蒼へ沈む
Prologue


夜明けを待つ海風は、思っていたよりも冷たかった。
高台の道を上りきると、かつて見慣れていた町が、朝靄の向こうに眠っていた。

――汐鳴町。
幼い頃を過ごした、あの小さな港町。
大学への進学を機にここを離れ、都会での生活に慣れていたつもりなのに、潮の匂いを嗅いだ瞬間、喉の奥が少し震えた。

戻ってきたかったのか。戻ってきたくはなかったのか。
自分にはもう分からないし、例え戻ってきたくはなかったとしても、拒否権は与えられていない以上考えるだけ無駄だった。

見下ろす海沿いには、小さな屋根が幾つも折り重なり、
港から上がる漁船のエンジン音が霧を震わせている。
あの頃と同じ。けれどどこか、少し小さくなった気がした。

手に下げたトランクの金具が、風でかすかに鳴る。
それに混じって、潮の奥から――ほんの一瞬、歌のような音が聞こえた。
海鳴りか、風のいたずらか。それとも。

胸の奥で、忘れたはずの記憶がざわつく。
“人魚は歌う 想い人を訪うために”

私は息を呑んで、目を閉じた。
潮の匂い。波の音。遠くで光る灯台。
すべてが、記憶の底に沈んでいた“あの町”と重なっていく。

――ただいま。
心の中で、誰にともなくそう呟いた。


< 1 / 57 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop