仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

Scene10 夜の「ありがとう」

 車が静かに、蓮のマンションの前で停まった。
 ワイパーが最後のひと拭きを残し、フロントガラスを滑っていく。
 街灯の光が滲んだ雨粒を照らし、ゆるやかに夜を映していた。

 優香はエンジンを切り、ハンドルに手を添えたまま、ちらりと助手席の蓮に目を向けた。

 蓮はシートに深く身を預け、ドアノブに手をかけたまま、じっと動かない。
 窓越しに聞こえる街の喧騒は遠く、車内には雨音だけが静かに響いていた。

 外では、誰かが小走りに傘を差して通り過ぎていく。
 アスファルトに弾ける水しぶきが、街灯の下で一瞬、白くきらめいた。

 優香は何も言わず、その横顔をそっと見つめていた。
 蓮は軽く濡れた髪先を指先で払う。落ち着かないその仕草が、どこか脆さを映しているように見えた。
 伏せた瞳には街灯の淡い光が射し、睫毛にかすかな影を落としている。

 長い沈黙。

 そして――
 喉がわずかに動き、ためらうように、彼の口から言葉がこぼれた。

「……ありがとう」

 その声は、か細く、掠れていた。
 それでも、雨音よりもはっきりと耳に届いた。

 優香はほんの一瞬、目を見開きかけて――
 すぐに、微笑んだ。驚かせたくなかった。言葉はいらない。
 ただ、ゆっくりと頷いた。

 蓮は何も言わずにドアを開ける。
 冷たい雨の匂いが車内に流れ込み、街灯の光がその肩を淡く照らす。

 傘も差さず、夜の雨のなかへと歩き出した。
 濡れていく背中は、それでもどこか――今までよりも、まっすぐに見えた。

 優香はハンドルの上に手を添えたまま、その背を見送る。
 雨粒がフロントガラスを静かに伝い落ちていく。

(……ありがとう)

 胸の奥で、優香はもう一度、そっとその言葉を繰り返した。

 たったひと言だったのに。
 どうして、こんなにもあたたかいんだろう。
 ――あなたの“本当の声”を、やっと聞けた気がした。


 
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