蒼へ沈む
店を一歩出ると、嵐が掻き回した海の、強く、けれどどこか澄み切った潮の香りが鼻をくすぐった。
私たちは、誰に見られても構わないとばかりに、しっかりと指を絡めて手を繋ぎ、海沿いの道を歩き出した。
嵐が過ぎ去った後の『汐鳴』の町は、相変わらず少し寂れていて、見慣れた光景のはずだったけれど。
アスファルトの水たまりに反射する朝日が、世界をいつも以上にキラキラと輝かせて見せた。
彼の大きく温かい手に引かれながら、私はふと、昔の自分のことを思い出す。
思えば、彼と出会う前の私は、自分の環境を呪ってばかりいた。
この閉塞感に満ちた、噂話ばかりが蔓延る小さな港町で生まれたことも。長女として診療所を継ぐというレールが敷かれていて、『町を出る』という選択肢が自分に最初から用意されていないことも。すべてが息苦しくて、大嫌いだった。
でも。不器用で優しい彼と出会って。
彼が、この町の海の広さや、空の色の理由や、鳴き声をあげる鯨の美しさを教えてくれてから。私は初めて、自分が縛り付けられているこの場所を「綺麗だ」と、心から「好きだ」と思えるようになったのだ。
私の世界を美しくしてくれたのは、いつだって彼だった。
繋いだ手から伝わる、彼の少し不格好で、けれど力強い足音に耳を澄ませる。
これから先、父に何度怒鳴られても、世間からどんな目を向けられても。二人でなら、この場所で、確かな未来を作っていける。
この町で産まれて、この町で彼と共に老いて、いつかこの町で生きて死んでいく。
その静かで、何よりも愛おしい未来を想うと。
私の胸は、あの嵐の後の凪いだ海のように、どこまでも穏やかで、満ち足りた幸福に包まれていた。
*fin*


