治療不可能な恋をした

その背中を見送りながら、梨乃はふと足を止め、少しだけ思いを巡らせる。

ほんの半年前までは「仁科先生」と呼ばれていた。けれど今は、こうして自然に「逢坂先生」として日常の中に立っている。

その響きはまだ少しくすぐったく、けれどそう呼ばれるたびに、彼と結婚できた実感が胸にじんわりと広がっていく。

そんな時、廊下の向こう側から声がした。

「次の肺動脈形成、手術までにカテーテルの結果を整理しておく必要があるな」

「了解です。心エコーの最新所見、手術前に再確認しておきますか?」

「そうだな。それと術前の血ガスと凝固系も合わせて確認しておいてくれ」

「はい、承知しました」

聞き覚えのある声に、梨乃は廊下の向こうに目を向ける。

そこでは理人が心外の同僚と並び、手術や検査の話を交わしながら歩いていた。表情は真剣そのものだが、その視線がふとこちらに向いた。

目が合うと、理人はごく自然に口角をわずかに上げ、口の動きで『おつかれ』と告げてきた。そのさりげない仕草に、梨乃の胸がふっと温かくなる。

(もう。ちゃんと集中してよ)

そう思いながらも、梨乃は小さく会釈を返し、口元に柔らかな微笑みを宿した。

忙しさに追われ、慌ただしい毎日の中でも確かにここにある、ささやかな夫婦の時間が、静かに胸を支えていた。

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