王位を継いだら最強でした~17歳の末姫が、王位に就いたら国が救われたようです~
第1話 王座の白き影
大陸の中央、千年の歴史を誇った神聖アルディア皇国は、まさに崩れかけた塔であった。
かつてこの国は、七つの州と三十六の貴族領を束ねる大帝国として栄華を極めた。
豊饒なる農地、整った街道網、洗練された文化と芸術。
“神の血を引く王家”として知られるアルディア王家は、その威光をもって大陸全土にその名を轟かせていた。
だが、すべては過去の栄光にすぎない。
今や王都には飢えと憤怒が満ち、かつて香水と詩と音楽に満ちていた宮廷には、沈黙と不信が立ち込めていた。
その始まりは、現王――エウゲニウス四世の崩御であった。
王は長く病を患い、政務を重臣たちに委ねていた。
軍と貴族、宗教界と民会派。各勢力の対立は年々深まり、王国はすでに「誰が支配しているのかも分からぬ国」とさえ言われる始末だった。
そんな中、王が崩御。王位は、慣例どおりに長男レオニダスに継承された。
長男のレオニダス一世は真面目な男だった。生真面目すぎるほどに。
儀礼と慣習を重んじ、古の統治哲学を身に刻み、王たる者は「在る」ことで国を導くという、伝統的な王道を体現していた。
彼の即位は、当初こそ一定の安堵をもたらした。
「ようやく王家に正統が戻った」――そう囁く声もあった。
だが、動乱の時代において、静寂は致命的である。
貴族たちは自派の利権拡大に奔走し、軍部は戦費の拡充を求めて圧力をかけた。
外交は硬直し、北方との穀物貿易が破綻。
飢えた民は市場を襲い、税務官は命を落とし、街は悲鳴に満ちた。
レオニダスは、動かなかった。
動こうとしなかったのではない。
“動くことが許されない”と、彼は信じていたのだ。
「王は、民の上に立つ象徴たるべし」
彼は、自らの王位に神性を重ねすぎていた。
即位より一年。王宮前に飢えた暴徒が押し寄せた日、彼は玉座を降りた。
護衛たちの手に支えられながら、レオニダスは城を去った。
その表情は、どこまでも清らかで、どこまでも無力だった。
次に王位に就いたのは、次男――アントニウス。
アントニウス二世は、かつて軍学校を首席で卒業し、王家の武門として高い評価を受けていた男である。
「王には決断と行動が必要だ」と語る彼の登場に、民はわずかな希望を見出した。
即位後まもなく、アントニウスは王都各地の暴徒を軍で鎮圧し、秩序を回復。
彼は確かに行動した。恐れず、迅速に。
だが、軍による統治はあまりに粗暴だった。
王命という名のもとに、民の家が焼かれ、反対派の指導者が処刑された。
将軍たちは次第に王を“名目”とし、自らの派閥争いに明け暮れるようになる。
軍閥同士の対立はやがて武装衝突を招き、王都では兵士同士の小競り合いが頻発した。
ある夜、城下で起きた銃撃事件により、幼子が命を落とした。
それが、決定的だった。
市民連合と貴族会議が共同で退位を要求。
軍の一部も沈黙を選び、アントニウスは王宮を出た。
“軍の王”は、在位わずか十一ヶ月で終わる。
三男マクシミリアンは、王子の中でもとりわけ知性を誇る人物であった。
若き日に諸外国で学び、数理と統治学、経済学に通暁し、「理性の王」としての誉れ高い存在だった。
王国の台帳に初めて体系的な収支分析を持ち込み、歳入歳出を明文化したのも彼の功績だった。
即位にあたり、彼は一言こう述べた。
「王国に必要なのは、血筋ではなく法と秩序である」と。
彼はまず財政改革に着手した。王家や貴族の浪費を削減し、国庫を監査し直し、支出を抑えた。
続いて租税制度を見直し、徴税官の権限を制限しつつ税収を安定させようと試みた。
だが――計算された数値の美しさと、民の暮らしの現実は、似て非なるものだった。
机上で成り立つ案は、王都から遠く離れた農村では機能しなかった。
平民にとって増税は単なる生活費の圧迫でしかなく、富を持たぬ者から取り立てられた税は、流通に回る前に命を奪った。
市場は停滞し、金は動かず、失業者が増え、炊き出しに列をなす民の数は日に日に膨れ上がった。
それでもマクシミリアンは、改革を止めなかった。
「これを越えれば、必ず豊かになる」と信じていた。
理性はあれど、現実に触れなかった。
彼の周囲には、似たような知識人ばかりが集まっていた。
やがて、王都南部で“飢餓暴動”が起きる。倉庫が焼かれ、貴族の屋敷が襲撃された。
軍を出動させて鎮圧はしたが、血を流したのは武器を持たぬ者たちだった。
「王が、民を殺した」――そう広まるには、時間はかからなかった。
その冬、宮廷にて彼は何者かに刃を向けられ、静かに命を落とした。
犯人は捕まらなかった。捕まえられなかったのか、あるいは捕まえる気がなかったのか。
民は沈黙し、官吏は顔色を失い、貴族たちは次の動きを探り始めていた。
四男ユリウスは、先王の子の中で最も「信仰深い」と言われた男だった。
幼き日より神殿に通い、厳格な神学教育を受け、礼儀正しく、温和な物腰で知られていた。
即位にあたり、ユリウスは王国教会と協定を結び、聖務官僚たちを政務に迎え入れた。
その治世は「徳政」と称され、民に対しても穏やかな説教と施しが行われた。
最初の数ヶ月、王都は久々に穏やかな空気に包まれた。
だが、宗教は人の魂を癒すと同時に、束縛もする。
“神の意志”を盾にした統治は、やがて思想統制を生み、書物が焚かれ、異端審問が復活した。
古の宗教と対話していた学者たちは投獄され、改革派は弾圧され、自由思想家は密かに国外へ逃れた。
教会の影は王宮の壁を越え、貴族すらも“信仰の誠”を問われるようになる。
誰が味方で誰が敵か、王都に生きるすべての者が互いを疑い始めた。
そして、神殿上層部は告げた。「王は、神意に背いた」と。
信仰をもってしても、混乱は収まらなかった。
ユリウスは聖別を剥奪され、王位は空席となった。
その翌日、彼の姿は宮廷から消え、誰もその行方を語ろうとしなかった。
五男フェルディナントは、若く、快活で、民衆の間で人気があった。
四王都は一時的な熱狂に包まれた。
だが、理想と現実は別物だった。
フェルディナントは、政治という獣を制御する技量を持たなかった。
日々の発言は二転三転し、補佐官の進言を拒んでは後に後悔し、誰に任せてよいのかも分からずに混乱を深めていった。
貴族たちは静かに見ていた。やがて、微笑んだ。
軍と宗教界は様子を伺い、民衆は次第に失望を覚えるようになる。
三ヶ月後、貴族派が動いた。
静かなるクーデターにより、王宮は占拠され、フェルディナントは拘束された。
宮廷の最も高い塔へと幽閉され、以後、姿を見た者はいない。
こうして、五人の王子が次々に王位を継ぎ、すべてが崩壊した。
神聖アルディア皇国は、事実上の無政府状態へと突入する。
そして、王宮の最奥。
誰にも顧みられることなく、ただ一人残された姫がいた。
名を――アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。
王家第六子。唯一の王女。
十歳で母を亡くして以降、彼女は公務にも祝宴にも姿を見せなかった。
政治には興味を持たぬ、飾りの姫。そう思われていた。
だが、彼女は見ていた。
王国が傾く様を、兄たちの在り様を、民の嘆きを、貴族の傲慢を、すべて――
ただ静かに、言葉ひとつ発せず、記憶に刻んでいた。
そして、フェルディナントの退位が決まった夜。貴族会議が次の“傀儡”を探して奔走していたそのとき。
玉座の間の扉が、音もなく開いた。
白き礼装を身にまとい、整えられた金髪を肩に垂らし、
王冠を戴かぬまま、彼女は真っ直ぐに玉座の階段を登った。
その瞳は冷たく、澄んでいた。
どこまでも正しく、どこまでも厳しく、そして、どこまでも――美しかった。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。十七歳。
王座の“白き影”は、ついに光の中へと歩み出た。
◆
五人目の兄王が倒れ、王宮の塔に幽閉された翌朝。
玉座の間には誰の姿もなく、赤絨毯は陽の差さぬ冷気に覆われていた。
その空席こそが、王国の末期を象徴していた。
「王家は終わった」
その言葉は、宮廷の隅々にまで沁み渡っていた。
かつて玉座を囲んでいた老臣たちは沈黙し、貴族たちはお互いを牽制しながら“次なる傀儡”を探していた。
彼らの目は、互いに探り合い、利のない名前には目もくれず、自らの系譜と結びつけやすい血を探していた。
だが、王家に男子はもういない。
正統なる血を引く者で、まだ戴冠していない者は、ただ一人。
少女であるという理由だけで、誰もが見過ごしてきた存在。
一人の少女が、あまりにも静かに、そして確かに、最後の王家の継承者としてそこにいた。
王都の街角には、かつての賑わいなど影も形もなかった。
市場では商人が商品を広げることもなく、パン屋の前には日の出前から長蛇の列ができる。
兵の姿が見えれば、誰もが道の端に退き、目を伏せた。
人々は怒っていた。だが、怒ることにも疲れていた。
「また新しい王か」
「また新しい税か」
「また新しい粛清か」
怒号は呟きへと変わり、呟きは諦めへと変わる。
五度に渡る政変。飢え、戦い、重税、暴力、信仰の強制。
民はもはや、誰を信じればいいのかさえ分からなかった。
街では噂が流れていた。
「次の王は、貴族の中から選ばれるらしい」
「いや、軍が臨時評議会を設置するそうだ」
「教会が教王制を布くつもりらしい」
そのどれもが、恐怖の延長線でしかなかった。
貴族たちは利権にしか興味がない。
軍は恐怖をもって統制する。
宗教は命よりも信仰を重んじる。
ならば、誰が“この国”を守ってくれるのか。
誰が、民に食を与え、住まいを与え、未来を与えてくれるのか。
誰も、答えを持たなかった。
王宮の奥、かつて王妃たちの住まいであった離宮。
白と金を基調とした静謐な空間の奥に、ひとりの少女がいた。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。
神聖アルディア皇国第六王女。十七歳。
彼女の部屋には、花が飾られていた。季節外れのスミレ。亡き母が好んだものだ。
静かに風がカーテンを揺らし、硝子の窓には淡い曇りが浮かんでいた。
彼女は座っていた。膝の上には分厚い記録帳。ページには、過去の王政の出来事が細やかに記されていた。
筆跡は整然としており、余白には注釈が記され、全体を通じて冷徹な分析が並んでいた。
その顔立ちは、王家に連なるものの中でも際立って整っていた。
絹のような金髪、陶器のような白い肌、そして何より、深い紫の瞳が印象的だった。
それは感情を映さぬ鏡のようでいて、何かを測るようにすべてを見透かしていた。
彼女は子どもの頃から、誰よりも静かだった。
七歳で文字を覚え、八歳で古代語を読んだ。
九歳で地図を描き、十歳で国家制度に関心を持った。
誰かに強制されたわけではなかった。
ただ、目の前にあるすべてが「なぜこうなっているのか」を知りたかっただけだった。
十五歳の時、彼女は兄たちの政務記録を求め、誰にも告げずに読み漁った。
彼らが何を見落とし、何を誤り、何に敗れたのか。
それを、ただ淡々と記録していた。
涙も、怒りも、嘲りもなかった。
ただ、冷静に、整然と、事実を知ることだけを求めていた。
◆
「姫様……」
執務長である老臣ヴォルクが、震える声で口を開いた。
アウレリアは顔を上げる。
「王宮評議会が、貴族連合から新たな統治者を出すと……つまり、姫様は、継承権を……」
その言葉は、未完成なまま空気に消えた。
アウレリアはただ、彼をまっすぐに見つめていた。
何も言わず、何も責めず、ただ静かに。
「……願わくば、姫様のお力を。いや、姫様こそが、この国の最後の……」
ヴォルクの目には、涙が浮かんでいた。
老いた臣は、すべてを見てきた。
王国の誇りも、腐敗も、崩壊も。姫君の沈黙も、その眼差しも。
「この国を見てきたのですね」
アウレリアが初めて言葉を発した。
その声は柔らかく、けれども明確に空気を震わせた。
「王というものが、誰かの望む偶像ではないことを、私は知りました。
兄たちは、愚かだったのではありません。ただ、“王であること”を、誤解していたのです。
私は、玉座を飾るつもりはありません。私が継ぐのは、血統でも、栄光でもない。
私が継ぐのは――責任です」
彼女の言葉に、ヴォルクは静かに膝をついた。
「私が戴冠すれば、貴族も軍も、教会も動くでしょう。善くも悪くも。
けれど――このまま沈黙することの方が、よほど恐ろしい」
少女は立ち上がった。
まるで、ずっとそのときを待っていたかのように。
「私は、継ぎます」
その言葉に、空気が凍った。
まるで王座が、彼女の声に反応したかのようだった。
「王冠は、まだ誰にも渡っていない。
それならば、私が受け取りましょう。
この国の希望が、まだ息をしているうちに」
◆
夜が、王都を静かに包んでいた。
石畳に落ちた灯の影は長く伸び、王宮を取り巻く風は季節外れの冷たさを帯びていた。かつて栄華の象徴であった黄金の尖塔は、灯火を絶たれたまま黒々とした輪郭を空に刻み、まるで過去の幻を指し示す墓標のように立ち尽くしている。
王宮前広場には衛兵が立つのみ。誰もいない通りに、僅かな鳥の羽音と、風が布を揺らすかすかな音が交錯する。
それは、“終わった国”に、静かに新しい拍動が訪れようとする前の沈黙だった。
◆
玉座の間は、広く、静謐だった。
祭殿建築の最高様式である列柱が並ぶその空間は、石材の光沢に星図を映し出すように設計されている。
今宵はその天蓋に描かれた星が、天窓から差し込む微光によってぼんやりと浮かび上がっていた。
かつての戴冠式では、この空間は民衆であふれ、音楽と歓声と祈りが交差していた。
だが今夜は違う。
主だった諸侯、将軍、神官、枢密院筆頭、記録官、そして宮廷楽師――いや、楽師はいなかった。
楽は奏されず、詩も語られない。
沈黙。
ただその中心に、白銀の礼装を纏う少女がひとり、立っていた。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。
神聖アルディア皇国、第六子にして最後の王位継承者。
白地に銀糸の織紋を配した礼装は、どの派閥の意匠にも属さず、中立を象徴するものだった。
胸元に添えられた母王妃の形見のブローチだけが、静かに王家の記憶を刻んでいた。
彼女は玉座の正面に立ち、顔を上げていた。
まっすぐに、静かに。
誰にも媚びず、誰の視線にも逃げず。
その眼差しは、全員に「見られている」のではなく、「見返している」印象を与えた。
その場に居合わせた者の多くは、気づかぬままに息を殺していた。
緊張ではない。
圧力でもない。
ただ――この者の前では、自らの“軽さ”が、あまりにも際立つと、直感していた。
◆
重く低く、鐘が鳴る。
七度。
王宮における継承の宣言を告げる、神聖の数。
祭司が進み出て、古の継承文を読み上げた。
その声はよく通り、清澄で、感情を含まない。
だが、だからこそ、その文言が突き刺さる。
――王は神の名を借りて民を治め、民の声によってその冠を受けるべし。
誰もが思っていた。
過去の王たちは、それを果たせたか?
次々に読み上げられる王たちの名。
レオニダス、アントニウス、マクシミリアン、ユリウス、フェルディナント。
それぞれの名に、列席者の誰かが目を伏せる。
誰もが、誰かの時代で失ったものを持っていた。
そして。
「アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア――」
その名が響いた瞬間、空気が緊張した。
「……お待ちください」
少女の声。
小さく、しかし玉座の間の石壁すべてに跳ね返るほど、確かに響いた。
祭司が驚きに目を見張る。
貴族の中にざわめきが走る。
だが誰も、それを制することはできなかった。
少女は階段をゆっくりと登る。
王冠の前に立ち、振り返る。
その瞳に宿った意志を前にして、誰もが黙した。
「皆様に、申し上げます」
アウレリアの第一声は、まるで誓いのようだった。
「私は、ここに立っています。
王族としてでも、女としてでもなく。この国に生きる一人として、ここに立っています」
沈黙。
「五人の兄たちが王座を継ぎました。
誰もが、正しさを信じていたと、私は知っています。
けれどその正しさは、民の声を聞くことなく、理念に堕していった」
私は、聞きました。
広場の叫びを。飢えた母のすすり泣きを。誇りを踏みにじられた兵士の怒号を。
耳を傾け、目を凝らし、記録を追い、沈黙の奥にある声に触れました」
言葉に力はなかった。だが、重みがあった。
「私は、民の声を聞く者として、ここに立ちます。
王座に就く者が為すべきことは、命令でもなく、装飾でもありません。
それは、痛みを引き受ける覚悟。怒りを抱きしめる意志。そして、迷わずに前を向く目。
私は、民のために、王冠を求めません。
民が私を、冠にふさわしいと認めるその日まで、私は王座に在るだけです」
そして、彼女は跪いた。
「この冠は、掲げられるべきものです。
掲げるのは、私ではなく、国の未来であるべきです」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
それは式辞ではなかった。
演説でもなかった。
それは、誓いだった。
魂の奥に届く、真実だけを編んだ言葉だった。
アウレリアが立ち上がると、王冠は触れられぬまま、その場に残った。
だがその時、玉座の間にいた誰もが理解した。
――この者こそ、真に王たる資格を備えている。
その瞬間、政治の空気が動いた。
貴族たちは、彼女を都合のいい傀儡ではなくなったと悟り、
軍は、この少女のもとに忠誠を誓えば己の誇りを取り戻せると感じ、
宗教界すら、その言葉の中に“真なる祈り”を感じ始めていた。
そして、彼女は振り返り、最後にただ一言、誰にも聞かせることなく呟いた。
「……ここから、私の国が始まる」
その声は、誰にも届かないかに見えた。
だが、その瞬間、王都の夜風が変わった。
その夜、王国に新しい時代の空気が、確かに流れ込んだ。
かつてこの国は、七つの州と三十六の貴族領を束ねる大帝国として栄華を極めた。
豊饒なる農地、整った街道網、洗練された文化と芸術。
“神の血を引く王家”として知られるアルディア王家は、その威光をもって大陸全土にその名を轟かせていた。
だが、すべては過去の栄光にすぎない。
今や王都には飢えと憤怒が満ち、かつて香水と詩と音楽に満ちていた宮廷には、沈黙と不信が立ち込めていた。
その始まりは、現王――エウゲニウス四世の崩御であった。
王は長く病を患い、政務を重臣たちに委ねていた。
軍と貴族、宗教界と民会派。各勢力の対立は年々深まり、王国はすでに「誰が支配しているのかも分からぬ国」とさえ言われる始末だった。
そんな中、王が崩御。王位は、慣例どおりに長男レオニダスに継承された。
長男のレオニダス一世は真面目な男だった。生真面目すぎるほどに。
儀礼と慣習を重んじ、古の統治哲学を身に刻み、王たる者は「在る」ことで国を導くという、伝統的な王道を体現していた。
彼の即位は、当初こそ一定の安堵をもたらした。
「ようやく王家に正統が戻った」――そう囁く声もあった。
だが、動乱の時代において、静寂は致命的である。
貴族たちは自派の利権拡大に奔走し、軍部は戦費の拡充を求めて圧力をかけた。
外交は硬直し、北方との穀物貿易が破綻。
飢えた民は市場を襲い、税務官は命を落とし、街は悲鳴に満ちた。
レオニダスは、動かなかった。
動こうとしなかったのではない。
“動くことが許されない”と、彼は信じていたのだ。
「王は、民の上に立つ象徴たるべし」
彼は、自らの王位に神性を重ねすぎていた。
即位より一年。王宮前に飢えた暴徒が押し寄せた日、彼は玉座を降りた。
護衛たちの手に支えられながら、レオニダスは城を去った。
その表情は、どこまでも清らかで、どこまでも無力だった。
次に王位に就いたのは、次男――アントニウス。
アントニウス二世は、かつて軍学校を首席で卒業し、王家の武門として高い評価を受けていた男である。
「王には決断と行動が必要だ」と語る彼の登場に、民はわずかな希望を見出した。
即位後まもなく、アントニウスは王都各地の暴徒を軍で鎮圧し、秩序を回復。
彼は確かに行動した。恐れず、迅速に。
だが、軍による統治はあまりに粗暴だった。
王命という名のもとに、民の家が焼かれ、反対派の指導者が処刑された。
将軍たちは次第に王を“名目”とし、自らの派閥争いに明け暮れるようになる。
軍閥同士の対立はやがて武装衝突を招き、王都では兵士同士の小競り合いが頻発した。
ある夜、城下で起きた銃撃事件により、幼子が命を落とした。
それが、決定的だった。
市民連合と貴族会議が共同で退位を要求。
軍の一部も沈黙を選び、アントニウスは王宮を出た。
“軍の王”は、在位わずか十一ヶ月で終わる。
三男マクシミリアンは、王子の中でもとりわけ知性を誇る人物であった。
若き日に諸外国で学び、数理と統治学、経済学に通暁し、「理性の王」としての誉れ高い存在だった。
王国の台帳に初めて体系的な収支分析を持ち込み、歳入歳出を明文化したのも彼の功績だった。
即位にあたり、彼は一言こう述べた。
「王国に必要なのは、血筋ではなく法と秩序である」と。
彼はまず財政改革に着手した。王家や貴族の浪費を削減し、国庫を監査し直し、支出を抑えた。
続いて租税制度を見直し、徴税官の権限を制限しつつ税収を安定させようと試みた。
だが――計算された数値の美しさと、民の暮らしの現実は、似て非なるものだった。
机上で成り立つ案は、王都から遠く離れた農村では機能しなかった。
平民にとって増税は単なる生活費の圧迫でしかなく、富を持たぬ者から取り立てられた税は、流通に回る前に命を奪った。
市場は停滞し、金は動かず、失業者が増え、炊き出しに列をなす民の数は日に日に膨れ上がった。
それでもマクシミリアンは、改革を止めなかった。
「これを越えれば、必ず豊かになる」と信じていた。
理性はあれど、現実に触れなかった。
彼の周囲には、似たような知識人ばかりが集まっていた。
やがて、王都南部で“飢餓暴動”が起きる。倉庫が焼かれ、貴族の屋敷が襲撃された。
軍を出動させて鎮圧はしたが、血を流したのは武器を持たぬ者たちだった。
「王が、民を殺した」――そう広まるには、時間はかからなかった。
その冬、宮廷にて彼は何者かに刃を向けられ、静かに命を落とした。
犯人は捕まらなかった。捕まえられなかったのか、あるいは捕まえる気がなかったのか。
民は沈黙し、官吏は顔色を失い、貴族たちは次の動きを探り始めていた。
四男ユリウスは、先王の子の中で最も「信仰深い」と言われた男だった。
幼き日より神殿に通い、厳格な神学教育を受け、礼儀正しく、温和な物腰で知られていた。
即位にあたり、ユリウスは王国教会と協定を結び、聖務官僚たちを政務に迎え入れた。
その治世は「徳政」と称され、民に対しても穏やかな説教と施しが行われた。
最初の数ヶ月、王都は久々に穏やかな空気に包まれた。
だが、宗教は人の魂を癒すと同時に、束縛もする。
“神の意志”を盾にした統治は、やがて思想統制を生み、書物が焚かれ、異端審問が復活した。
古の宗教と対話していた学者たちは投獄され、改革派は弾圧され、自由思想家は密かに国外へ逃れた。
教会の影は王宮の壁を越え、貴族すらも“信仰の誠”を問われるようになる。
誰が味方で誰が敵か、王都に生きるすべての者が互いを疑い始めた。
そして、神殿上層部は告げた。「王は、神意に背いた」と。
信仰をもってしても、混乱は収まらなかった。
ユリウスは聖別を剥奪され、王位は空席となった。
その翌日、彼の姿は宮廷から消え、誰もその行方を語ろうとしなかった。
五男フェルディナントは、若く、快活で、民衆の間で人気があった。
四王都は一時的な熱狂に包まれた。
だが、理想と現実は別物だった。
フェルディナントは、政治という獣を制御する技量を持たなかった。
日々の発言は二転三転し、補佐官の進言を拒んでは後に後悔し、誰に任せてよいのかも分からずに混乱を深めていった。
貴族たちは静かに見ていた。やがて、微笑んだ。
軍と宗教界は様子を伺い、民衆は次第に失望を覚えるようになる。
三ヶ月後、貴族派が動いた。
静かなるクーデターにより、王宮は占拠され、フェルディナントは拘束された。
宮廷の最も高い塔へと幽閉され、以後、姿を見た者はいない。
こうして、五人の王子が次々に王位を継ぎ、すべてが崩壊した。
神聖アルディア皇国は、事実上の無政府状態へと突入する。
そして、王宮の最奥。
誰にも顧みられることなく、ただ一人残された姫がいた。
名を――アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。
王家第六子。唯一の王女。
十歳で母を亡くして以降、彼女は公務にも祝宴にも姿を見せなかった。
政治には興味を持たぬ、飾りの姫。そう思われていた。
だが、彼女は見ていた。
王国が傾く様を、兄たちの在り様を、民の嘆きを、貴族の傲慢を、すべて――
ただ静かに、言葉ひとつ発せず、記憶に刻んでいた。
そして、フェルディナントの退位が決まった夜。貴族会議が次の“傀儡”を探して奔走していたそのとき。
玉座の間の扉が、音もなく開いた。
白き礼装を身にまとい、整えられた金髪を肩に垂らし、
王冠を戴かぬまま、彼女は真っ直ぐに玉座の階段を登った。
その瞳は冷たく、澄んでいた。
どこまでも正しく、どこまでも厳しく、そして、どこまでも――美しかった。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。十七歳。
王座の“白き影”は、ついに光の中へと歩み出た。
◆
五人目の兄王が倒れ、王宮の塔に幽閉された翌朝。
玉座の間には誰の姿もなく、赤絨毯は陽の差さぬ冷気に覆われていた。
その空席こそが、王国の末期を象徴していた。
「王家は終わった」
その言葉は、宮廷の隅々にまで沁み渡っていた。
かつて玉座を囲んでいた老臣たちは沈黙し、貴族たちはお互いを牽制しながら“次なる傀儡”を探していた。
彼らの目は、互いに探り合い、利のない名前には目もくれず、自らの系譜と結びつけやすい血を探していた。
だが、王家に男子はもういない。
正統なる血を引く者で、まだ戴冠していない者は、ただ一人。
少女であるという理由だけで、誰もが見過ごしてきた存在。
一人の少女が、あまりにも静かに、そして確かに、最後の王家の継承者としてそこにいた。
王都の街角には、かつての賑わいなど影も形もなかった。
市場では商人が商品を広げることもなく、パン屋の前には日の出前から長蛇の列ができる。
兵の姿が見えれば、誰もが道の端に退き、目を伏せた。
人々は怒っていた。だが、怒ることにも疲れていた。
「また新しい王か」
「また新しい税か」
「また新しい粛清か」
怒号は呟きへと変わり、呟きは諦めへと変わる。
五度に渡る政変。飢え、戦い、重税、暴力、信仰の強制。
民はもはや、誰を信じればいいのかさえ分からなかった。
街では噂が流れていた。
「次の王は、貴族の中から選ばれるらしい」
「いや、軍が臨時評議会を設置するそうだ」
「教会が教王制を布くつもりらしい」
そのどれもが、恐怖の延長線でしかなかった。
貴族たちは利権にしか興味がない。
軍は恐怖をもって統制する。
宗教は命よりも信仰を重んじる。
ならば、誰が“この国”を守ってくれるのか。
誰が、民に食を与え、住まいを与え、未来を与えてくれるのか。
誰も、答えを持たなかった。
王宮の奥、かつて王妃たちの住まいであった離宮。
白と金を基調とした静謐な空間の奥に、ひとりの少女がいた。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。
神聖アルディア皇国第六王女。十七歳。
彼女の部屋には、花が飾られていた。季節外れのスミレ。亡き母が好んだものだ。
静かに風がカーテンを揺らし、硝子の窓には淡い曇りが浮かんでいた。
彼女は座っていた。膝の上には分厚い記録帳。ページには、過去の王政の出来事が細やかに記されていた。
筆跡は整然としており、余白には注釈が記され、全体を通じて冷徹な分析が並んでいた。
その顔立ちは、王家に連なるものの中でも際立って整っていた。
絹のような金髪、陶器のような白い肌、そして何より、深い紫の瞳が印象的だった。
それは感情を映さぬ鏡のようでいて、何かを測るようにすべてを見透かしていた。
彼女は子どもの頃から、誰よりも静かだった。
七歳で文字を覚え、八歳で古代語を読んだ。
九歳で地図を描き、十歳で国家制度に関心を持った。
誰かに強制されたわけではなかった。
ただ、目の前にあるすべてが「なぜこうなっているのか」を知りたかっただけだった。
十五歳の時、彼女は兄たちの政務記録を求め、誰にも告げずに読み漁った。
彼らが何を見落とし、何を誤り、何に敗れたのか。
それを、ただ淡々と記録していた。
涙も、怒りも、嘲りもなかった。
ただ、冷静に、整然と、事実を知ることだけを求めていた。
◆
「姫様……」
執務長である老臣ヴォルクが、震える声で口を開いた。
アウレリアは顔を上げる。
「王宮評議会が、貴族連合から新たな統治者を出すと……つまり、姫様は、継承権を……」
その言葉は、未完成なまま空気に消えた。
アウレリアはただ、彼をまっすぐに見つめていた。
何も言わず、何も責めず、ただ静かに。
「……願わくば、姫様のお力を。いや、姫様こそが、この国の最後の……」
ヴォルクの目には、涙が浮かんでいた。
老いた臣は、すべてを見てきた。
王国の誇りも、腐敗も、崩壊も。姫君の沈黙も、その眼差しも。
「この国を見てきたのですね」
アウレリアが初めて言葉を発した。
その声は柔らかく、けれども明確に空気を震わせた。
「王というものが、誰かの望む偶像ではないことを、私は知りました。
兄たちは、愚かだったのではありません。ただ、“王であること”を、誤解していたのです。
私は、玉座を飾るつもりはありません。私が継ぐのは、血統でも、栄光でもない。
私が継ぐのは――責任です」
彼女の言葉に、ヴォルクは静かに膝をついた。
「私が戴冠すれば、貴族も軍も、教会も動くでしょう。善くも悪くも。
けれど――このまま沈黙することの方が、よほど恐ろしい」
少女は立ち上がった。
まるで、ずっとそのときを待っていたかのように。
「私は、継ぎます」
その言葉に、空気が凍った。
まるで王座が、彼女の声に反応したかのようだった。
「王冠は、まだ誰にも渡っていない。
それならば、私が受け取りましょう。
この国の希望が、まだ息をしているうちに」
◆
夜が、王都を静かに包んでいた。
石畳に落ちた灯の影は長く伸び、王宮を取り巻く風は季節外れの冷たさを帯びていた。かつて栄華の象徴であった黄金の尖塔は、灯火を絶たれたまま黒々とした輪郭を空に刻み、まるで過去の幻を指し示す墓標のように立ち尽くしている。
王宮前広場には衛兵が立つのみ。誰もいない通りに、僅かな鳥の羽音と、風が布を揺らすかすかな音が交錯する。
それは、“終わった国”に、静かに新しい拍動が訪れようとする前の沈黙だった。
◆
玉座の間は、広く、静謐だった。
祭殿建築の最高様式である列柱が並ぶその空間は、石材の光沢に星図を映し出すように設計されている。
今宵はその天蓋に描かれた星が、天窓から差し込む微光によってぼんやりと浮かび上がっていた。
かつての戴冠式では、この空間は民衆であふれ、音楽と歓声と祈りが交差していた。
だが今夜は違う。
主だった諸侯、将軍、神官、枢密院筆頭、記録官、そして宮廷楽師――いや、楽師はいなかった。
楽は奏されず、詩も語られない。
沈黙。
ただその中心に、白銀の礼装を纏う少女がひとり、立っていた。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。
神聖アルディア皇国、第六子にして最後の王位継承者。
白地に銀糸の織紋を配した礼装は、どの派閥の意匠にも属さず、中立を象徴するものだった。
胸元に添えられた母王妃の形見のブローチだけが、静かに王家の記憶を刻んでいた。
彼女は玉座の正面に立ち、顔を上げていた。
まっすぐに、静かに。
誰にも媚びず、誰の視線にも逃げず。
その眼差しは、全員に「見られている」のではなく、「見返している」印象を与えた。
その場に居合わせた者の多くは、気づかぬままに息を殺していた。
緊張ではない。
圧力でもない。
ただ――この者の前では、自らの“軽さ”が、あまりにも際立つと、直感していた。
◆
重く低く、鐘が鳴る。
七度。
王宮における継承の宣言を告げる、神聖の数。
祭司が進み出て、古の継承文を読み上げた。
その声はよく通り、清澄で、感情を含まない。
だが、だからこそ、その文言が突き刺さる。
――王は神の名を借りて民を治め、民の声によってその冠を受けるべし。
誰もが思っていた。
過去の王たちは、それを果たせたか?
次々に読み上げられる王たちの名。
レオニダス、アントニウス、マクシミリアン、ユリウス、フェルディナント。
それぞれの名に、列席者の誰かが目を伏せる。
誰もが、誰かの時代で失ったものを持っていた。
そして。
「アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア――」
その名が響いた瞬間、空気が緊張した。
「……お待ちください」
少女の声。
小さく、しかし玉座の間の石壁すべてに跳ね返るほど、確かに響いた。
祭司が驚きに目を見張る。
貴族の中にざわめきが走る。
だが誰も、それを制することはできなかった。
少女は階段をゆっくりと登る。
王冠の前に立ち、振り返る。
その瞳に宿った意志を前にして、誰もが黙した。
「皆様に、申し上げます」
アウレリアの第一声は、まるで誓いのようだった。
「私は、ここに立っています。
王族としてでも、女としてでもなく。この国に生きる一人として、ここに立っています」
沈黙。
「五人の兄たちが王座を継ぎました。
誰もが、正しさを信じていたと、私は知っています。
けれどその正しさは、民の声を聞くことなく、理念に堕していった」
私は、聞きました。
広場の叫びを。飢えた母のすすり泣きを。誇りを踏みにじられた兵士の怒号を。
耳を傾け、目を凝らし、記録を追い、沈黙の奥にある声に触れました」
言葉に力はなかった。だが、重みがあった。
「私は、民の声を聞く者として、ここに立ちます。
王座に就く者が為すべきことは、命令でもなく、装飾でもありません。
それは、痛みを引き受ける覚悟。怒りを抱きしめる意志。そして、迷わずに前を向く目。
私は、民のために、王冠を求めません。
民が私を、冠にふさわしいと認めるその日まで、私は王座に在るだけです」
そして、彼女は跪いた。
「この冠は、掲げられるべきものです。
掲げるのは、私ではなく、国の未来であるべきです」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
それは式辞ではなかった。
演説でもなかった。
それは、誓いだった。
魂の奥に届く、真実だけを編んだ言葉だった。
アウレリアが立ち上がると、王冠は触れられぬまま、その場に残った。
だがその時、玉座の間にいた誰もが理解した。
――この者こそ、真に王たる資格を備えている。
その瞬間、政治の空気が動いた。
貴族たちは、彼女を都合のいい傀儡ではなくなったと悟り、
軍は、この少女のもとに忠誠を誓えば己の誇りを取り戻せると感じ、
宗教界すら、その言葉の中に“真なる祈り”を感じ始めていた。
そして、彼女は振り返り、最後にただ一言、誰にも聞かせることなく呟いた。
「……ここから、私の国が始まる」
その声は、誰にも届かないかに見えた。
だが、その瞬間、王都の夜風が変わった。
その夜、王国に新しい時代の空気が、確かに流れ込んだ。