茜空はオレンジ色に輝き、明日へとつながっていく
6月上旬、梅雨の晴れ間でかなり蒸し暑い朝だった。
とある商社に勤める石田茜は今日の大切なプレゼンを控えずっと寝不足だった。緊張もしている。
もう33歳。この辺で結果を残したい。残せばみんなからの信頼も得られ、立場的にも有利になるだろう。そして何より、あの人ともっと近づけるかもしれない…
仕事、これからの人生、誰にも言えないある悩み。朝から色々なことが頭の中を巡っていた。
そんなことを考えながら、プレゼンに向け、お化粧にいつもより気合いが入った。普段より眉毛を少しだけ濃いめに描き、薄くアイラインも入れてみた。
どちらかというと童顔。背も小柄だし、頼られるというより、心配されるタイプ。それが自分の長所だと思ったことはない。
湿度の高さのせいか、髪の毛のセットにも時間が掛かってしまった。
もっと早起きしなきゃいけなかったな…朝食を摂る時間も足りなくなってしまった。
いつもより早い電車に乗らなければならないため、もう行かなきゃ!と少し慌てて家を出た。
寝不足と緊張、疲れ、朝食をあまり摂れなかったことで少し身体が重い。
でも今日を乗り切ればまた違う景色が見られる、そんな思いで駅まで歩く。
10分ほど歩き駅に着いた。今日はいつもより蒸し暑い。汗をたくさんかいてしまった。せっかく気合い入れて身支度したのに…と足早にホームへと向かった。
いつもと同じ朝の風景ではあるが、プレゼンへの期待と不安でいつもの場所と少し違って感じる。
そんなことを思い歩いていた。そしていつものレーンに並ぼうとしたその時…
突然目の前が真っ白になった。(え…)その時自分では既にどうすることも出来なかった。自分の身体が自分から離れていくような……
気が付いた時、目の前には若い男性がいてこっちを見ていた。(私、どうしたんだろう…)何も覚えていないし、視界が霞んで靄がかかっている。
すると遠くで「よかった!」と声が聞こえた。
だんだんその声は近く感じられた。人の足が見える。(あれ、私倒れちゃったのかな…)とようやく気が付いた。ホームに横たわっていた。
目の前にいる男性もはっきり見えるし、声も聞き取れるようになってきた。
「あ、私……ごめんなさい!!」
恥ずかしさと、出勤途中ということを思い出した焦りで立とうとした。
「あっ、痛い…」
足が痛い。そして頭も痛い。
すると目の前にいた男性は、若いがとても冷静にこう言った。
「落ち着いて聞いて下さい。あなたは今ここで倒れてしまいました。」
それは何となくわかっている。恥ずかしいから早く言ってほしい!
「私は順東大学病院の医師です。今から僕と一緒に僕の勤め先の病院へ一緒に行きましょう」
え、お医者さん…?いや、でも勝手に決めないで!
「私…そう!今日大事なプレゼンがあるんです。それは絶対に外せないんです!病院に行ってる場合じゃ……」
と言ってまた立とうととするが、自分一人では立てない。
彼はそりゃそうだと少しあきれたように、
「会社には連絡して下さい。私は医師としてあんな倒れ方をした人を放っておけません!」
やさしい顔立ちなのに、ちょっと厳しい口調、でも若いのに頼もしいなぁ、やっぱりお医者さんてすごい…と心の中では感心していた。
でも勝手に決めないで!私の人生のターニングポイント、それは私にしかわからない。
いや、でも足や頭、ひどい打ち方をしてしまったようだ…。やっぱりこの人が言うように無理かなぁ、無理かもしれないな…
「ちょっと立ってみます。すみませんが手を貸して下さい」
と言って恥ずかしいが手を借りた。
なぜか捻挫もしているようだ、足首も痛い。ヒールでよろけた、そして朝あまり食べられなかったのも原因かも…そしてこの湿度や疲労、緊張…
私結構無理してたのかな…
ふと我に返り、上京してからのことを何となく思い出していた。
地元の大学を卒業してから上京して、10年ほど頑張ってきた。
地味なタイプの私は東京で就職したいという気持ちを心のどこかで持ちつつも、やっていけるのか自信はなかった。友達にも家族にもなかなか言えず、自分の中に秘めていた。
それでも就活が始まり、自分に正直でありたいと真剣に思うようになってきた。それは自分の中にある、ある思いを断ち切るためでもあった…
その思いが私を縛っていたというのも事実だったため、そこから卒業もしたかったのだ。
ヒールでよろけた私を、しっかりと支えてくれたこの男性…まだ若いけど、自分は医師だと言って、頼りがいもありそうだ。しかも一緒に自分の病院へ行こうとまで言ってくれている。
私は倒れてしまったが、とても運が良かったのでは?と思った。
こんな所で嘘を言う人はいないだろうし、そんな嘘はすぐにバレてしまう。
頭の中ではこれまでのこと、今の状況、そして今日これからのプレゼンについて、たくさんのことが頭の中を駆け巡った。が、意外と冷静でいられた。
そして彼の目を見ると少し信じられそうな目をしている。純粋で、無垢だ。あれ?私の好きな目…
手を借り、何とか立てた私は、彼に支えられながら改札へと向かった。
優しく上手に身体を支えられ、痛みはあるが何とか歩けた。男性とこんなに触れ合ったことは今までなかったのであまりいい気持ちはしなかったが、そんなことを言っている場合ではない。そして改札を出た。
待機していたタクシーに乗り彼が行き先を告げると、
「病院につくまでゆっくり休んでて下さい。」
と言ってくれたが、会社には連絡しなければ…と、電話をした。
すぐに状況を分かってもらえてほっと一安心した茜は眠くなって病院に着くまでの間眠ってしまった。
実は彼にもこの朝の出来事で、驚く事が起きていた。
落ち着いたように対応していたが、彼の心の中は居てもたってもいられなかった。この倒れた女性、以前付き合っていた女性にとても似ているのだった…
顔の造りがとてもよく似ている、背格好や雰囲気は少し違うが、とにかく顔がよく似ていた。
倒れた彼女を最初に見た瞬間(彩夏?)と思ったほど似ていたのだ。
今こうして横でウトウトしているが、やっぱり横顔も似ている…
身体は彩夏より小柄なので本人ではないと分かるが、こんなことがあるのかと驚きを隠せなかった。
だが、医師と倒れた人という関係上、そのような私情を挟むことはあってはならない。ここは冷静に対応しなければならない、と自分に言い聞かせ何とか対応したのだった。
少しの間深く眠ったが15分ほどで到着したと思う。何とも言えない安心感…始めて会ったはずなのに、とても安心している自分がいる。
そして病院の玄関には、あらかじめ彼が連絡してくれていたため看護師さんが車椅子を用意して待ってくれていた。なんて仕事が出来るんだろう…と感心していたのも束の間、広い病院内を進む。
しばらく待って診察室へ。そこには先程の彼が…
さっきまでとは少し違って、かしこまっているからか何だか照れくさい。白衣を来ているのも、当たり前ではあるが、何となく照れくさい。
でもいや、私は怪我人で、彼はそれを目撃した通行人、そしてたまたまお医者様だったというだけの話なんだ。それ以上でも以下でもない!
となぜか自分に言い聞かせている。
そして診察が始まった。
痛みなどを聞かれ、やはり頭を打ってしまったようで痛みがあった。痛い部分を伝えると、その部分の髪の毛を掻き分けて診てくれた。顔と顔の距離が近い、とても近い!でも患者と医師だから当たり前じゃないかと言い聞かせるのに必死だ。
腫れてきているとのことで冷やしてもらい、この後MRIを撮ると言う。
そんな大げさな…とは思ったが、頭のことなので万が一があっては大変である。
彼は先程までとは違い、少しよそよそしかったが、もちろん医師と患者なので当たり前のことだ。
しばらくMRIを待っている間、自分は今後男性とお付き合い出来るのか?と考えていた。
話すこともぎこちなくなってしまうくらい、男性に対して緊張してしまうのだ。
まわりの同僚は、当たり前だが皆んな普通に男性と会話している。それなのに私は必要なことを手短に伝えるだけ。愛想も悪いよな…と落ち込む。
そんな自分があまり好きではなかった。本当ならもっと普通に男性も女性も関係なくコミュニケーション取れたら楽だし、なんて楽しいんだろうといつも思っている。
この社会は人との関わりなしでは生きていくことは難しいからな…とまた一人落ち込んでしまっていた。
そんな事を考えていたらMRIの順番が来た。何事もなければいいけど…
その後の診察で、MRIの結果は特に問題はなかった。が、かなり腫れてきているし、強打していることで、何かこの後起きるかもしれない。それに今日はもう職場にも連絡してあり、プレゼンも延期にしてもらえた。
彼は私に診断結果を伝え、一泊の入院をすすめてきたのだ。
それはもちろん医師としてだろうが、少しうれしい気持ちにもなった。
このまま今晩一泊の入院をすることに決めた。
病室に入り、ベッドで横になった。
プレゼンに向けた準備でかなり疲れているし、睡眠不足も続いていた。毎日遅くまで資料の準備もした。
でも彼がいたから頑張れた。
その彼というのは、社内では人気があるが、もう結婚している男性だったのだ。
茜は曲がったことは嫌いであるし、男性への苦手意識がある。
それなのに何故既婚の男性なんかを好きになってしまったのか?
それは上京してすぐのこと。今の会社に入社してすぐ、茜は22歳、彼は10歳年上だったがまだ結婚はしていなかった。
同じ部署ではなかったが、顔を見れば挨拶してくれたり、とても感じのいい人で、自分にしては珍しく親近感がわいていた。誰にでも優しい人ではあったが、特定の彼女はいないようだった。
それがその3年後、取引先のとても美しい、それでいて愛嬌のある女性と結婚することになったのだった…
噂話もなければ、女性の影もなく、いつもみんなに優しい上司の模範のような方。そんなやさしさや真面目さが好きだったのだが、やっぱりそんな人を放っておくわけないんだ。と、自分の不甲斐なさをまた突きつけられたのだ。
その後まだ諦めきれなかった茜であったが、その1年後、彼と同じ部署へ配属になったのだった。
根から真面目な茜は、今までも頑張ってきたが俄然やる気が違う。
茜の気持ちなんて知らない彼は茜に対して、真面目に仕事をしてくれる部下、とただそれだけの存在だった。女性としてはもちろん見てはもらえなかった。
見てもらったところで彼はもう既婚者だ。私が入る余地はない。
だが今回プレゼンのチャンスが来たのだった。
今までにもチームでそのような機会はあったが、今回は彼からの企画を私一人に任せられたのだった。
彼と出会ってもう長い年月が流れ、その間切ない思いを抱えてきた。
彼が結婚してからはもうこの気持ちは無くすように自分に言い聞かせてきた。それでも最初に抱いた憧れのような気持ちは今でもあったのだった。
でもそれが仕事を頑張るモチベーションにもなっていた。
毎日顔を合わせ、ずっとあたたかい気持ちをくれる彼には感謝しかなかったのだった。
病室では忙しそうに働く看護師さんの声がして慌ただしいが、気持ちはホッとして心身共に休めていた。
こんなに安心したのは久しぶりだった。上京してからというものずっと一人で頑張ってきた。
母はたまに来てくれては私が好きだったおかずを作り置きしてくれて、1日、2日で帰ってしまう。その間はたくさん昔の話をしたり、今こんな感じだよと話を聞いてくれる。やさしい母ではあるが、私と違って感情が激しく時についていけないところがある母だ。
一方父は…
実は父は茜が12歳の時に亡くなってしまっていたのだった。
たくさんの記憶があるわけではないが、写真やビデオで見る父は本当にかっこよくて自慢の父だった。
茜という名前も父が付けてくれた。
母の陣痛が始まったと連絡を受けた父が病院へ行くまでの間、夕焼けの茜空が美しかったこと…
父は病院に到着してすぐに「名前は決まった!茜にしよう!」と病室へ入ってきたと何度も母から聞かされた。
その話を母がする時の父の照れくさいような誇らしいような顔は今でも憶えている。
私はそんな感覚を持っていた父のことが大好きだった。
たくさんのことを教えてもらった。
太陽や月のまわりに光の輪が出来て、その後雲が厚くなると雨が降るとか、雨が上がったあと、太陽と反対側に虹が出ることとか、
飛行機雲がなかなか消えない時、天気は下り坂とか。
私の名前の由来は夕焼け空だけど、夕焼けとひとくちに言ってもオレンジ、ピンク、赤、紫と色も様々で。
オレンジ色だと翌日は晴れることが多く、真っ赤だった場合は空気中に水蒸気が多く、太陽の赤い光が強く散乱することで鮮やかな赤色に染まるから、低気圧が近付いてるらしい、とか、そういう観天望気をたくさん教えてくれた。そんな空が大好きだった父のことが大好きだったし、尊敬していたのだった。
父がやさしい声で話してくれる空の話…至福の時間…だから私は空を見上げることが好きになったし、空を見ると父が私を見守ってくれている気がする。
でもそんな父との思い出といつまでも離れられずに今でもいるのだった。
そんな自分がおかしいのかな?と思う時もある。いや、父のことを大好きだったり、いつまでも忘れないでいることは恥ずかしいことでも、隠すことでもないと思うんだ。
かと言って誰かに話すことでもない。
私だけの大切な思い出…
だけど、そのせいでもしかしたら男性と距離をおいてしまうのかもしれないと最近思い始めていたのだった。
父があまりにもカッコよくてやさしくてなんでも知っている、私にとって完璧過ぎたため、そこが男性に求める基準になってしまっているのではないか。
だとしたら私いつまで、この思いを引きずっているんだろうか、断ち切るために実家を離れたんじゃないのか、実家を出て10年以上経ったのに、私何してるんだろう……
そして来月には34歳の誕生日を迎えてしまう。一人の女性として少しでも、何か人並みでいい、何かを変えたいと真剣に考え始めていた。
今まで一人忙しく毎日必死に家と職場の往復、自分のことについてゆっくり考えることもあまりして来なかったし、避けていたように思う。
でももう33歳。色々なことから逃げていたら、きっとこのまま人生何も起こらないまま終わってしまう。
それでもいいと思ったこともあった。いつまでも一人でもいいと思ったこともあった。でもきっと父も母もそれは望んではいないだろう。
母はストレートな人だから「彼氏まだ出来ないの?」と聞いてくる。そのたびにすぐに話をそらしたり、濁したりするが、しつこく聞いてくるような人だ。でもそれは仕方ない、一人娘の行く末は心配に決まってる。
でも父への想いを母には言えない。「そのせいで」となれば話は違ってくるだろう。
だからそれは母には当然話せない。
私は常に自分の中でそれを反芻しなければならなかったのだった。そんなにつらいと思ったことはなかったけど、よく自分を見つめてみた時に、そこが足枷になっていたことに、ようやく今気が付いたのだ。
今朝ホームで倒れたことによって、私はほんのひととき自分を見つめ直す自由な時間が出来た。こういう時間、そういえば全然なかったな。
マメなタイプだから食事もきちんと作るし、きれい好きだから掃除も洗濯も好き。趣味はと言えば、自分があまりにも実生活にはないため、やはり恋愛を描いたドラマや映画、本を読むことも好き。休みの日はそれらのことをしていれば1日あっという間に終わってしまう。
私やっぱり何してるんだろうか…
自分の人生、その繰り返しで終わりたくないよ…!!
考えていたら少し眠ってしまっていた。とても気持ちが良かった。ぐっすり深い眠りだった。何となく父が夢に出て来てくれた気がしていた。
病室の窓から空が見えた。日が傾きかけていたが、梅雨の重たいジメッとした空が広がっていた。でもその曇り空の向こうから私を応援してくれているような…薄っすらとそんな気配が残っていた。
ウトウト考えていたら、
「石田さん、失礼します。調子はどうですか?」
と彼の声がした!あ、あ、先生!!
カーテンを開けてもいいかと聞かれ、入って来られた。
頭や足の痛みなどを聞かれた。痛みはまだあったが、酷い痛みではなく、今眠っていたことを伝えた。
先生は、
「あ、そういえば名前言ってなかったですね。中村と申します。中村真一郎です。」
とおっしゃった。
改めて顔をよく見た。いわゆるイケメンである。小顔でさっぱりとした目鼻立ち、程よく細身で身長も高め。助けてくれた方がお医者さんというだけでも運が良かったが、さらにイケメンとは…
今まであまりくじ運だって良くない。スピリチュアルな引き寄せみたいなのも経験したこともない。可も不可もない、とにかく普通の人生だった。
「中村…先生、ですね。あ、今日は本当にありがとうございました!!」
「いえいえ、大したことなくてよかったです。今晩一晩ゆっくりここで過ごして下さい。明日の10時には退院となるので、帰ったらまたきっと大変でしょうから。あ、このあと17時から夕食です。食べられそうですか?」
お腹は空いている。
「あ、はい、お腹空きました」
「それはよかった。じゃあ食べて、その後もゆっくり休んで下さいね。では」
「あ、先生…」
と言ったが聞こえず、行ってしまった。
(なかむらしんいちろうさん、か…いいお名前だな)と考えながら茜はすぐにバッグから鏡を出して自分の顔を見た。朝念入りに施した化粧が多少崩れてはいたが、まだほぼそのままだった。よかった!ひとまず外見はみっともなくはなかったと胸を撫で下ろした。
外見はそれなりに整っているとよく言われる顔立ちだ。でも性格がおとなしいためか目立たない。気が付くと「結構可愛い顔してるんだね」と言われるタイプ。
でも目立つことが苦手だからそれくらいでいいのだ。
医師の中村は帰路についた。今日一日の事を考えていた。
顔がよく似ているということはよくあることなのだろうか…いや、今まで見たことない。どことなく似ているという人がいたとしても、どことなく程度だろう。
石田茜さんと彩夏は本当にとてもよく似ているのだ。目、鼻、口、どこをとっても似ている。医師という職業柄あまり驚かないようにしているが、今朝は動揺を隠せなかった。
動揺が伝わっていないか心配だったが、彼女自身もそれどころではなかったので全く何も気付いていないようだった。
僕は彼女を診察することになる。最低1回は通院してもらうことになる。
正直、元カノに似ているということは、少なくとも外見は好みのタイプであるということだ。それは否定しない。
中身はまだもちろん分からない。が、彼女の控えめな感じ、嫌いではない。
そして勘でしかないが、何かを抱えている?そのせいなのか目をちゃんと合わせようとしない。でも時折上目遣いで視線が合った時の胸騒ぎ。そういうしぐさもまた気になってしまう。
今日プレゼンがあると言っていたが、どんな仕事をしているのだろうか。
僕、彼女のことが少し気になっている?
いやいや、顔が似ているだけで好きになってはいけない!と言い聞かせている自分がいることに、なんとなくまた動揺しながら帰路についた。
偶然に偶然は重なるものだ…
入浴し買ってきた夕食を食べていた時のこと。その元カノの彩夏からLINEが来たのだ…何年振りだろう。2〜3年振りだろうか。お互いが忙しく会えなくなって、2〜3回連絡を取った。それは分からないことを質問し合うような内容だった。が、勘が鋭いところがある人だから、今回は何か察したのかもしれない。
「久しぶり!元気?今日久々の休みで部屋の片付けをしてたら真ちゃんからもらった本が出てきて。懐かしくて久しぶりに連絡しちゃった!」
相変わらず快活なのが文面から伝わってくる。一緒に医師を目指し切磋琢磨してきた。彼女がいたからつらい勉強も研修も乗り越えられた。だから彼女のことは感謝しても仕切れない。一人では成し得なかった医師免許の取得への道。
大学の医学部で一緒に医師を目指してきた同志であり、彼女の医師を目指す理念や意志の強さに惹かれていった。
同じように、彼女も僕に対して尊敬の念を持って接してくれていた。
それがいつからか愛情に変わっていったが、とにかく覚えることもやるべきこともありすぎて、お互いに時間がなかった。
気が付けば連絡も減っていきそのうちに途絶え、会うこともなくなっていった。淋しいとかつらいと言っている暇もなく、毎日の生活も病院と自宅の往復で、睡眠時間すらなかなか取れないような日々が続いた。
物心ついた時から目指してきた医師という職業だったが、やはり想像以上に厳しい世界だった。
でもそれ以上にやり甲斐があった。
真一郎にもつらい過去があった。中学生の頃に親友を亡くしていたのだった。
小学生の頃から仲が良く、中学校も同じ中学へ進んだ。しかし2年生になりその親友が学校を休みがちになった。理由を聞いてもはっきりと教えてくれなかった。学校へ来たくないのかな…自分にも何か原因があるのかと落ち込んだこともあった。
ある日彼の家まで届け物をしたことがあった。彼は今病院にいると彼のお母さんが教えてくれた。(病院?)と最初何故かわからなかった。戸惑っている真一郎におばさんは「やっぱり話してないのね…」と少しつらそうな表情をした。友達はとても大変な病気だったのだ…余命はもって半年。
なんでそんなこと、小学生からの親友の僕に言ってくれなかったんだろうと悲しさと悔しさが心の底から湧き上がってきた。でも、一番悔しいのは友達だ。まだ10数年しか生きてない。死ということの恐ろしさを知るにはまだ早すぎる。あと半年で、もう二度と会えなくなってしまうのか?何故、何故なんだ!!と、心の中で叫んでいた。
友達の家からの帰り道、ずっと小さい頃から一緒に過ごしてきた時間を思い返していた。何でも言えて気を遣わない奴、少し気の弱い真一郎をかばってくれたり、物知りで頭も良かった。そんな彼が、亡くなってしまうなんて絶対に耐えられないと思った。
でもそんな彼から教えてもらったこと…それが真一郎の心の指針となっていたのだった。
成績が酷く落ちてしまった時、彼から言われた言葉「過去は変えられないけど、未来は変えられるからな」と…
その言葉を聞いて救われ、俄然やる気も出た。何より彼に負けたくなかったし、切磋琢磨し合える間柄、最高の関係であった。お互いの得意なことを教え合い、高め合ってきた。
そして真一郎はしばらく自分と向き合った。来年には高校受験が控えている。そして出した答えが「医師になる」ということだったのだ。
真一郎の中で目の前が明るくなった気がした。親友を亡くしてしまう、でもそれと引き換えに自分は人を救いたい、彼はこの世からいなくなってしまうけど、人を救うことで自分のこの苦しみを少しは解放出来るのではないかと考えたのだった。
中学生の真一郎にとってそれは勇気のいる決断だった。でもそこに至るまでそれほど時間は掛からなかった。
そして高校受験へとまっしぐらに進み、第一志望の高校に入ることも出来た。
その間に親友は亡くなってしまったが、節目には墓前に手を合わせ彼に誓ってきた。常に彼が背中を押してくれた。
大学受験の時も、医師になる時も、いつでも彼は心の中で励ましてくれた。
それは真一郎にとってとても心強く、一番の御守りとなった。
そんな優しくて強い真一郎。医師として、いい加減なことはしたくないし、全ての痛みを抱える患者さんに寄り添いたい。そしてそんな夢が叶い、信頼のおける医師になっていた。
医師としてのキャリアもそこそこ積み上げてきて、今日このような少し驚く出来事があり、何か自分のターニングポイントが訪れた様な気もしていた。
確かにずっと患者さんに向き合い、自分のことは二の次だった。それは仕方ない、当然片手間に出来る仕事ではない。でも…彩夏から連絡があり、久しぶりに会ってみるのもいいのかもしれないと思っていた。
そこで自分の気持ちを振り返り確かめる。彩夏には何だか申し訳ないが、そんなことをしてみようという気持ちになり、LINEの返信をしたのだった。
翌日茜は退院の朝を迎えていた。痛みはまだあるが清々しい気持ち。今日彼は出勤なのだろうか…と彼が顔を出してくれるのを少し期待してし待っていた。朝食を終え、回診の時間。
「石田さんおはようございます、具合はいかがですか?」
と来て下さった方は初老の優しそうな先生…あっ、期待した自分、恥ずかしい!そう思いながら
「はい、まだ痛みはありますが、2、3日ゆっくりしようと思っています」
などと答えていたが、気持ちは上の空だった。
そのあと看護師さんが次回の診察の予約を取ってくれた。そして、
「今日中村先生は…」
と思い切って聞いてみた。すると、
「あ、中村先生は今日は学会だったかな?何かありましたか?」と言われた。少しバツが悪くなり、
「いや、昨日お世話になったので一言御礼を言いたかっただけです。大丈夫です」
と少ししどろもどろしてしまった。
次回受診の際の医師は誰なのか、そこまで聞くことは出来なかったが、それはお楽しみにしようかな…と病院を後にした。
それから1週間後…受診日だ。かなり腫れも引き、痛みもほとんど感じないほどにはなっていた。もしかしたら受診しなくてもいいかな?とも思ったが、その選択肢はなかった。中村先生に会いたい、そんな気持ちが膨らんでいた。
この1週間、これからの人生について考えていた。今までは結婚とか、子供を育てるとか、あまり考えられなかった。でもこんな私でもそのような選択をしてもいいのかな?そう思い始めていた。それは今回倒れたことによって自分の身体はもちろんのこと、誰かに寄り添ってほしい、寄り添いたい、そういう気持ちが芽生えた出来事でもあった。こんなに人の有り難みや、あたたかさを感じたこともなかった。
一人で何でもやっていけると思っていたところがあったが、それはきっと本当の気持ちから目を背けていたし、可愛げのない自分、そして強がっていた。そこにようやく気付かせてもらう出来事だったのだ。
退院の日は残念ながら中村先生はいなかったので、今日こそはと期待する。
そんな不純な気持ちで行くのは私らしくないが、そんな気持ちを持つのも悪くはないと感じていた。
今まで真面目に堅く物事を考え過ぎてきた。そういう少し楽な気持ちで物事に向かったっていいよ、と未来の自分の背中を押してあげていた。
そして病院に着いた。診察室の前へ行くと中村真一郎と書かれた札がある。それを見ただけで胸が高鳴った。どんな顔で話せばいいかな?雑談とか少しぐらい出来るかな?もう痛みはないけど、まだ痛いって嘘ついちゃおうかな?
そんなことを考えていたらとうとう呼ばれた。
「はいどうぞ」
「失礼します…あ、あの…先生その節は本当にありがとうございました!」
「元気そうでよかったです!打った所の痛みとかその後どうですか?」
「あ、えーっと、まだ少しだけ痛いんですが…」
「そうですか…ちょっと見ますね」
と言ってまた前回のようにとても近くまで来て、頭を触り…
診察だというのに、ドキドキを感じている自分が本当に恥ずかしい。
何かとてもいけない気持ちになっているんじゃないかと、自分が怖くなっていく。
心というのはどうしてこんなにも自分の手の届かないところで揺れ動くのだろう?だめだと言い聞かせてもいう事を聞いてくれない。心や気持ちって本当に厄介だ。
身体の痛みの方がもしかしたら時間が経てば薄れていくのかな。
心だって自分のもののはずなのに、頭や胸のあたりにあるはずなのに、追いかけても追いかけても手が届かない所にいる。近づいたり離れたりしながら、こちらの様子を伺い、遊ばれているようだ。
メンタルの弱さは子供の頃からずっとだが、身体を鍛えれば筋肉が付くように、心の筋肉はないのだろうか…?
触診が終わり、
「もう腫れは治まったようですね。見た感じは問題ありませんが…。あ、あと、血液検査の結果ですが、貧血も問題ないようですね。なので、今回の事はやはり疲労や緊張で引き起こったのかと考えられます。」
と先生が言ってくれた。そして、
「他、何か心配な事はありますか?」と聞いてくれたので、
「先生、腰の辺りと足の捻挫も痛いのですが…」
と勇気を出して言ってみた。
先生は、あ、足も痛かったですよねーという感じで、
「あ、そうでしたね、ただ足は特に骨折とかでもない限り、湿布や痛み止めをお出しするしかないのですが…」
と少し困った様子で話したので、急に我に返り、
「あ、そうですよね、骨は大丈夫そうです」
と答えたら笑ってくれた。
最後少し和やかな雰囲気で終わらせる事が出来たことにホッとして診察室を後にした。
診察室を出る時に、もしかしたらこれが最後なのかも…と思ったため、先生の顔をしっかり見ておこうと思った。ドアを閉めながら先生の方に視線を向けた。が、先生はパソコンの画面を見て、キーボードを触っており、私の方なんて全く見てくれなかったのだ…
考えれば当たり前。あの日からここまで私は幸運が続いた。もしかしたら一生分の幸運を使ってしまったかもしれない。
明日からまた何も変わり映えしない日々が続いていく。それでもいい。清々しい気持ちもあったのだった。
看護師さんが来て、
「では次回の診察はないのでこれで終わりになりますね。お大事にして下さい」
と言って会計へ持っていく紙を渡された。そして、そこには一通の封筒もあった。すると看護師さんが、
「あ、この封筒は中村先生から渡して下さいって預かった物です。」
と…
一瞬頭が真っ白になり、でも冷静に取り繕い、
「あ、そうなんですね、分かりました。ありがとうございました。」
と言ってその場を後にした。
茜は封筒を見つめ少し胸がざわついていた。
先日、彩夏からの突然のLINEが来たあと、真一郎は少し自分を試すような気持ちを持ち始めていた。
あの朝偶然にも遭ってしまった、逢ってしまった出来事。それは自分にとって何を示唆しているのか。
彩夏と今数年ぶりに会ってみたらどんな気持ちになるのだろうか。
そんな自分を試してみたいという気持ち、だ。彩夏には悪いが、自分の気持ちを確かめさせてほしい…そう思いながらLINEの返信を打った。
『おー久しぶり!元気そうでよかった!僕も変わらず頑張ってるよ。
仕事の方はどう?色々任されるようになって大変なんじゃないか?まあ、彩佳なら大丈夫だと思うけどね。もしよかったら、今度食事でも行く?』
と打って送信した。すぐに既読になる。真一郎は(せっかちな彩夏、変わってないなー)と微笑ましく思っていた。すると『うん!食事行こう!積もり積もった話はその時にね!どうする?いつにする?』
と返ってきた。
やっぱりせっかちだ。でもそのどんどん物事を進めていく彩夏がとても眩しく頼もしかった。何も変わってなくて安心していた。
食事の日程が数日後の夜に決まった。
お互い仕事の後で、でもゆっくり話す時間は取れそうだった。
そういえばそんなに遠くない所で暮らしているはずなのに、こんなにも会えなかったなんて、人生忙し過ぎるのも良くないな。大切な人にはたまには会わなければいけないな、と、久しぶりに真一郎はウキウキとした気持ちになっていた。あと数日後、久しぶりに会ったらどんな気持ちになるのか、自分でも全く未知数であったのだった。
いよいよ彩夏と会う日が来た。その日の仕事は大変な患者さんにもしっかりと向き合えたし、自分が医師を目指した意味も改めて思い返し、彩夏にも恥ずかしくなく再会出来ることを自分なりに誇りに思えた。
そして待ち合わせの時間より早く到着した。
梅雨の時期だから仕方ない、雨の日となってしまった。
昔付き合っていた頃によく行った居酒屋が待ち合わせ場所。彩夏はそういう気取らないお店を好んだ。
安いお酒とおつまみ数品で何時間も未来への夢を語り合った。
彩夏はお父さんが医師だったことで、特に何の迷いもなく医師を目指したが、そんな素直さもある女性だった。
普段男っぽい面の方が一見目立ってしまうが、真一郎には女性らしい素直さや正直さも、ちゃんと気付いてあげられていたと思う。
だから彩夏にとっても真一郎は気を許せる人であった。お互いが認めあっていたと思う。
暫くして彩夏が到着した。いつもの明るい表情で遠くから手を振りこちらへ向かってきた。
「久しぶりー!ごめんね、お待たせ!真ちゃん変わってないねー!」
いや、彩夏の方こそ変わっていない。何だろうこの懐かしい感覚は…
「おー彩夏、久しぶり!彩夏こそ何も変わってない!」
真一郎はとても安心感を覚えている。
二人の時間が一気に学生時代へと巻き戻された。
「そお?でも変わってないって、それも問題じゃない?少しは大人っぽくなったとか、色っぽくなったとか、そういうのはないの?」
確かにそうか。女性はそうやって言われる方がうれしいのかな?難しいな。
「まあお互い若いままってことで。」
「そうだねー!そういうことにしておこう。まあ、まずは再会を祝して飲も飲も!」
まずは昔と同じように生ビールで乾杯した。彩夏はお酒に強そうに見えてあまり強くない。一方僕は強そうに見えないが結構強い。昔もよく潰れた彩夏を介抱したな。上手くいかないことも多く、難しい勉強にストレスを感じたこともあった。不安に押しつぶされそうなこともあった。お互いがそこをよく分かっているからこそ、励まし合えた。
一杯目のビールで既に彩夏の顔は紅潮してきている。そういうところも可愛かった。変わってない。でも何か昔とは違う感じを受けるのだ…何だろう?
身につける物が派手になっている?そういえばよく見ると身に付けているものが全部高級品… 彩夏、こんな趣味あったかな…というものを身に付けている。昔のただ快活な彩夏とは少し違うか…そりゃ当たり前だ、もう何年も会ってなかったんだから。
そんなことを考えながら彩夏の話を聞いていた。医師としての情熱は全く変わっていなくて安心した。まあ、それがあれば別に多少の趣味嗜好は変わっていくことぐらいとりたてて気にするところではないかと考えていた。
1時間ほど経ち、彩夏は甘いチューハイ、僕はハイボールを飲む。仕事の話やプライベートのこと、どちらも充実しているようだ。今彼氏はいるのだろうか。やはり気にならないと言えば嘘になる。彩夏の方から切り出してくれないかな…
そう思っていた矢先に、
「真ちゃん、彼女は?」
テレパシーかと思うくらい間髪入れずに来るじゃないか…だから尚更動揺してしまった。でも彼女はいない。だからそのまま、
「いないよ」
と答えた。表情は焦っていたかもしれないが、彩夏はそれに対し動揺する様子もなく、
「そうなんだ」
と答えた。
そこで会話が終ってしまいそうだったのもあり、今聞き返すのがベストなタイミングと思い、落ち着いて、
「え、彩夏はどうなの?」
と聞き返した。すると、
「私?結婚したよ」
と言った。え?結婚?それなのにこうやって会ってて大丈夫なのか?
「え…結婚?」
と今度こそ動揺した。すると彩夏は
「うっそー、冗談だよ!」
と…
彩夏はやっぱり何も変わってない。
「な、なんだよ!その冗談。」
「あははは」
してやられた。いつもこうだった。昔の記憶も蘇ってきて、とても楽しかった。
でも、待てよ、結局はぐらかされた。彼氏がいるのかいないのか、結局分からなかったではないか。
聞くべきか、聞かないべきか…
すると程なくして、
「彼氏はいないよ」
と、真顔で彩夏の方から言ってきた。
何だかずっと心を見透かされている。昔から鋭いところがあった。落ち込んでいることを隠していてもすぐに気付かれたし、サプライズで何かしようとしても、「今日、何か隠してるでしょ」と言われる始末。もうかなわないな、と考えていた。
でもそれらの感情は、今ではもう友達としてのものであることも同時に感じていた。でも彩夏の方はどう思っているのだろう。確かめたいが、怖い気もする。今日はこのまま何もなく終えればいいのかもしれない。
少しだけ複雑な気持ちで、3杯目のハイボールを頼んだ。
彩夏の方は2杯目のチューハイをまだ飲んでいるが、もう顔が紅潮し、呂律も少し怪しくなっている。このお酒で今日はもう終わりにして帰ろうと考えていた。すると彩夏の方から
「真ちゃん、今好きな人いる?」
と聞いてきた。その瞬間、あの、ホームで倒れた患者さんのことが浮かんだのだ。石田茜さん、名前も覚えている。顔は今前にいる彩夏とそっくりだから、顔も思い出せる。それは何だかありがたいことだなと、変なことを思っていた。そして、彩夏からの質問に今度こそ動揺していた。
「え、好きな人?うーん…」
と言ったところで、
「いるんだね」
と言われた。そうだ、彼女には嘘はつけない。いるんだね、と言われて、
「いないよ」と言っても絶対に見透かされる。だから、
「あ、うん、あーでもまだ分からないんだ」
と率直な気持ちを言った。すると、
「分からないって、何それ」
確かに、分からないって変なのか?いや、恋の始まりってそういうものだろ?と思い直し、
「いや、分からないっていうのは、まだ数日前に会ったばっかりなんだ。」と言い訳をした。
「あーなるほど。それはまだ分からなくて当然だね。で、どんな人なの?」と聞いてきた。何でもズバリ聞いてくるのも彩夏のいいところであり、悪いところでもある。
(どんな人、か…)
「どんな人かも分からないくらい、まだ会ったばっかりなんだよ。でも…」
「でも?」
「でも、彩夏とは少なくとも正反対っぽい」
「何それ、なんかムカつくんだけど」
「あ、ごめんごめん、そうだよな、そういう言い方はないか」
本当は彩夏に言いたかった。顔が彩夏とそっくりだという事を。
でもそしたら、それはそれで彩夏も複雑な気持ちになるだろう。
何だか難しいことになっている。
「正反対って、その人は守ってあげたい、とか、放っておけない、とか、そういう感じってこと?」
「簡単に言えば、そういうことになるのかなぁ」
ああもう、一言えば十返ってくる。さらに、
「私正直、真ちゃんには、そういう人の方が似合ってると思うよ」
少し意外な答えが返ってきた。
もしかしたら少しは嫉妬するのかと思ったが、嫉妬のしの字もないのか?
でも何故そう思うんだろう。
「なんで、そう思うの?」
「うーん、何となく」
理由は無いんかい!でもその後に、
「真一郎はさ、やっぱり本当に優しい人だから。医師を目指す理由ってみんなそれぞれ色々あると思うけど、真一郎が医師を志した理由、あるでしょ?誰一人苦しい思いをして欲しくないとか、そこに寄り添いたいとか。真一郎のその優しさは、少し手を差し伸べたくなるような女性に向けるべきだと思う。昔からそう思ってた。」
そうなんだ…そんな話は一度も聞いたことがなかった。そんな風に思っていたんだ…そして、
「だからね、私じゃないんじゃないかって、思っていたんだよ、昔から。」
彩夏…今までそう思っていたんだ…それは彩夏にとって辛くなかったのかな、彩夏だって弱いところがある。強がっているようなところも、可愛いところもある。それなのに…
「私は全然大丈夫だよ!それよりも、私は真ちゃんに幸せになってほしいってほんとに心から思っているから」
驚きとうれしさで言葉が出なくなってしまった。それでも自分の心をしっかりと見つめた時に、今心の中にいる人は、石田茜さんだった。
不思議だな、彩夏に惹かれていた自分も本当。でも彩夏が言った、僕に似合う女性像は、本来僕が一緒にいたいと思う女性像かもしれない。
やっぱり、彩夏には、全て見透かされていた。
「彩夏、ありがとう。なんか、分かった気がするよ。自分の事って自分ではよく分からないこと多いから、彩夏みたいな人にこうやって自分という人間はどういう人間かって言ってもらえて、ハッとさせられた。やっぱりよく人のこと見てるな。医師の鑑でもあるし、彩夏の優しさでもあるよな。」
すると彩夏は真っ直ぐこちらを見て、
「でも、私、真ちゃんのこと、まだ好きだよ」
え?何?なんなんだ?また彩夏流の冗談なのか?と思った瞬間、かなり困った表情をしてしまった。すると、
「なんてね!やっぱり真ちゃんをからかうの楽しい!私、悪い女だね!」
そう言って大笑いした彩夏に感謝した真一郎は、彩夏が少し悲しそうな表情をしたことも見逃さなかった。
それでも自分自身も前に進みたいし、自分に嘘だけはつきたくない。そして、彩夏が言ってくれたことは合っていると思った。
こんなにも僕のことを分かってくれてる人は他にいないと思う。
何年か会ってはいなかったが、一緒に過ごした年月は、誰と過ごした時間よりも濃かった。こんな人と出会えて、僕は幸せ者だな、本気でそう思っていた。
彩夏は、「明日も早いし、そろそろ帰ろうかな」と言った。
もしかしたら、2軒目とか、そういう話も出るのかもしれない、と思っていたが、少し安心した自分もいる。
もっと色々な話もしたかったが、また会う機会を持てばいい。
性別を超えて戦友、親友のような感覚を今日感じた。
そしてそれよりも僕が今やるべきことは、石田茜さんにどうにか僕のことを心の隙間に入れてもらうこと。
僕という人間を認識してもらうこと。
そのためにどうすればいいか、考えていた。
彩夏とは「また飲もうね」と握手をして別れた。これからも医師という仕事をお互い全うしよう、そういう気持ちで…
雨の中、傘をさして暗闇に消えていく彩夏。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。医師という同志としてこれからもよろしくな、そんな気持ちで彩夏の背中を見送った。
茜は、受診後買い物でもして行こうかと思っていたが、看護師から受け取った封筒が気になって仕方がなかった。
それを気軽に開ける気持ちにはなれなかったので、家で落ち着いて見ようと思った。
自宅に戻り手を洗ってうがいをし、緊張を落ち着かせるために好きなハーブティーを淹れた。
ハーブティーを一口飲み、(フゥー)と息を吐き、封筒にハサミを入れた。
中には半分に折り畳まれた便箋が1枚入っていた。
一体何が書かれているのだろう?
胸の高鳴りと同時に不安もあった。
病院で受診をして、個人的に医師から手紙を渡されるって聞いたことがない。
恐る恐る開いてみた。
そこには丁寧な字で数行のメッセージが書かれていた。
《石田さんへ 先日は急に倒れてしまい、驚かれた事でしょう。私は医師ですが、このようなことは私にとっても初めてのことでした。でもこれも何かのご縁かと思います。もしよろしければ、何か身体的に不安があれば今後も手助けをさせて下さい。》
と書かれていた。そして最後に名前と、携帯電話の番号が書かれていた…
茜は驚きと喜びと、でも少し(身体的な不安があれば、か…)と思っているところもあった。これは医師として、なのか、一人の男性として、なのか、一体どちらなのかが読み取れなかったのだ。
いや、私何を贅沢なことを言っているの?あの朝の出来事から今日のこのお手紙まで、言ってみれば夢のような幸運とも言える出来事が続いているではないか。今までの冴えない人生からは考えられない。
今回のプレゼンの機会は逃してしまったし、思いを寄せる上司に対しても、とても残念な思いをさせてしまい、自分としても残念だったが、もしかしたらそれ以上に私にとって人生を動かすきっかけとなる出来事だったのかもしれない。そう前向きに考えられるようになっていた。
今までなら、自分なんて…と自分の人生には何の期待も出来なかったため、もしかしたらチャンスを逃してきていたのかもしれないし、気付くことすらなかったのかもしれない。
それに比べたらこの出来事は神様がくれたプレゼントなのかも…そう前向きに捉えることが出来ていたし、茜にとって大きな大きな前進を意味していた。
そしてもう一度読み返し、このお手紙を大切な御守りにしよう、と思っていた。
それから1週間ほど経った。
茜の体調は問題なく、仕事も順調であった。あの日出来なかったプレゼンの機会もまた設けてくれるとのことで、気持ちは明るく前向きだった。
物事の捉え方も以前とは少しだけ変わってきていた茜は、思いを寄せている上司に対しても、その思いはただの憧れ、私の中の父への幻影が、ただそうさせていただけだったんだな…そこへ気付き始めていた。
そこに気付いたことによって、さらに中村先生への気持ちはまた今までとは違い、特別なものであると気付き始めた。
駅でのあの出来事は、偶然ではあるが、必然なのかもしれない。私にとって運命を変えた瞬間に違いない。
そして、それらの気付きと共に、茜の中に長い間あった上司への気持ちは、完全に終わりを迎えていたのだった。
7月上旬、梅雨のジメジメした日が続いていた。あの出来事から1ヶ月近く経ったが、茜は中村先生の事を思い出さない日はなかった。
あの倒れた駅のホーム。そういえばあの朝あの駅にいたという事は、家も近いのだろうか…?あの日はいつもより早い時間の電車に乗ったから会えたのだと思う。でも、最寄りの駅があそこだとしたら近くに住んでいるの?あの日以来、駅のホームで会うことはなかったけど。
今仕事中かな?今日は夜勤かな?疲れていないかな?ちゃんとご飯食べてるかな?
こういうことを考えるということが「好き」ということなのかな…?
こんな感情を持ったのは初めてだ…
やはり「好き」と「憧れ」は似ているようで違う。33歳にして初めての感覚だった。
そして恐らくその「好き」という気持ちが、日に日に風船のようにパンパンに膨れ上がってきた。ずっと彼のことを考えている。何を見ても何を聞いても、彼に繋がっていく。胸が苦しい。涙が出そうになる。食事も喉を通らない、会いたくて仕方ない!!
茜はそれらの身体の異変を感じていた。この異変は何だろう。
そして彼からの手紙を忘れた日はなかったため、連絡してみようと思い、もう一度手紙を読み返した。
《身体的に不安があれば、手助けさせて下さい》
身体に異変は生じているし、確かに不安だ。でもこんなこと相談していいのかな…
茜は手紙に書かれた電話番号を見つめ、しばらく考えた。
少しずつ前へ進みたい。そして進めている自分もいるが、ここが私の人生の分岐点に違いない…
33年間何もなかった人生に終わりを告げたい!よし、思い切ってかけてみよう!!
茜は今まで感じたことのない緊張を感じながら、書かれた番号をゆっくり押す。とうとう最後の数字を押した。夜の8時過ぎ。時間的には問題ないと思われるが、出てくれるかな…
電話口でやさしい、だけど恐る恐る「もしもし」という声がした。茜は思わず電話を切ってしまいたくなったが、一呼吸おいて
「あ、あの…中村先生のお電話でしょうか?」
「あ…はい、そうですが…」
「あの私、石田と申します。その節は大変お世話になりました」
「あ、石田さん?石田茜さんですか?」
明るい声に変わり、そして名前を覚えてくれている…なんということだろうか!
「あ、はい、駅のホームで倒れてしまった石田茜です」
「電話してくれたんですね!よかった!ありがとうございます!」
「いえいえ!私こそ、助けていただいたにも関わらず、大したお礼も出来ず、本当に申し訳ありませんでした!」
「いえ、いいんです。…あの…僕が渡した手紙…ご迷惑じゃなかったですか…?」
「迷惑だなんてそんな、とんでもないことです。逆にうれしかったです…」
「本当ですか?それはよかった!軽々しくあんな物を渡してしまって、ご迷惑じゃないか心配していたので…」
「そうだったんですね…もっと早くご連絡すればよかったですね。ごめんなさい…」
「いえいえ、石田さんが謝ることじゃないんです。僕の自分勝手な行動だったので」
「……」
「石田さん…?」
「あ、はい!」
「今日お電話くれたのは…」
「あ!そうですよね、あの、私…」
「はい」
「身体の具合があまり良くなくて…あのお手紙に身体的に不安があれば手助けさせてほしいと書かれていたので、先生にご相談しようと思ってかけてしまいました」
「そうなんですね…大丈夫ですか?具体的にどんな症状が」
「胸が苦しかったり、食べ物が喉を通らなかったり、夜眠れなかったり…」
「…あ、はい…他にも何かありますか?」
「頭の中にずっと1つの事があって、仕事にも集中出来ないですし、気が付くと涙が出てしまったり…」
「なるほど…頭の中にある1つの事というのは、具体的に何のことか分かりますか?」
「はい…わかります」
「それは何か聞いてもいいですか?」
「はい…あの、先生のことです」
「先生とは…」
「中村先生のこと…です」
あまりにも真っ直ぐに思いもよらない言葉が携帯電話の向こうから発せられ、
「え?」
と言ってしまった。すると、
「中村先生、私、先生のことが好き…?なんでしょうか…」
さらに真っ直ぐな言葉が真一郎めがけて来た。
「えーっと、石田さん。それは、あの…」
真一郎は困ってしまっているが、うれしさも隠せない複雑な心境が声に出てしまっている。
茜もふと我に返り、でも落ち着いて、
「自分では分からなくて、身体の不調もあったので、それで先生に相談させていただきたくて」
と返事をした。
真一郎は思いも寄らない茜からの言葉に、心の底からあの朝出会えたことに感謝していた。そして、手紙を渡してよかったと思っていた。
そして思い切って石田さんが連絡してくれたからこうして気持ちを聞くことも出来た。
まだ石田さんは自分の気持ちがわからなくて当然だ。ちゃんと会って話して、それからだろう。それは僕も同じ。
偶然や勇気が重なり合い、こうして運命の背中を押し、人は幸せを掴んでいく…運命が動いたのを感じていた。
「あの、石田茜さん!会いたいです!!僕と会ってもらえませんか?」
数日後、あの倒れた駅の改札口近くで待ち合わせした。お互いが早く会いたいという気持ちだったが、それを口に出さずともお互い同じ気持ちだった。最短で会える日を決めた。
茜の緊張は今までの人生で感じたことのないものだった。そして待ち合わせ時間よりかなり早く到着し、中村先生が来るのを待った。
7月上旬なので梅雨明けはまだまだ先だ。小雨が降る日だった。夕方の6時半、待ち合わせの時間になった。
あの朝助けてくれた時の眼差し、診察室での表情…それらの面影を何となく覚えているが、薄靄がかかっていてハッキリとは浮かんで来ない。
が…現れた瞬間、その場所に光が射した。小雨が降っているのに、光が射したのだった…
こちらへ向かって来てくれた。
「石田さん、ですね」
「あ、はい!」
「お待たせしてごめんなさい!」
「いえ、全然待ってないです!」
そう言うと真一郎は茜の恥ずかしそうにうつむく顔を見つめて微笑んだ。茜はまだまともに真一郎を見ることが出来ずにいた。
「こんな時間なので、お食事でもしませんか?」
と言ってくれた。茜は今日はお茶くらいの気持ちだったため少し戸惑っていた。すると、
「今日は急でしたし、お茶ぐらいにした方がいいです…よね?」
と察してくれた。とてもありがたかった。男性とのデートも初めてのこと、まさか、この年齢で初めてなんて彼は思ってもいないだろう。でも何かを察してくれてうれしかった。そして、
「はい、今日はお茶ぐらいでもいいですか…?」
と正直に伝えることも出来た。すると、
「もちろんです」
と笑顔で答えてくれたのが本当にうれしかった。
駅前にあるカフェに入った。男性とプライベートでお茶をしたことは今まで一度もない。緊張が伝わり、注文も支払いも全部してくれた。
席につき向かい合わせに座った。
まともに顔を見れないが、中村先生はこちらを見ている。そして、
「石田さん。身体の具合はいかがですか?」
プライベートでも常に医師モードなのだろうか?いや、私がこの前電話で変なことを言ったからだろう。心配をかけてしまっているようだ…と、また申し訳ない気持ちで、
「ご心配をおかけしてすみません、あの…電話で話したような不調はまだあります。でも倒れて打った所は問題ないと思います…」
と言うとすぐに、
「石田さん、僕から話してもいいですか?正直に言います。僕は石田さんと初めて会ったあの朝から、ずっと石田さんの事が気になっていました。なので、電話をくれて、もしかしたら僕のことを好きかもしれないと言ってくれて、僕は本当にうれしかったんです。」
と、真っ直ぐに目を見て言ってくれた。茜は(え……)と心臓が早く打ち始めたのを感じていたが、真一郎は話続けた。
「なので、今日こうしてやっと会えて、僕は本当にもう何と言っていいか…こんなにうれしいことはありません」
いや、先生それは私のセリフです…でも、先生…先生も私のことを好きなの?そんなこと、ある?茜はうれしいを通り越し、宙に身体がフワフワ浮いたような感覚になり、でもそれをしっかりと俯瞰している自分もいて、
「先生私分かったかもしれません…私、中村先生のこと、好き…です。そういうことなんだと思います…」
言ってしまった。まともに顔は見れない、でも生まれて初めての「好き」を言ってしまった。
その言葉を言えた自分もうれしかった。自分の殻を破ることが出来た。それって、こんなにも清々しい気持ちになることなんだな…それは年齢関係ないんだな…と喜びに浸っていた。すると、
「石田さん、ごめんなさい、僕、カルテで分かってしまったんですが、僕の方が年下なんです」
え…若いとは思ったが、やっぱり年下なんだ。え?いくつ?なんかちょっと申し訳ないな…
「それでもよろしければ、お付き合いを前提に、僕のこともっと知ってほしいです」
これは現実なのか?テーブルの下で手の甲をつねってみた。痛い。つねらなくてももちろん現実だと分かっているが、夢見心地の自分の目を覚まさせたかった。そして、
「先生の方こそ本当にいいんですか?」すると、
「僕、初めて会った時から分かったんです。この人のこと好きになるな、きっとずっと一緒にいたいって思うだろうなって」
え…なんで?今までそんなこと思ってくれる人なんていなかった。私が鈍感とかそういうことじゃなくて。
でもこれは現実。私はそれをしっかりと自分に言い聞かせ、自分の思いも告げた。
「私、実は今まで一度も男の人とお付き合いしたこともなければ、好きになったこともないんです…ちょっとおかしいですよね?でも、先生には初めてその『好き』という感情が芽生えたというか、感じることが出来たみたいなんです。でも正直まだよくわからなくて、体調もおかしくて、だからお電話を…」
「石田さん、大丈夫ですよ。それ以上言わなくても大丈夫です。その気持ちをこれから2人で探しに行きましょう。」
そしてこの日は7月7日の七夕だった。小雨の曇り空ではあったが、空の彼方の銀河で織姫と彦星が出会えているように、私達の運命も交わり始めていたのだった。
次の週末、今日と同じ場所で待ち合わせすることを決めた。その時にやはりこの駅が彼も最寄りの駅だということがわかった。こんなにも近くにいたのに、ずっとすれ違っていたのかな?
あの朝倒れたのは、きっと一人で頑張ってきたことへのご褒美だったのだと今は思えていた。
まずは1週間後。次はデートということになる。茜にとっては生まれて初めてのデート。緊張もすると思うが、お互いのことをたくさん知る機会にしたいと思っていた。
1週間経つのはとても早く感じた。毎日鏡を見ては大丈夫だと言い聞かせた。そして何を話そうかと考えたり、聞きたいことを考えたりした。
まずは駅で待ち合わせて、その後どこへ行くのかな?何か考えてくれているのかな?色々なことが頭を駆け巡り、いよいよその日が来た。
日曜日の駅前はいつもより家族連れやカップルが多い。そんな光景を見ながら茜は緊張を感じながらも前回の待ち合わせよりはリラックス出来ていたと思う。
また時間より早く来てしまった。
いつもの日曜日よりかなり早く起きて身支度した。今朝は梅雨がもうすぐ終わりそうな陽射しを感じる曇り空の朝だった。
そして待ち合わせの時間に彼が現れた。普段お仕事へ行く時とはまた違うように見える。そういうのがまた新鮮でドキドキしてしまった。
それは真一郎も同じだった。今まで何度か会った時とはまた雰囲気が違い、正直ドキドキしてしまった。初デート特有のドキドキをお互いが感じていた。
「おはようございます」
「おはようございます、また今日も僕の方が遅くなっちゃったな」
「私、いつもこうなんです。心配症で…」
「1つ石田さんのことが分かった気がします」
と言って2人で笑い合った。
そして真一郎は茜を連れて行きたい場所があると言った。それは、中学生の時に亡くした親友のお墓だった。墓地へ向かう電車の中で、その親友が亡くなったつらい、それでいてそれが医師を志すきっかけとなったというエピソードを話してくれた。
茜は本当にうれしかった。そんな彼の大切な過去を話してくれて、そんな大切な場所に連れて行ってくれるという事が…
2人で彼の親友の墓前に手を合わせる。そしてその意味を噛みしめていた。
そして彼の親友に茜は話しかけた。(自分は父を亡くしていますが、その父と同じくらいあなとのこともずっと心に想い続けます)と。そしてまた、真一郎も親友に茜を紹介出来たことをうれしく思っていた。
お墓参りのあと、2人はとにかくたくさん話したい気持ちだった。何よりもお互いが相手の事を早く知りたいと思っていた。
茜はもう33歳。その年齢を真一郎も知っていたし、何故今まで好きな人が出来なかったのか、茜の過去から現在をもっと知りたかった。
ランチをしたり、公園に行ったりしてとにかくたくさん話した。茜も、真一郎が聞いてくれたことに全て答えたし、茜もたくさんのことを質問した。そうしてお互いの知らなかった時間のパズルが1ピース1ピースどんどんはめられていった。
そして茜の過去で避けては通れないお父さんのこと…真一郎は穏やかに優しく聞いてくれた。その時間は、茜にとって自分の中にずっと鍵をかけ、開けることはないと思っていた箱だった。でも今それを開け、1つ1つの思い出を大切に愛でる時間となった。自分でも(こんなこと思っていたんだな…)と気付くこともあった。それくらい、改めて自分を認め、許し、肯定する時間でもあった。
真一郎は茜の過去をゆっくりと聞いてあげた。真一郎にとっても、茜をより愛おしく思う時間となっていたし、今までの悶々とした気持ちがとても晴れ晴れとした気持ちになっていた。
普段なかなか話すこともない、自分の過去やつらい出来事たち。こうして話すこと、そしてそれを聞いてくれる人がいるという事の大切さを、お互いが改めて感謝していたのだった。
今日は朝からたくさんの時間を一緒に過ごし、とても満たされていた。明日はお互い仕事のため、夕方には帰ることにした。そしてまた来週の日曜日、今度は茜の実家の近くにある、茜のお父さんのお墓へ行こう、と真一郎が言ってくれたのだった。お父さんのお墓へ好きな人を連れて行けるなんて思ったこともなかった。とても不思議な気持ちがしていた。
今年は長めの梅雨となった。雨は嫌いじゃない茜だったが、やはり晴れた方が気持ちが晴れるな…そんなことを最近は感じでいた。
そして長かった梅雨がようやく明けた今日、お父さんのお墓参りへ行く日と重なった。暑さが本格的になり、セミがけたたましく鳴き始め、とうとう暑さも本格的になってきた!
やっぱり夏はワクワクするし、何か楽しいことが起こりそうな予感もする。人並みにそんなことを感じられるようにもなっていた。
そんなある意味ワクワクした梅雨明けの朝、まずお父さんの写真に手を合わせ、(今日行くから待っててね)と挨拶をした。写真の中のお父さんはやっぱり完璧で大好きだった。
そしていつも通りのお化粧をし、髪型をセットした。洋服は落ち着いたトーンを選んだ。
特急で片道1時間30分ほど。2人でゆっくりお話しするにもちょうどいい時間だな、と考えていた。まだまだ彼と話したいことはたくさんある。お父さんにもたくさん話したいことがある。
2人と話すことを考えていた。
そしてお父さんの写真をカバンに入れて家を出た。
待ち合わせの時間。今日は真一郎が先に着いて待っていた。茜は小走りで走り寄る。
「ごめんなさい!お待たせしました!暑いですね」
「そうですね、いよいよ梅雨が明けましたね」
その会話で、夏が来たことを再び再確認した。
特急に乗るため大きな駅に移動した。梅雨が明けた街はみんなが楽しそうに見えた。
それにしてもまだ会って間もない私や私の父のためにこんなにも色々してくれる。なぜなのだろうか?ふと疑問も湧いてきた。一目惚れってあるけど、そういうこと?
ただ、目の前で倒れてしまったことで、ただ情が湧いているだけとか…
理由があるなら聞いてみたい。そんな積極的な気持ちも出て来ていた。
電車に乗り、真一郎の顔を見た。でも、やさしい顔を観ていたら、さっきの質問は出来なかった。彼の目を見ていたらやっぱり信用出来る気がする。そんなこと、聞く必要ないな…と考えて直していた。
電車の中では、茜の母のこと、真一郎の家族のことを話した。
真一郎の家族は誰も医療関係者はいないらしい。お父さんはサラリーマン、お母さんは書道の先生だと聞いた。それなのに、よく医師という大変な仕事を目指したな…尊敬の思いだけが湧いてきた。やっぱりこの人はすごい人だと改めて思っていた。
駅に到着した。電車から降りると真夏の照りつける暑さで一瞬怯んだ。実家まではまだここから少し距離がある。今回は実家へは帰らず、お墓参りだけをしようと思っていた。
駅前の商店でお花を買い、墓地までの道を歩いた。のどかな場所だ。民家がポツポツとあるが広大な田んぼが広がっている。夏を迎えた稲穂がすさまじい生命力で揃って真っ直ぐ空へと向かっていた。石田さんはこんな風景で育ったのかな…?と真一郎は微笑ましい気持ちで見ていた。
10分ほどで到着した。2人とも汗だくだ。墓地は少し小高い丘の斜面にあり、照りつける太陽を避けるように影が出来ていてとても助かった。
水を汲み、お墓へ向かった。
大きな墓地なのでまた少し丘を登り辿り着いた。お父さんのお墓は上の方だったため空が近く、下界の眺めもよい。茜は、
「お父さん、空が好きだったんです。なので、少しでも空に近い場所にお墓を建てたかったんです。たくさん歩かせてごめんなさい」
「そんな、謝らないで下さい。とってもいい眺めですね」
「そうなんです。ここに来ると気持ちも落ち着くんです」
「うん、とってもいい場所ですね」
お墓の掃除をして、2人で手を合わせた。
真一郎は墓前で、『石田茜さんと偶然出会えたことに感謝しています。運命とかそういうものを信じていなかった僕ですが、茜さんと出会えたことは運命だと思えました。まだこれからももっと茜さんのことをたくさん知りたいです。お父様、どうか僕たちのことを見守っていて下さい。茜さんをずっと大切にします。』
茜は、『お父さん、私初めて好きと思える人に出会えたよ。とってもステキな人。お父さんも会ったらきっと彼のこと気に入るはず。会わせたかったな。天国で私達のこと、見守っていてね。大好きだよ』
と伝えた。
日が傾いてきた。少しだけ涼しくなってきて心地よい夏の夕暮れ時。遠くに見える田んぼの稲も風でなびいて、より穏やかな気持ちにさせてくれた。
お父さんのお墓が見える場所で座り、しばらく2人で空を眺めていた。
だんだんと西の空が色づき始めていた。茜はどうしてもここで夕焼けを見せたかった。
『やっぱり夕焼けは夏が一番きれいだと思う。茜の誕生日の頃、夏こそが最も美しいとお父さんは思ってる。毎日よく空を眺めてごらん。素晴らしいことが待っているよ』
お父さんの声も聞こえた気がした。
そう、そして明日は茜の誕生日だった。
「あの…実は明日、私、誕生日なんです。」
真一郎は驚き、
「そうなんですね!!一日前だけど、今日お父さんのお墓に来ることが出来て、よかったですね!!」
と、自分のことのように喜んでくれた。
本当は一人で来ようと思っていたから、こうして大切な人と一緒に来ることが出来て、本当によかった…
茜自身もその喜びを噛みしめていた。
そして茜という名前の由来も聞いてもらった。
真一郎は感激して、
「なんて素敵なお父さんなんだろう…お会いしたかったな…」
と、少し目が潤んでいた。
私があの朝倒れなければ、出逢うこともなかったのかな?不思議なご縁を感じずにはいられなかった。
でも全ての物事は偶然のような顔をして必然であると思う。だからいつかは出逢っていたのだろう。
長い梅雨は私の心と同じようだったが、いつかは明けるのだ。そしてその梅雨明けと共に私の運命も動き始めた。そして夕焼けが美しい季節へと移り変わっていく。
人生もその繰り返しだと思う。
ずっと曇り空だったり、雨ばかりは続かない。青く澄み渡ったり、様々な色に彩られる。その様は人の人生と同じだと思う。
太陽はもう沈みかけて西日が眩しい。それとともに西の空がほんのり色づいてきている。
美しい茜空になるまであと少し。
2人は2人のこれからをその空の色に重ね合わせ、変わっていく様を黙ってじっと眺めていた。
少しずつ少しずつ変化していく空…
私達もそれでいい。ゆっくりゆっくり歩いていこうね。
とある商社に勤める石田茜は今日の大切なプレゼンを控えずっと寝不足だった。緊張もしている。
もう33歳。この辺で結果を残したい。残せばみんなからの信頼も得られ、立場的にも有利になるだろう。そして何より、あの人ともっと近づけるかもしれない…
仕事、これからの人生、誰にも言えないある悩み。朝から色々なことが頭の中を巡っていた。
そんなことを考えながら、プレゼンに向け、お化粧にいつもより気合いが入った。普段より眉毛を少しだけ濃いめに描き、薄くアイラインも入れてみた。
どちらかというと童顔。背も小柄だし、頼られるというより、心配されるタイプ。それが自分の長所だと思ったことはない。
湿度の高さのせいか、髪の毛のセットにも時間が掛かってしまった。
もっと早起きしなきゃいけなかったな…朝食を摂る時間も足りなくなってしまった。
いつもより早い電車に乗らなければならないため、もう行かなきゃ!と少し慌てて家を出た。
寝不足と緊張、疲れ、朝食をあまり摂れなかったことで少し身体が重い。
でも今日を乗り切ればまた違う景色が見られる、そんな思いで駅まで歩く。
10分ほど歩き駅に着いた。今日はいつもより蒸し暑い。汗をたくさんかいてしまった。せっかく気合い入れて身支度したのに…と足早にホームへと向かった。
いつもと同じ朝の風景ではあるが、プレゼンへの期待と不安でいつもの場所と少し違って感じる。
そんなことを思い歩いていた。そしていつものレーンに並ぼうとしたその時…
突然目の前が真っ白になった。(え…)その時自分では既にどうすることも出来なかった。自分の身体が自分から離れていくような……
気が付いた時、目の前には若い男性がいてこっちを見ていた。(私、どうしたんだろう…)何も覚えていないし、視界が霞んで靄がかかっている。
すると遠くで「よかった!」と声が聞こえた。
だんだんその声は近く感じられた。人の足が見える。(あれ、私倒れちゃったのかな…)とようやく気が付いた。ホームに横たわっていた。
目の前にいる男性もはっきり見えるし、声も聞き取れるようになってきた。
「あ、私……ごめんなさい!!」
恥ずかしさと、出勤途中ということを思い出した焦りで立とうとした。
「あっ、痛い…」
足が痛い。そして頭も痛い。
すると目の前にいた男性は、若いがとても冷静にこう言った。
「落ち着いて聞いて下さい。あなたは今ここで倒れてしまいました。」
それは何となくわかっている。恥ずかしいから早く言ってほしい!
「私は順東大学病院の医師です。今から僕と一緒に僕の勤め先の病院へ一緒に行きましょう」
え、お医者さん…?いや、でも勝手に決めないで!
「私…そう!今日大事なプレゼンがあるんです。それは絶対に外せないんです!病院に行ってる場合じゃ……」
と言ってまた立とうととするが、自分一人では立てない。
彼はそりゃそうだと少しあきれたように、
「会社には連絡して下さい。私は医師としてあんな倒れ方をした人を放っておけません!」
やさしい顔立ちなのに、ちょっと厳しい口調、でも若いのに頼もしいなぁ、やっぱりお医者さんてすごい…と心の中では感心していた。
でも勝手に決めないで!私の人生のターニングポイント、それは私にしかわからない。
いや、でも足や頭、ひどい打ち方をしてしまったようだ…。やっぱりこの人が言うように無理かなぁ、無理かもしれないな…
「ちょっと立ってみます。すみませんが手を貸して下さい」
と言って恥ずかしいが手を借りた。
なぜか捻挫もしているようだ、足首も痛い。ヒールでよろけた、そして朝あまり食べられなかったのも原因かも…そしてこの湿度や疲労、緊張…
私結構無理してたのかな…
ふと我に返り、上京してからのことを何となく思い出していた。
地元の大学を卒業してから上京して、10年ほど頑張ってきた。
地味なタイプの私は東京で就職したいという気持ちを心のどこかで持ちつつも、やっていけるのか自信はなかった。友達にも家族にもなかなか言えず、自分の中に秘めていた。
それでも就活が始まり、自分に正直でありたいと真剣に思うようになってきた。それは自分の中にある、ある思いを断ち切るためでもあった…
その思いが私を縛っていたというのも事実だったため、そこから卒業もしたかったのだ。
ヒールでよろけた私を、しっかりと支えてくれたこの男性…まだ若いけど、自分は医師だと言って、頼りがいもありそうだ。しかも一緒に自分の病院へ行こうとまで言ってくれている。
私は倒れてしまったが、とても運が良かったのでは?と思った。
こんな所で嘘を言う人はいないだろうし、そんな嘘はすぐにバレてしまう。
頭の中ではこれまでのこと、今の状況、そして今日これからのプレゼンについて、たくさんのことが頭の中を駆け巡った。が、意外と冷静でいられた。
そして彼の目を見ると少し信じられそうな目をしている。純粋で、無垢だ。あれ?私の好きな目…
手を借り、何とか立てた私は、彼に支えられながら改札へと向かった。
優しく上手に身体を支えられ、痛みはあるが何とか歩けた。男性とこんなに触れ合ったことは今までなかったのであまりいい気持ちはしなかったが、そんなことを言っている場合ではない。そして改札を出た。
待機していたタクシーに乗り彼が行き先を告げると、
「病院につくまでゆっくり休んでて下さい。」
と言ってくれたが、会社には連絡しなければ…と、電話をした。
すぐに状況を分かってもらえてほっと一安心した茜は眠くなって病院に着くまでの間眠ってしまった。
実は彼にもこの朝の出来事で、驚く事が起きていた。
落ち着いたように対応していたが、彼の心の中は居てもたってもいられなかった。この倒れた女性、以前付き合っていた女性にとても似ているのだった…
顔の造りがとてもよく似ている、背格好や雰囲気は少し違うが、とにかく顔がよく似ていた。
倒れた彼女を最初に見た瞬間(彩夏?)と思ったほど似ていたのだ。
今こうして横でウトウトしているが、やっぱり横顔も似ている…
身体は彩夏より小柄なので本人ではないと分かるが、こんなことがあるのかと驚きを隠せなかった。
だが、医師と倒れた人という関係上、そのような私情を挟むことはあってはならない。ここは冷静に対応しなければならない、と自分に言い聞かせ何とか対応したのだった。
少しの間深く眠ったが15分ほどで到着したと思う。何とも言えない安心感…始めて会ったはずなのに、とても安心している自分がいる。
そして病院の玄関には、あらかじめ彼が連絡してくれていたため看護師さんが車椅子を用意して待ってくれていた。なんて仕事が出来るんだろう…と感心していたのも束の間、広い病院内を進む。
しばらく待って診察室へ。そこには先程の彼が…
さっきまでとは少し違って、かしこまっているからか何だか照れくさい。白衣を来ているのも、当たり前ではあるが、何となく照れくさい。
でもいや、私は怪我人で、彼はそれを目撃した通行人、そしてたまたまお医者様だったというだけの話なんだ。それ以上でも以下でもない!
となぜか自分に言い聞かせている。
そして診察が始まった。
痛みなどを聞かれ、やはり頭を打ってしまったようで痛みがあった。痛い部分を伝えると、その部分の髪の毛を掻き分けて診てくれた。顔と顔の距離が近い、とても近い!でも患者と医師だから当たり前じゃないかと言い聞かせるのに必死だ。
腫れてきているとのことで冷やしてもらい、この後MRIを撮ると言う。
そんな大げさな…とは思ったが、頭のことなので万が一があっては大変である。
彼は先程までとは違い、少しよそよそしかったが、もちろん医師と患者なので当たり前のことだ。
しばらくMRIを待っている間、自分は今後男性とお付き合い出来るのか?と考えていた。
話すこともぎこちなくなってしまうくらい、男性に対して緊張してしまうのだ。
まわりの同僚は、当たり前だが皆んな普通に男性と会話している。それなのに私は必要なことを手短に伝えるだけ。愛想も悪いよな…と落ち込む。
そんな自分があまり好きではなかった。本当ならもっと普通に男性も女性も関係なくコミュニケーション取れたら楽だし、なんて楽しいんだろうといつも思っている。
この社会は人との関わりなしでは生きていくことは難しいからな…とまた一人落ち込んでしまっていた。
そんな事を考えていたらMRIの順番が来た。何事もなければいいけど…
その後の診察で、MRIの結果は特に問題はなかった。が、かなり腫れてきているし、強打していることで、何かこの後起きるかもしれない。それに今日はもう職場にも連絡してあり、プレゼンも延期にしてもらえた。
彼は私に診断結果を伝え、一泊の入院をすすめてきたのだ。
それはもちろん医師としてだろうが、少しうれしい気持ちにもなった。
このまま今晩一泊の入院をすることに決めた。
病室に入り、ベッドで横になった。
プレゼンに向けた準備でかなり疲れているし、睡眠不足も続いていた。毎日遅くまで資料の準備もした。
でも彼がいたから頑張れた。
その彼というのは、社内では人気があるが、もう結婚している男性だったのだ。
茜は曲がったことは嫌いであるし、男性への苦手意識がある。
それなのに何故既婚の男性なんかを好きになってしまったのか?
それは上京してすぐのこと。今の会社に入社してすぐ、茜は22歳、彼は10歳年上だったがまだ結婚はしていなかった。
同じ部署ではなかったが、顔を見れば挨拶してくれたり、とても感じのいい人で、自分にしては珍しく親近感がわいていた。誰にでも優しい人ではあったが、特定の彼女はいないようだった。
それがその3年後、取引先のとても美しい、それでいて愛嬌のある女性と結婚することになったのだった…
噂話もなければ、女性の影もなく、いつもみんなに優しい上司の模範のような方。そんなやさしさや真面目さが好きだったのだが、やっぱりそんな人を放っておくわけないんだ。と、自分の不甲斐なさをまた突きつけられたのだ。
その後まだ諦めきれなかった茜であったが、その1年後、彼と同じ部署へ配属になったのだった。
根から真面目な茜は、今までも頑張ってきたが俄然やる気が違う。
茜の気持ちなんて知らない彼は茜に対して、真面目に仕事をしてくれる部下、とただそれだけの存在だった。女性としてはもちろん見てはもらえなかった。
見てもらったところで彼はもう既婚者だ。私が入る余地はない。
だが今回プレゼンのチャンスが来たのだった。
今までにもチームでそのような機会はあったが、今回は彼からの企画を私一人に任せられたのだった。
彼と出会ってもう長い年月が流れ、その間切ない思いを抱えてきた。
彼が結婚してからはもうこの気持ちは無くすように自分に言い聞かせてきた。それでも最初に抱いた憧れのような気持ちは今でもあったのだった。
でもそれが仕事を頑張るモチベーションにもなっていた。
毎日顔を合わせ、ずっとあたたかい気持ちをくれる彼には感謝しかなかったのだった。
病室では忙しそうに働く看護師さんの声がして慌ただしいが、気持ちはホッとして心身共に休めていた。
こんなに安心したのは久しぶりだった。上京してからというものずっと一人で頑張ってきた。
母はたまに来てくれては私が好きだったおかずを作り置きしてくれて、1日、2日で帰ってしまう。その間はたくさん昔の話をしたり、今こんな感じだよと話を聞いてくれる。やさしい母ではあるが、私と違って感情が激しく時についていけないところがある母だ。
一方父は…
実は父は茜が12歳の時に亡くなってしまっていたのだった。
たくさんの記憶があるわけではないが、写真やビデオで見る父は本当にかっこよくて自慢の父だった。
茜という名前も父が付けてくれた。
母の陣痛が始まったと連絡を受けた父が病院へ行くまでの間、夕焼けの茜空が美しかったこと…
父は病院に到着してすぐに「名前は決まった!茜にしよう!」と病室へ入ってきたと何度も母から聞かされた。
その話を母がする時の父の照れくさいような誇らしいような顔は今でも憶えている。
私はそんな感覚を持っていた父のことが大好きだった。
たくさんのことを教えてもらった。
太陽や月のまわりに光の輪が出来て、その後雲が厚くなると雨が降るとか、雨が上がったあと、太陽と反対側に虹が出ることとか、
飛行機雲がなかなか消えない時、天気は下り坂とか。
私の名前の由来は夕焼け空だけど、夕焼けとひとくちに言ってもオレンジ、ピンク、赤、紫と色も様々で。
オレンジ色だと翌日は晴れることが多く、真っ赤だった場合は空気中に水蒸気が多く、太陽の赤い光が強く散乱することで鮮やかな赤色に染まるから、低気圧が近付いてるらしい、とか、そういう観天望気をたくさん教えてくれた。そんな空が大好きだった父のことが大好きだったし、尊敬していたのだった。
父がやさしい声で話してくれる空の話…至福の時間…だから私は空を見上げることが好きになったし、空を見ると父が私を見守ってくれている気がする。
でもそんな父との思い出といつまでも離れられずに今でもいるのだった。
そんな自分がおかしいのかな?と思う時もある。いや、父のことを大好きだったり、いつまでも忘れないでいることは恥ずかしいことでも、隠すことでもないと思うんだ。
かと言って誰かに話すことでもない。
私だけの大切な思い出…
だけど、そのせいでもしかしたら男性と距離をおいてしまうのかもしれないと最近思い始めていたのだった。
父があまりにもカッコよくてやさしくてなんでも知っている、私にとって完璧過ぎたため、そこが男性に求める基準になってしまっているのではないか。
だとしたら私いつまで、この思いを引きずっているんだろうか、断ち切るために実家を離れたんじゃないのか、実家を出て10年以上経ったのに、私何してるんだろう……
そして来月には34歳の誕生日を迎えてしまう。一人の女性として少しでも、何か人並みでいい、何かを変えたいと真剣に考え始めていた。
今まで一人忙しく毎日必死に家と職場の往復、自分のことについてゆっくり考えることもあまりして来なかったし、避けていたように思う。
でももう33歳。色々なことから逃げていたら、きっとこのまま人生何も起こらないまま終わってしまう。
それでもいいと思ったこともあった。いつまでも一人でもいいと思ったこともあった。でもきっと父も母もそれは望んではいないだろう。
母はストレートな人だから「彼氏まだ出来ないの?」と聞いてくる。そのたびにすぐに話をそらしたり、濁したりするが、しつこく聞いてくるような人だ。でもそれは仕方ない、一人娘の行く末は心配に決まってる。
でも父への想いを母には言えない。「そのせいで」となれば話は違ってくるだろう。
だからそれは母には当然話せない。
私は常に自分の中でそれを反芻しなければならなかったのだった。そんなにつらいと思ったことはなかったけど、よく自分を見つめてみた時に、そこが足枷になっていたことに、ようやく今気が付いたのだ。
今朝ホームで倒れたことによって、私はほんのひととき自分を見つめ直す自由な時間が出来た。こういう時間、そういえば全然なかったな。
マメなタイプだから食事もきちんと作るし、きれい好きだから掃除も洗濯も好き。趣味はと言えば、自分があまりにも実生活にはないため、やはり恋愛を描いたドラマや映画、本を読むことも好き。休みの日はそれらのことをしていれば1日あっという間に終わってしまう。
私やっぱり何してるんだろうか…
自分の人生、その繰り返しで終わりたくないよ…!!
考えていたら少し眠ってしまっていた。とても気持ちが良かった。ぐっすり深い眠りだった。何となく父が夢に出て来てくれた気がしていた。
病室の窓から空が見えた。日が傾きかけていたが、梅雨の重たいジメッとした空が広がっていた。でもその曇り空の向こうから私を応援してくれているような…薄っすらとそんな気配が残っていた。
ウトウト考えていたら、
「石田さん、失礼します。調子はどうですか?」
と彼の声がした!あ、あ、先生!!
カーテンを開けてもいいかと聞かれ、入って来られた。
頭や足の痛みなどを聞かれた。痛みはまだあったが、酷い痛みではなく、今眠っていたことを伝えた。
先生は、
「あ、そういえば名前言ってなかったですね。中村と申します。中村真一郎です。」
とおっしゃった。
改めて顔をよく見た。いわゆるイケメンである。小顔でさっぱりとした目鼻立ち、程よく細身で身長も高め。助けてくれた方がお医者さんというだけでも運が良かったが、さらにイケメンとは…
今まであまりくじ運だって良くない。スピリチュアルな引き寄せみたいなのも経験したこともない。可も不可もない、とにかく普通の人生だった。
「中村…先生、ですね。あ、今日は本当にありがとうございました!!」
「いえいえ、大したことなくてよかったです。今晩一晩ゆっくりここで過ごして下さい。明日の10時には退院となるので、帰ったらまたきっと大変でしょうから。あ、このあと17時から夕食です。食べられそうですか?」
お腹は空いている。
「あ、はい、お腹空きました」
「それはよかった。じゃあ食べて、その後もゆっくり休んで下さいね。では」
「あ、先生…」
と言ったが聞こえず、行ってしまった。
(なかむらしんいちろうさん、か…いいお名前だな)と考えながら茜はすぐにバッグから鏡を出して自分の顔を見た。朝念入りに施した化粧が多少崩れてはいたが、まだほぼそのままだった。よかった!ひとまず外見はみっともなくはなかったと胸を撫で下ろした。
外見はそれなりに整っているとよく言われる顔立ちだ。でも性格がおとなしいためか目立たない。気が付くと「結構可愛い顔してるんだね」と言われるタイプ。
でも目立つことが苦手だからそれくらいでいいのだ。
医師の中村は帰路についた。今日一日の事を考えていた。
顔がよく似ているということはよくあることなのだろうか…いや、今まで見たことない。どことなく似ているという人がいたとしても、どことなく程度だろう。
石田茜さんと彩夏は本当にとてもよく似ているのだ。目、鼻、口、どこをとっても似ている。医師という職業柄あまり驚かないようにしているが、今朝は動揺を隠せなかった。
動揺が伝わっていないか心配だったが、彼女自身もそれどころではなかったので全く何も気付いていないようだった。
僕は彼女を診察することになる。最低1回は通院してもらうことになる。
正直、元カノに似ているということは、少なくとも外見は好みのタイプであるということだ。それは否定しない。
中身はまだもちろん分からない。が、彼女の控えめな感じ、嫌いではない。
そして勘でしかないが、何かを抱えている?そのせいなのか目をちゃんと合わせようとしない。でも時折上目遣いで視線が合った時の胸騒ぎ。そういうしぐさもまた気になってしまう。
今日プレゼンがあると言っていたが、どんな仕事をしているのだろうか。
僕、彼女のことが少し気になっている?
いやいや、顔が似ているだけで好きになってはいけない!と言い聞かせている自分がいることに、なんとなくまた動揺しながら帰路についた。
偶然に偶然は重なるものだ…
入浴し買ってきた夕食を食べていた時のこと。その元カノの彩夏からLINEが来たのだ…何年振りだろう。2〜3年振りだろうか。お互いが忙しく会えなくなって、2〜3回連絡を取った。それは分からないことを質問し合うような内容だった。が、勘が鋭いところがある人だから、今回は何か察したのかもしれない。
「久しぶり!元気?今日久々の休みで部屋の片付けをしてたら真ちゃんからもらった本が出てきて。懐かしくて久しぶりに連絡しちゃった!」
相変わらず快活なのが文面から伝わってくる。一緒に医師を目指し切磋琢磨してきた。彼女がいたからつらい勉強も研修も乗り越えられた。だから彼女のことは感謝しても仕切れない。一人では成し得なかった医師免許の取得への道。
大学の医学部で一緒に医師を目指してきた同志であり、彼女の医師を目指す理念や意志の強さに惹かれていった。
同じように、彼女も僕に対して尊敬の念を持って接してくれていた。
それがいつからか愛情に変わっていったが、とにかく覚えることもやるべきこともありすぎて、お互いに時間がなかった。
気が付けば連絡も減っていきそのうちに途絶え、会うこともなくなっていった。淋しいとかつらいと言っている暇もなく、毎日の生活も病院と自宅の往復で、睡眠時間すらなかなか取れないような日々が続いた。
物心ついた時から目指してきた医師という職業だったが、やはり想像以上に厳しい世界だった。
でもそれ以上にやり甲斐があった。
真一郎にもつらい過去があった。中学生の頃に親友を亡くしていたのだった。
小学生の頃から仲が良く、中学校も同じ中学へ進んだ。しかし2年生になりその親友が学校を休みがちになった。理由を聞いてもはっきりと教えてくれなかった。学校へ来たくないのかな…自分にも何か原因があるのかと落ち込んだこともあった。
ある日彼の家まで届け物をしたことがあった。彼は今病院にいると彼のお母さんが教えてくれた。(病院?)と最初何故かわからなかった。戸惑っている真一郎におばさんは「やっぱり話してないのね…」と少しつらそうな表情をした。友達はとても大変な病気だったのだ…余命はもって半年。
なんでそんなこと、小学生からの親友の僕に言ってくれなかったんだろうと悲しさと悔しさが心の底から湧き上がってきた。でも、一番悔しいのは友達だ。まだ10数年しか生きてない。死ということの恐ろしさを知るにはまだ早すぎる。あと半年で、もう二度と会えなくなってしまうのか?何故、何故なんだ!!と、心の中で叫んでいた。
友達の家からの帰り道、ずっと小さい頃から一緒に過ごしてきた時間を思い返していた。何でも言えて気を遣わない奴、少し気の弱い真一郎をかばってくれたり、物知りで頭も良かった。そんな彼が、亡くなってしまうなんて絶対に耐えられないと思った。
でもそんな彼から教えてもらったこと…それが真一郎の心の指針となっていたのだった。
成績が酷く落ちてしまった時、彼から言われた言葉「過去は変えられないけど、未来は変えられるからな」と…
その言葉を聞いて救われ、俄然やる気も出た。何より彼に負けたくなかったし、切磋琢磨し合える間柄、最高の関係であった。お互いの得意なことを教え合い、高め合ってきた。
そして真一郎はしばらく自分と向き合った。来年には高校受験が控えている。そして出した答えが「医師になる」ということだったのだ。
真一郎の中で目の前が明るくなった気がした。親友を亡くしてしまう、でもそれと引き換えに自分は人を救いたい、彼はこの世からいなくなってしまうけど、人を救うことで自分のこの苦しみを少しは解放出来るのではないかと考えたのだった。
中学生の真一郎にとってそれは勇気のいる決断だった。でもそこに至るまでそれほど時間は掛からなかった。
そして高校受験へとまっしぐらに進み、第一志望の高校に入ることも出来た。
その間に親友は亡くなってしまったが、節目には墓前に手を合わせ彼に誓ってきた。常に彼が背中を押してくれた。
大学受験の時も、医師になる時も、いつでも彼は心の中で励ましてくれた。
それは真一郎にとってとても心強く、一番の御守りとなった。
そんな優しくて強い真一郎。医師として、いい加減なことはしたくないし、全ての痛みを抱える患者さんに寄り添いたい。そしてそんな夢が叶い、信頼のおける医師になっていた。
医師としてのキャリアもそこそこ積み上げてきて、今日このような少し驚く出来事があり、何か自分のターニングポイントが訪れた様な気もしていた。
確かにずっと患者さんに向き合い、自分のことは二の次だった。それは仕方ない、当然片手間に出来る仕事ではない。でも…彩夏から連絡があり、久しぶりに会ってみるのもいいのかもしれないと思っていた。
そこで自分の気持ちを振り返り確かめる。彩夏には何だか申し訳ないが、そんなことをしてみようという気持ちになり、LINEの返信をしたのだった。
翌日茜は退院の朝を迎えていた。痛みはまだあるが清々しい気持ち。今日彼は出勤なのだろうか…と彼が顔を出してくれるのを少し期待してし待っていた。朝食を終え、回診の時間。
「石田さんおはようございます、具合はいかがですか?」
と来て下さった方は初老の優しそうな先生…あっ、期待した自分、恥ずかしい!そう思いながら
「はい、まだ痛みはありますが、2、3日ゆっくりしようと思っています」
などと答えていたが、気持ちは上の空だった。
そのあと看護師さんが次回の診察の予約を取ってくれた。そして、
「今日中村先生は…」
と思い切って聞いてみた。すると、
「あ、中村先生は今日は学会だったかな?何かありましたか?」と言われた。少しバツが悪くなり、
「いや、昨日お世話になったので一言御礼を言いたかっただけです。大丈夫です」
と少ししどろもどろしてしまった。
次回受診の際の医師は誰なのか、そこまで聞くことは出来なかったが、それはお楽しみにしようかな…と病院を後にした。
それから1週間後…受診日だ。かなり腫れも引き、痛みもほとんど感じないほどにはなっていた。もしかしたら受診しなくてもいいかな?とも思ったが、その選択肢はなかった。中村先生に会いたい、そんな気持ちが膨らんでいた。
この1週間、これからの人生について考えていた。今までは結婚とか、子供を育てるとか、あまり考えられなかった。でもこんな私でもそのような選択をしてもいいのかな?そう思い始めていた。それは今回倒れたことによって自分の身体はもちろんのこと、誰かに寄り添ってほしい、寄り添いたい、そういう気持ちが芽生えた出来事でもあった。こんなに人の有り難みや、あたたかさを感じたこともなかった。
一人で何でもやっていけると思っていたところがあったが、それはきっと本当の気持ちから目を背けていたし、可愛げのない自分、そして強がっていた。そこにようやく気付かせてもらう出来事だったのだ。
退院の日は残念ながら中村先生はいなかったので、今日こそはと期待する。
そんな不純な気持ちで行くのは私らしくないが、そんな気持ちを持つのも悪くはないと感じていた。
今まで真面目に堅く物事を考え過ぎてきた。そういう少し楽な気持ちで物事に向かったっていいよ、と未来の自分の背中を押してあげていた。
そして病院に着いた。診察室の前へ行くと中村真一郎と書かれた札がある。それを見ただけで胸が高鳴った。どんな顔で話せばいいかな?雑談とか少しぐらい出来るかな?もう痛みはないけど、まだ痛いって嘘ついちゃおうかな?
そんなことを考えていたらとうとう呼ばれた。
「はいどうぞ」
「失礼します…あ、あの…先生その節は本当にありがとうございました!」
「元気そうでよかったです!打った所の痛みとかその後どうですか?」
「あ、えーっと、まだ少しだけ痛いんですが…」
「そうですか…ちょっと見ますね」
と言ってまた前回のようにとても近くまで来て、頭を触り…
診察だというのに、ドキドキを感じている自分が本当に恥ずかしい。
何かとてもいけない気持ちになっているんじゃないかと、自分が怖くなっていく。
心というのはどうしてこんなにも自分の手の届かないところで揺れ動くのだろう?だめだと言い聞かせてもいう事を聞いてくれない。心や気持ちって本当に厄介だ。
身体の痛みの方がもしかしたら時間が経てば薄れていくのかな。
心だって自分のもののはずなのに、頭や胸のあたりにあるはずなのに、追いかけても追いかけても手が届かない所にいる。近づいたり離れたりしながら、こちらの様子を伺い、遊ばれているようだ。
メンタルの弱さは子供の頃からずっとだが、身体を鍛えれば筋肉が付くように、心の筋肉はないのだろうか…?
触診が終わり、
「もう腫れは治まったようですね。見た感じは問題ありませんが…。あ、あと、血液検査の結果ですが、貧血も問題ないようですね。なので、今回の事はやはり疲労や緊張で引き起こったのかと考えられます。」
と先生が言ってくれた。そして、
「他、何か心配な事はありますか?」と聞いてくれたので、
「先生、腰の辺りと足の捻挫も痛いのですが…」
と勇気を出して言ってみた。
先生は、あ、足も痛かったですよねーという感じで、
「あ、そうでしたね、ただ足は特に骨折とかでもない限り、湿布や痛み止めをお出しするしかないのですが…」
と少し困った様子で話したので、急に我に返り、
「あ、そうですよね、骨は大丈夫そうです」
と答えたら笑ってくれた。
最後少し和やかな雰囲気で終わらせる事が出来たことにホッとして診察室を後にした。
診察室を出る時に、もしかしたらこれが最後なのかも…と思ったため、先生の顔をしっかり見ておこうと思った。ドアを閉めながら先生の方に視線を向けた。が、先生はパソコンの画面を見て、キーボードを触っており、私の方なんて全く見てくれなかったのだ…
考えれば当たり前。あの日からここまで私は幸運が続いた。もしかしたら一生分の幸運を使ってしまったかもしれない。
明日からまた何も変わり映えしない日々が続いていく。それでもいい。清々しい気持ちもあったのだった。
看護師さんが来て、
「では次回の診察はないのでこれで終わりになりますね。お大事にして下さい」
と言って会計へ持っていく紙を渡された。そして、そこには一通の封筒もあった。すると看護師さんが、
「あ、この封筒は中村先生から渡して下さいって預かった物です。」
と…
一瞬頭が真っ白になり、でも冷静に取り繕い、
「あ、そうなんですね、分かりました。ありがとうございました。」
と言ってその場を後にした。
茜は封筒を見つめ少し胸がざわついていた。
先日、彩夏からの突然のLINEが来たあと、真一郎は少し自分を試すような気持ちを持ち始めていた。
あの朝偶然にも遭ってしまった、逢ってしまった出来事。それは自分にとって何を示唆しているのか。
彩夏と今数年ぶりに会ってみたらどんな気持ちになるのだろうか。
そんな自分を試してみたいという気持ち、だ。彩夏には悪いが、自分の気持ちを確かめさせてほしい…そう思いながらLINEの返信を打った。
『おー久しぶり!元気そうでよかった!僕も変わらず頑張ってるよ。
仕事の方はどう?色々任されるようになって大変なんじゃないか?まあ、彩佳なら大丈夫だと思うけどね。もしよかったら、今度食事でも行く?』
と打って送信した。すぐに既読になる。真一郎は(せっかちな彩夏、変わってないなー)と微笑ましく思っていた。すると『うん!食事行こう!積もり積もった話はその時にね!どうする?いつにする?』
と返ってきた。
やっぱりせっかちだ。でもそのどんどん物事を進めていく彩夏がとても眩しく頼もしかった。何も変わってなくて安心していた。
食事の日程が数日後の夜に決まった。
お互い仕事の後で、でもゆっくり話す時間は取れそうだった。
そういえばそんなに遠くない所で暮らしているはずなのに、こんなにも会えなかったなんて、人生忙し過ぎるのも良くないな。大切な人にはたまには会わなければいけないな、と、久しぶりに真一郎はウキウキとした気持ちになっていた。あと数日後、久しぶりに会ったらどんな気持ちになるのか、自分でも全く未知数であったのだった。
いよいよ彩夏と会う日が来た。その日の仕事は大変な患者さんにもしっかりと向き合えたし、自分が医師を目指した意味も改めて思い返し、彩夏にも恥ずかしくなく再会出来ることを自分なりに誇りに思えた。
そして待ち合わせの時間より早く到着した。
梅雨の時期だから仕方ない、雨の日となってしまった。
昔付き合っていた頃によく行った居酒屋が待ち合わせ場所。彩夏はそういう気取らないお店を好んだ。
安いお酒とおつまみ数品で何時間も未来への夢を語り合った。
彩夏はお父さんが医師だったことで、特に何の迷いもなく医師を目指したが、そんな素直さもある女性だった。
普段男っぽい面の方が一見目立ってしまうが、真一郎には女性らしい素直さや正直さも、ちゃんと気付いてあげられていたと思う。
だから彩夏にとっても真一郎は気を許せる人であった。お互いが認めあっていたと思う。
暫くして彩夏が到着した。いつもの明るい表情で遠くから手を振りこちらへ向かってきた。
「久しぶりー!ごめんね、お待たせ!真ちゃん変わってないねー!」
いや、彩夏の方こそ変わっていない。何だろうこの懐かしい感覚は…
「おー彩夏、久しぶり!彩夏こそ何も変わってない!」
真一郎はとても安心感を覚えている。
二人の時間が一気に学生時代へと巻き戻された。
「そお?でも変わってないって、それも問題じゃない?少しは大人っぽくなったとか、色っぽくなったとか、そういうのはないの?」
確かにそうか。女性はそうやって言われる方がうれしいのかな?難しいな。
「まあお互い若いままってことで。」
「そうだねー!そういうことにしておこう。まあ、まずは再会を祝して飲も飲も!」
まずは昔と同じように生ビールで乾杯した。彩夏はお酒に強そうに見えてあまり強くない。一方僕は強そうに見えないが結構強い。昔もよく潰れた彩夏を介抱したな。上手くいかないことも多く、難しい勉強にストレスを感じたこともあった。不安に押しつぶされそうなこともあった。お互いがそこをよく分かっているからこそ、励まし合えた。
一杯目のビールで既に彩夏の顔は紅潮してきている。そういうところも可愛かった。変わってない。でも何か昔とは違う感じを受けるのだ…何だろう?
身につける物が派手になっている?そういえばよく見ると身に付けているものが全部高級品… 彩夏、こんな趣味あったかな…というものを身に付けている。昔のただ快活な彩夏とは少し違うか…そりゃ当たり前だ、もう何年も会ってなかったんだから。
そんなことを考えながら彩夏の話を聞いていた。医師としての情熱は全く変わっていなくて安心した。まあ、それがあれば別に多少の趣味嗜好は変わっていくことぐらいとりたてて気にするところではないかと考えていた。
1時間ほど経ち、彩夏は甘いチューハイ、僕はハイボールを飲む。仕事の話やプライベートのこと、どちらも充実しているようだ。今彼氏はいるのだろうか。やはり気にならないと言えば嘘になる。彩夏の方から切り出してくれないかな…
そう思っていた矢先に、
「真ちゃん、彼女は?」
テレパシーかと思うくらい間髪入れずに来るじゃないか…だから尚更動揺してしまった。でも彼女はいない。だからそのまま、
「いないよ」
と答えた。表情は焦っていたかもしれないが、彩夏はそれに対し動揺する様子もなく、
「そうなんだ」
と答えた。
そこで会話が終ってしまいそうだったのもあり、今聞き返すのがベストなタイミングと思い、落ち着いて、
「え、彩夏はどうなの?」
と聞き返した。すると、
「私?結婚したよ」
と言った。え?結婚?それなのにこうやって会ってて大丈夫なのか?
「え…結婚?」
と今度こそ動揺した。すると彩夏は
「うっそー、冗談だよ!」
と…
彩夏はやっぱり何も変わってない。
「な、なんだよ!その冗談。」
「あははは」
してやられた。いつもこうだった。昔の記憶も蘇ってきて、とても楽しかった。
でも、待てよ、結局はぐらかされた。彼氏がいるのかいないのか、結局分からなかったではないか。
聞くべきか、聞かないべきか…
すると程なくして、
「彼氏はいないよ」
と、真顔で彩夏の方から言ってきた。
何だかずっと心を見透かされている。昔から鋭いところがあった。落ち込んでいることを隠していてもすぐに気付かれたし、サプライズで何かしようとしても、「今日、何か隠してるでしょ」と言われる始末。もうかなわないな、と考えていた。
でもそれらの感情は、今ではもう友達としてのものであることも同時に感じていた。でも彩夏の方はどう思っているのだろう。確かめたいが、怖い気もする。今日はこのまま何もなく終えればいいのかもしれない。
少しだけ複雑な気持ちで、3杯目のハイボールを頼んだ。
彩夏の方は2杯目のチューハイをまだ飲んでいるが、もう顔が紅潮し、呂律も少し怪しくなっている。このお酒で今日はもう終わりにして帰ろうと考えていた。すると彩夏の方から
「真ちゃん、今好きな人いる?」
と聞いてきた。その瞬間、あの、ホームで倒れた患者さんのことが浮かんだのだ。石田茜さん、名前も覚えている。顔は今前にいる彩夏とそっくりだから、顔も思い出せる。それは何だかありがたいことだなと、変なことを思っていた。そして、彩夏からの質問に今度こそ動揺していた。
「え、好きな人?うーん…」
と言ったところで、
「いるんだね」
と言われた。そうだ、彼女には嘘はつけない。いるんだね、と言われて、
「いないよ」と言っても絶対に見透かされる。だから、
「あ、うん、あーでもまだ分からないんだ」
と率直な気持ちを言った。すると、
「分からないって、何それ」
確かに、分からないって変なのか?いや、恋の始まりってそういうものだろ?と思い直し、
「いや、分からないっていうのは、まだ数日前に会ったばっかりなんだ。」と言い訳をした。
「あーなるほど。それはまだ分からなくて当然だね。で、どんな人なの?」と聞いてきた。何でもズバリ聞いてくるのも彩夏のいいところであり、悪いところでもある。
(どんな人、か…)
「どんな人かも分からないくらい、まだ会ったばっかりなんだよ。でも…」
「でも?」
「でも、彩夏とは少なくとも正反対っぽい」
「何それ、なんかムカつくんだけど」
「あ、ごめんごめん、そうだよな、そういう言い方はないか」
本当は彩夏に言いたかった。顔が彩夏とそっくりだという事を。
でもそしたら、それはそれで彩夏も複雑な気持ちになるだろう。
何だか難しいことになっている。
「正反対って、その人は守ってあげたい、とか、放っておけない、とか、そういう感じってこと?」
「簡単に言えば、そういうことになるのかなぁ」
ああもう、一言えば十返ってくる。さらに、
「私正直、真ちゃんには、そういう人の方が似合ってると思うよ」
少し意外な答えが返ってきた。
もしかしたら少しは嫉妬するのかと思ったが、嫉妬のしの字もないのか?
でも何故そう思うんだろう。
「なんで、そう思うの?」
「うーん、何となく」
理由は無いんかい!でもその後に、
「真一郎はさ、やっぱり本当に優しい人だから。医師を目指す理由ってみんなそれぞれ色々あると思うけど、真一郎が医師を志した理由、あるでしょ?誰一人苦しい思いをして欲しくないとか、そこに寄り添いたいとか。真一郎のその優しさは、少し手を差し伸べたくなるような女性に向けるべきだと思う。昔からそう思ってた。」
そうなんだ…そんな話は一度も聞いたことがなかった。そんな風に思っていたんだ…そして、
「だからね、私じゃないんじゃないかって、思っていたんだよ、昔から。」
彩夏…今までそう思っていたんだ…それは彩夏にとって辛くなかったのかな、彩夏だって弱いところがある。強がっているようなところも、可愛いところもある。それなのに…
「私は全然大丈夫だよ!それよりも、私は真ちゃんに幸せになってほしいってほんとに心から思っているから」
驚きとうれしさで言葉が出なくなってしまった。それでも自分の心をしっかりと見つめた時に、今心の中にいる人は、石田茜さんだった。
不思議だな、彩夏に惹かれていた自分も本当。でも彩夏が言った、僕に似合う女性像は、本来僕が一緒にいたいと思う女性像かもしれない。
やっぱり、彩夏には、全て見透かされていた。
「彩夏、ありがとう。なんか、分かった気がするよ。自分の事って自分ではよく分からないこと多いから、彩夏みたいな人にこうやって自分という人間はどういう人間かって言ってもらえて、ハッとさせられた。やっぱりよく人のこと見てるな。医師の鑑でもあるし、彩夏の優しさでもあるよな。」
すると彩夏は真っ直ぐこちらを見て、
「でも、私、真ちゃんのこと、まだ好きだよ」
え?何?なんなんだ?また彩夏流の冗談なのか?と思った瞬間、かなり困った表情をしてしまった。すると、
「なんてね!やっぱり真ちゃんをからかうの楽しい!私、悪い女だね!」
そう言って大笑いした彩夏に感謝した真一郎は、彩夏が少し悲しそうな表情をしたことも見逃さなかった。
それでも自分自身も前に進みたいし、自分に嘘だけはつきたくない。そして、彩夏が言ってくれたことは合っていると思った。
こんなにも僕のことを分かってくれてる人は他にいないと思う。
何年か会ってはいなかったが、一緒に過ごした年月は、誰と過ごした時間よりも濃かった。こんな人と出会えて、僕は幸せ者だな、本気でそう思っていた。
彩夏は、「明日も早いし、そろそろ帰ろうかな」と言った。
もしかしたら、2軒目とか、そういう話も出るのかもしれない、と思っていたが、少し安心した自分もいる。
もっと色々な話もしたかったが、また会う機会を持てばいい。
性別を超えて戦友、親友のような感覚を今日感じた。
そしてそれよりも僕が今やるべきことは、石田茜さんにどうにか僕のことを心の隙間に入れてもらうこと。
僕という人間を認識してもらうこと。
そのためにどうすればいいか、考えていた。
彩夏とは「また飲もうね」と握手をして別れた。これからも医師という仕事をお互い全うしよう、そういう気持ちで…
雨の中、傘をさして暗闇に消えていく彩夏。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。医師という同志としてこれからもよろしくな、そんな気持ちで彩夏の背中を見送った。
茜は、受診後買い物でもして行こうかと思っていたが、看護師から受け取った封筒が気になって仕方がなかった。
それを気軽に開ける気持ちにはなれなかったので、家で落ち着いて見ようと思った。
自宅に戻り手を洗ってうがいをし、緊張を落ち着かせるために好きなハーブティーを淹れた。
ハーブティーを一口飲み、(フゥー)と息を吐き、封筒にハサミを入れた。
中には半分に折り畳まれた便箋が1枚入っていた。
一体何が書かれているのだろう?
胸の高鳴りと同時に不安もあった。
病院で受診をして、個人的に医師から手紙を渡されるって聞いたことがない。
恐る恐る開いてみた。
そこには丁寧な字で数行のメッセージが書かれていた。
《石田さんへ 先日は急に倒れてしまい、驚かれた事でしょう。私は医師ですが、このようなことは私にとっても初めてのことでした。でもこれも何かのご縁かと思います。もしよろしければ、何か身体的に不安があれば今後も手助けをさせて下さい。》
と書かれていた。そして最後に名前と、携帯電話の番号が書かれていた…
茜は驚きと喜びと、でも少し(身体的な不安があれば、か…)と思っているところもあった。これは医師として、なのか、一人の男性として、なのか、一体どちらなのかが読み取れなかったのだ。
いや、私何を贅沢なことを言っているの?あの朝の出来事から今日のこのお手紙まで、言ってみれば夢のような幸運とも言える出来事が続いているではないか。今までの冴えない人生からは考えられない。
今回のプレゼンの機会は逃してしまったし、思いを寄せる上司に対しても、とても残念な思いをさせてしまい、自分としても残念だったが、もしかしたらそれ以上に私にとって人生を動かすきっかけとなる出来事だったのかもしれない。そう前向きに考えられるようになっていた。
今までなら、自分なんて…と自分の人生には何の期待も出来なかったため、もしかしたらチャンスを逃してきていたのかもしれないし、気付くことすらなかったのかもしれない。
それに比べたらこの出来事は神様がくれたプレゼントなのかも…そう前向きに捉えることが出来ていたし、茜にとって大きな大きな前進を意味していた。
そしてもう一度読み返し、このお手紙を大切な御守りにしよう、と思っていた。
それから1週間ほど経った。
茜の体調は問題なく、仕事も順調であった。あの日出来なかったプレゼンの機会もまた設けてくれるとのことで、気持ちは明るく前向きだった。
物事の捉え方も以前とは少しだけ変わってきていた茜は、思いを寄せている上司に対しても、その思いはただの憧れ、私の中の父への幻影が、ただそうさせていただけだったんだな…そこへ気付き始めていた。
そこに気付いたことによって、さらに中村先生への気持ちはまた今までとは違い、特別なものであると気付き始めた。
駅でのあの出来事は、偶然ではあるが、必然なのかもしれない。私にとって運命を変えた瞬間に違いない。
そして、それらの気付きと共に、茜の中に長い間あった上司への気持ちは、完全に終わりを迎えていたのだった。
7月上旬、梅雨のジメジメした日が続いていた。あの出来事から1ヶ月近く経ったが、茜は中村先生の事を思い出さない日はなかった。
あの倒れた駅のホーム。そういえばあの朝あの駅にいたという事は、家も近いのだろうか…?あの日はいつもより早い時間の電車に乗ったから会えたのだと思う。でも、最寄りの駅があそこだとしたら近くに住んでいるの?あの日以来、駅のホームで会うことはなかったけど。
今仕事中かな?今日は夜勤かな?疲れていないかな?ちゃんとご飯食べてるかな?
こういうことを考えるということが「好き」ということなのかな…?
こんな感情を持ったのは初めてだ…
やはり「好き」と「憧れ」は似ているようで違う。33歳にして初めての感覚だった。
そして恐らくその「好き」という気持ちが、日に日に風船のようにパンパンに膨れ上がってきた。ずっと彼のことを考えている。何を見ても何を聞いても、彼に繋がっていく。胸が苦しい。涙が出そうになる。食事も喉を通らない、会いたくて仕方ない!!
茜はそれらの身体の異変を感じていた。この異変は何だろう。
そして彼からの手紙を忘れた日はなかったため、連絡してみようと思い、もう一度手紙を読み返した。
《身体的に不安があれば、手助けさせて下さい》
身体に異変は生じているし、確かに不安だ。でもこんなこと相談していいのかな…
茜は手紙に書かれた電話番号を見つめ、しばらく考えた。
少しずつ前へ進みたい。そして進めている自分もいるが、ここが私の人生の分岐点に違いない…
33年間何もなかった人生に終わりを告げたい!よし、思い切ってかけてみよう!!
茜は今まで感じたことのない緊張を感じながら、書かれた番号をゆっくり押す。とうとう最後の数字を押した。夜の8時過ぎ。時間的には問題ないと思われるが、出てくれるかな…
電話口でやさしい、だけど恐る恐る「もしもし」という声がした。茜は思わず電話を切ってしまいたくなったが、一呼吸おいて
「あ、あの…中村先生のお電話でしょうか?」
「あ…はい、そうですが…」
「あの私、石田と申します。その節は大変お世話になりました」
「あ、石田さん?石田茜さんですか?」
明るい声に変わり、そして名前を覚えてくれている…なんということだろうか!
「あ、はい、駅のホームで倒れてしまった石田茜です」
「電話してくれたんですね!よかった!ありがとうございます!」
「いえいえ!私こそ、助けていただいたにも関わらず、大したお礼も出来ず、本当に申し訳ありませんでした!」
「いえ、いいんです。…あの…僕が渡した手紙…ご迷惑じゃなかったですか…?」
「迷惑だなんてそんな、とんでもないことです。逆にうれしかったです…」
「本当ですか?それはよかった!軽々しくあんな物を渡してしまって、ご迷惑じゃないか心配していたので…」
「そうだったんですね…もっと早くご連絡すればよかったですね。ごめんなさい…」
「いえいえ、石田さんが謝ることじゃないんです。僕の自分勝手な行動だったので」
「……」
「石田さん…?」
「あ、はい!」
「今日お電話くれたのは…」
「あ!そうですよね、あの、私…」
「はい」
「身体の具合があまり良くなくて…あのお手紙に身体的に不安があれば手助けさせてほしいと書かれていたので、先生にご相談しようと思ってかけてしまいました」
「そうなんですね…大丈夫ですか?具体的にどんな症状が」
「胸が苦しかったり、食べ物が喉を通らなかったり、夜眠れなかったり…」
「…あ、はい…他にも何かありますか?」
「頭の中にずっと1つの事があって、仕事にも集中出来ないですし、気が付くと涙が出てしまったり…」
「なるほど…頭の中にある1つの事というのは、具体的に何のことか分かりますか?」
「はい…わかります」
「それは何か聞いてもいいですか?」
「はい…あの、先生のことです」
「先生とは…」
「中村先生のこと…です」
あまりにも真っ直ぐに思いもよらない言葉が携帯電話の向こうから発せられ、
「え?」
と言ってしまった。すると、
「中村先生、私、先生のことが好き…?なんでしょうか…」
さらに真っ直ぐな言葉が真一郎めがけて来た。
「えーっと、石田さん。それは、あの…」
真一郎は困ってしまっているが、うれしさも隠せない複雑な心境が声に出てしまっている。
茜もふと我に返り、でも落ち着いて、
「自分では分からなくて、身体の不調もあったので、それで先生に相談させていただきたくて」
と返事をした。
真一郎は思いも寄らない茜からの言葉に、心の底からあの朝出会えたことに感謝していた。そして、手紙を渡してよかったと思っていた。
そして思い切って石田さんが連絡してくれたからこうして気持ちを聞くことも出来た。
まだ石田さんは自分の気持ちがわからなくて当然だ。ちゃんと会って話して、それからだろう。それは僕も同じ。
偶然や勇気が重なり合い、こうして運命の背中を押し、人は幸せを掴んでいく…運命が動いたのを感じていた。
「あの、石田茜さん!会いたいです!!僕と会ってもらえませんか?」
数日後、あの倒れた駅の改札口近くで待ち合わせした。お互いが早く会いたいという気持ちだったが、それを口に出さずともお互い同じ気持ちだった。最短で会える日を決めた。
茜の緊張は今までの人生で感じたことのないものだった。そして待ち合わせ時間よりかなり早く到着し、中村先生が来るのを待った。
7月上旬なので梅雨明けはまだまだ先だ。小雨が降る日だった。夕方の6時半、待ち合わせの時間になった。
あの朝助けてくれた時の眼差し、診察室での表情…それらの面影を何となく覚えているが、薄靄がかかっていてハッキリとは浮かんで来ない。
が…現れた瞬間、その場所に光が射した。小雨が降っているのに、光が射したのだった…
こちらへ向かって来てくれた。
「石田さん、ですね」
「あ、はい!」
「お待たせしてごめんなさい!」
「いえ、全然待ってないです!」
そう言うと真一郎は茜の恥ずかしそうにうつむく顔を見つめて微笑んだ。茜はまだまともに真一郎を見ることが出来ずにいた。
「こんな時間なので、お食事でもしませんか?」
と言ってくれた。茜は今日はお茶くらいの気持ちだったため少し戸惑っていた。すると、
「今日は急でしたし、お茶ぐらいにした方がいいです…よね?」
と察してくれた。とてもありがたかった。男性とのデートも初めてのこと、まさか、この年齢で初めてなんて彼は思ってもいないだろう。でも何かを察してくれてうれしかった。そして、
「はい、今日はお茶ぐらいでもいいですか…?」
と正直に伝えることも出来た。すると、
「もちろんです」
と笑顔で答えてくれたのが本当にうれしかった。
駅前にあるカフェに入った。男性とプライベートでお茶をしたことは今まで一度もない。緊張が伝わり、注文も支払いも全部してくれた。
席につき向かい合わせに座った。
まともに顔を見れないが、中村先生はこちらを見ている。そして、
「石田さん。身体の具合はいかがですか?」
プライベートでも常に医師モードなのだろうか?いや、私がこの前電話で変なことを言ったからだろう。心配をかけてしまっているようだ…と、また申し訳ない気持ちで、
「ご心配をおかけしてすみません、あの…電話で話したような不調はまだあります。でも倒れて打った所は問題ないと思います…」
と言うとすぐに、
「石田さん、僕から話してもいいですか?正直に言います。僕は石田さんと初めて会ったあの朝から、ずっと石田さんの事が気になっていました。なので、電話をくれて、もしかしたら僕のことを好きかもしれないと言ってくれて、僕は本当にうれしかったんです。」
と、真っ直ぐに目を見て言ってくれた。茜は(え……)と心臓が早く打ち始めたのを感じていたが、真一郎は話続けた。
「なので、今日こうしてやっと会えて、僕は本当にもう何と言っていいか…こんなにうれしいことはありません」
いや、先生それは私のセリフです…でも、先生…先生も私のことを好きなの?そんなこと、ある?茜はうれしいを通り越し、宙に身体がフワフワ浮いたような感覚になり、でもそれをしっかりと俯瞰している自分もいて、
「先生私分かったかもしれません…私、中村先生のこと、好き…です。そういうことなんだと思います…」
言ってしまった。まともに顔は見れない、でも生まれて初めての「好き」を言ってしまった。
その言葉を言えた自分もうれしかった。自分の殻を破ることが出来た。それって、こんなにも清々しい気持ちになることなんだな…それは年齢関係ないんだな…と喜びに浸っていた。すると、
「石田さん、ごめんなさい、僕、カルテで分かってしまったんですが、僕の方が年下なんです」
え…若いとは思ったが、やっぱり年下なんだ。え?いくつ?なんかちょっと申し訳ないな…
「それでもよろしければ、お付き合いを前提に、僕のこともっと知ってほしいです」
これは現実なのか?テーブルの下で手の甲をつねってみた。痛い。つねらなくてももちろん現実だと分かっているが、夢見心地の自分の目を覚まさせたかった。そして、
「先生の方こそ本当にいいんですか?」すると、
「僕、初めて会った時から分かったんです。この人のこと好きになるな、きっとずっと一緒にいたいって思うだろうなって」
え…なんで?今までそんなこと思ってくれる人なんていなかった。私が鈍感とかそういうことじゃなくて。
でもこれは現実。私はそれをしっかりと自分に言い聞かせ、自分の思いも告げた。
「私、実は今まで一度も男の人とお付き合いしたこともなければ、好きになったこともないんです…ちょっとおかしいですよね?でも、先生には初めてその『好き』という感情が芽生えたというか、感じることが出来たみたいなんです。でも正直まだよくわからなくて、体調もおかしくて、だからお電話を…」
「石田さん、大丈夫ですよ。それ以上言わなくても大丈夫です。その気持ちをこれから2人で探しに行きましょう。」
そしてこの日は7月7日の七夕だった。小雨の曇り空ではあったが、空の彼方の銀河で織姫と彦星が出会えているように、私達の運命も交わり始めていたのだった。
次の週末、今日と同じ場所で待ち合わせすることを決めた。その時にやはりこの駅が彼も最寄りの駅だということがわかった。こんなにも近くにいたのに、ずっとすれ違っていたのかな?
あの朝倒れたのは、きっと一人で頑張ってきたことへのご褒美だったのだと今は思えていた。
まずは1週間後。次はデートということになる。茜にとっては生まれて初めてのデート。緊張もすると思うが、お互いのことをたくさん知る機会にしたいと思っていた。
1週間経つのはとても早く感じた。毎日鏡を見ては大丈夫だと言い聞かせた。そして何を話そうかと考えたり、聞きたいことを考えたりした。
まずは駅で待ち合わせて、その後どこへ行くのかな?何か考えてくれているのかな?色々なことが頭を駆け巡り、いよいよその日が来た。
日曜日の駅前はいつもより家族連れやカップルが多い。そんな光景を見ながら茜は緊張を感じながらも前回の待ち合わせよりはリラックス出来ていたと思う。
また時間より早く来てしまった。
いつもの日曜日よりかなり早く起きて身支度した。今朝は梅雨がもうすぐ終わりそうな陽射しを感じる曇り空の朝だった。
そして待ち合わせの時間に彼が現れた。普段お仕事へ行く時とはまた違うように見える。そういうのがまた新鮮でドキドキしてしまった。
それは真一郎も同じだった。今まで何度か会った時とはまた雰囲気が違い、正直ドキドキしてしまった。初デート特有のドキドキをお互いが感じていた。
「おはようございます」
「おはようございます、また今日も僕の方が遅くなっちゃったな」
「私、いつもこうなんです。心配症で…」
「1つ石田さんのことが分かった気がします」
と言って2人で笑い合った。
そして真一郎は茜を連れて行きたい場所があると言った。それは、中学生の時に亡くした親友のお墓だった。墓地へ向かう電車の中で、その親友が亡くなったつらい、それでいてそれが医師を志すきっかけとなったというエピソードを話してくれた。
茜は本当にうれしかった。そんな彼の大切な過去を話してくれて、そんな大切な場所に連れて行ってくれるという事が…
2人で彼の親友の墓前に手を合わせる。そしてその意味を噛みしめていた。
そして彼の親友に茜は話しかけた。(自分は父を亡くしていますが、その父と同じくらいあなとのこともずっと心に想い続けます)と。そしてまた、真一郎も親友に茜を紹介出来たことをうれしく思っていた。
お墓参りのあと、2人はとにかくたくさん話したい気持ちだった。何よりもお互いが相手の事を早く知りたいと思っていた。
茜はもう33歳。その年齢を真一郎も知っていたし、何故今まで好きな人が出来なかったのか、茜の過去から現在をもっと知りたかった。
ランチをしたり、公園に行ったりしてとにかくたくさん話した。茜も、真一郎が聞いてくれたことに全て答えたし、茜もたくさんのことを質問した。そうしてお互いの知らなかった時間のパズルが1ピース1ピースどんどんはめられていった。
そして茜の過去で避けては通れないお父さんのこと…真一郎は穏やかに優しく聞いてくれた。その時間は、茜にとって自分の中にずっと鍵をかけ、開けることはないと思っていた箱だった。でも今それを開け、1つ1つの思い出を大切に愛でる時間となった。自分でも(こんなこと思っていたんだな…)と気付くこともあった。それくらい、改めて自分を認め、許し、肯定する時間でもあった。
真一郎は茜の過去をゆっくりと聞いてあげた。真一郎にとっても、茜をより愛おしく思う時間となっていたし、今までの悶々とした気持ちがとても晴れ晴れとした気持ちになっていた。
普段なかなか話すこともない、自分の過去やつらい出来事たち。こうして話すこと、そしてそれを聞いてくれる人がいるという事の大切さを、お互いが改めて感謝していたのだった。
今日は朝からたくさんの時間を一緒に過ごし、とても満たされていた。明日はお互い仕事のため、夕方には帰ることにした。そしてまた来週の日曜日、今度は茜の実家の近くにある、茜のお父さんのお墓へ行こう、と真一郎が言ってくれたのだった。お父さんのお墓へ好きな人を連れて行けるなんて思ったこともなかった。とても不思議な気持ちがしていた。
今年は長めの梅雨となった。雨は嫌いじゃない茜だったが、やはり晴れた方が気持ちが晴れるな…そんなことを最近は感じでいた。
そして長かった梅雨がようやく明けた今日、お父さんのお墓参りへ行く日と重なった。暑さが本格的になり、セミがけたたましく鳴き始め、とうとう暑さも本格的になってきた!
やっぱり夏はワクワクするし、何か楽しいことが起こりそうな予感もする。人並みにそんなことを感じられるようにもなっていた。
そんなある意味ワクワクした梅雨明けの朝、まずお父さんの写真に手を合わせ、(今日行くから待っててね)と挨拶をした。写真の中のお父さんはやっぱり完璧で大好きだった。
そしていつも通りのお化粧をし、髪型をセットした。洋服は落ち着いたトーンを選んだ。
特急で片道1時間30分ほど。2人でゆっくりお話しするにもちょうどいい時間だな、と考えていた。まだまだ彼と話したいことはたくさんある。お父さんにもたくさん話したいことがある。
2人と話すことを考えていた。
そしてお父さんの写真をカバンに入れて家を出た。
待ち合わせの時間。今日は真一郎が先に着いて待っていた。茜は小走りで走り寄る。
「ごめんなさい!お待たせしました!暑いですね」
「そうですね、いよいよ梅雨が明けましたね」
その会話で、夏が来たことを再び再確認した。
特急に乗るため大きな駅に移動した。梅雨が明けた街はみんなが楽しそうに見えた。
それにしてもまだ会って間もない私や私の父のためにこんなにも色々してくれる。なぜなのだろうか?ふと疑問も湧いてきた。一目惚れってあるけど、そういうこと?
ただ、目の前で倒れてしまったことで、ただ情が湧いているだけとか…
理由があるなら聞いてみたい。そんな積極的な気持ちも出て来ていた。
電車に乗り、真一郎の顔を見た。でも、やさしい顔を観ていたら、さっきの質問は出来なかった。彼の目を見ていたらやっぱり信用出来る気がする。そんなこと、聞く必要ないな…と考えて直していた。
電車の中では、茜の母のこと、真一郎の家族のことを話した。
真一郎の家族は誰も医療関係者はいないらしい。お父さんはサラリーマン、お母さんは書道の先生だと聞いた。それなのに、よく医師という大変な仕事を目指したな…尊敬の思いだけが湧いてきた。やっぱりこの人はすごい人だと改めて思っていた。
駅に到着した。電車から降りると真夏の照りつける暑さで一瞬怯んだ。実家まではまだここから少し距離がある。今回は実家へは帰らず、お墓参りだけをしようと思っていた。
駅前の商店でお花を買い、墓地までの道を歩いた。のどかな場所だ。民家がポツポツとあるが広大な田んぼが広がっている。夏を迎えた稲穂がすさまじい生命力で揃って真っ直ぐ空へと向かっていた。石田さんはこんな風景で育ったのかな…?と真一郎は微笑ましい気持ちで見ていた。
10分ほどで到着した。2人とも汗だくだ。墓地は少し小高い丘の斜面にあり、照りつける太陽を避けるように影が出来ていてとても助かった。
水を汲み、お墓へ向かった。
大きな墓地なのでまた少し丘を登り辿り着いた。お父さんのお墓は上の方だったため空が近く、下界の眺めもよい。茜は、
「お父さん、空が好きだったんです。なので、少しでも空に近い場所にお墓を建てたかったんです。たくさん歩かせてごめんなさい」
「そんな、謝らないで下さい。とってもいい眺めですね」
「そうなんです。ここに来ると気持ちも落ち着くんです」
「うん、とってもいい場所ですね」
お墓の掃除をして、2人で手を合わせた。
真一郎は墓前で、『石田茜さんと偶然出会えたことに感謝しています。運命とかそういうものを信じていなかった僕ですが、茜さんと出会えたことは運命だと思えました。まだこれからももっと茜さんのことをたくさん知りたいです。お父様、どうか僕たちのことを見守っていて下さい。茜さんをずっと大切にします。』
茜は、『お父さん、私初めて好きと思える人に出会えたよ。とってもステキな人。お父さんも会ったらきっと彼のこと気に入るはず。会わせたかったな。天国で私達のこと、見守っていてね。大好きだよ』
と伝えた。
日が傾いてきた。少しだけ涼しくなってきて心地よい夏の夕暮れ時。遠くに見える田んぼの稲も風でなびいて、より穏やかな気持ちにさせてくれた。
お父さんのお墓が見える場所で座り、しばらく2人で空を眺めていた。
だんだんと西の空が色づき始めていた。茜はどうしてもここで夕焼けを見せたかった。
『やっぱり夕焼けは夏が一番きれいだと思う。茜の誕生日の頃、夏こそが最も美しいとお父さんは思ってる。毎日よく空を眺めてごらん。素晴らしいことが待っているよ』
お父さんの声も聞こえた気がした。
そう、そして明日は茜の誕生日だった。
「あの…実は明日、私、誕生日なんです。」
真一郎は驚き、
「そうなんですね!!一日前だけど、今日お父さんのお墓に来ることが出来て、よかったですね!!」
と、自分のことのように喜んでくれた。
本当は一人で来ようと思っていたから、こうして大切な人と一緒に来ることが出来て、本当によかった…
茜自身もその喜びを噛みしめていた。
そして茜という名前の由来も聞いてもらった。
真一郎は感激して、
「なんて素敵なお父さんなんだろう…お会いしたかったな…」
と、少し目が潤んでいた。
私があの朝倒れなければ、出逢うこともなかったのかな?不思議なご縁を感じずにはいられなかった。
でも全ての物事は偶然のような顔をして必然であると思う。だからいつかは出逢っていたのだろう。
長い梅雨は私の心と同じようだったが、いつかは明けるのだ。そしてその梅雨明けと共に私の運命も動き始めた。そして夕焼けが美しい季節へと移り変わっていく。
人生もその繰り返しだと思う。
ずっと曇り空だったり、雨ばかりは続かない。青く澄み渡ったり、様々な色に彩られる。その様は人の人生と同じだと思う。
太陽はもう沈みかけて西日が眩しい。それとともに西の空がほんのり色づいてきている。
美しい茜空になるまであと少し。
2人は2人のこれからをその空の色に重ね合わせ、変わっていく様を黙ってじっと眺めていた。
少しずつ少しずつ変化していく空…
私達もそれでいい。ゆっくりゆっくり歩いていこうね。