがとう。」

 短いその言葉は、けれど、どこか違っていた。
 昼間の“宅麻大地”が発するような作られた音色ではない。
 素のままの、柔らかな声。

 優香の胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。

(……間違ってないはず。何か言わなきゃって、思った)

 その理由は、うまく言葉にできない。
 ただ、あの壊れそうな笑顔を見ているのが――どうしても、耐えられなかった。

「……もし、少しでも、私で力になれることがあったら……言ってください。」

 吐き出した言葉とともに、自分の頬が熱を帯びるのがわかる。
 けれど――

 大地はふっと、ほんのわずかに目元をゆるめた。
 肩の力が抜けたように、ぎこちなくも温かな笑みが浮かぶ。

「……はい。」

 その一言を残し、大地はゆっくりと立ち上がった。
 足元の影が長く伸び、蛍光灯の白がその背中を淡く照らす。

 優香は、その背中を目で追った。
 そして、自分の胸に、小さな光がぽつんと灯るのを感じた。

(――これで、いい。これが、私の……小さな一歩だ)

 廊下の向こうから差し込む光がにじんで見える。
 夜風がドアの隙間から入り込み、机の書類の端をそっと揺らした。
 ――まるで、その一歩を後押しするように。



 
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