蒼へ沈む
温かい朝食の時間が過ぎていく中。
燈矢はそっと、空になったコーヒーのカップをテーブルの上に置くと、少しだけ姿勢を正して静かに切り出した。
「……これからの、ことだけど」
その声には、昨夜までの怯えや迷いは微塵もなかった。
私の瞳を真っ直ぐに見据える彼の顔は、15年分の劣等感を脱ぎ捨てた、一人の頼もしい大人の男の顔だった。
「……送っていくよ。お前、今日も仕事だろう」
時計を見れば、そろそろ病院へ向かう準備をしなければならない時間だ。昨夜の無断外泊と嵐のせいで、私の服はまだ少し生乾きだったけれど、彼のその言葉が意味する『重さ』に、私は思わず息を呑んだ。
私を職場へ送る。それはつまり、私が実家から逃げ出したという事実から目を逸らさず、現実と向き合うということだ。
「それで……」
彼は一つ深呼吸をして、私の手をテーブル越しにぎゅっと力強く握りしめた。
「ちゃんと、ご両親と話させて」
ドクン、と。私の心臓が大きく鳴った。
「……瀬尾先生には、明らかにいいように思われてないし。俺みたいな男が今更何を言っても、納得してもらうのはすごく難しいかもしれないけど」
町で一番の診療所の院長であり、私を厳しく育て上げた父。
その高すぎる壁の存在を誰よりも理解しているはずの彼は、それでも決して目を逸らそうとはしなかった。
「少し時間が掛かったっていい。……何度追い返されても、ちゃんと交際も。そして、夏菜が望んでくれるなら……その先も、認めて貰えるように」
――その先。
それは、彼があれほど「俺には資格がない」と諦め、他人に譲ろうとしていた、私との『結婚』という未来のことに他ならなかった。
「……頑張りたい」
不器用な彼が絞り出した、これ以上ないほど誠実で、真っ直ぐな決意。
逃げるのをやめて、私のために泥臭く戦うと言ってくれた彼の手の温もりに、私の目から再びポロリと涙がこぼれ落ちた。
でもそれは、昨夜までの絶望の涙とは違う。前を向いて、彼と共に歩いていくための希望の涙だった。
「……うん」
私は、彼の大きな手を両手で包み込むように握り返し、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、力強く頷いた。
「私も、協力する。……二人で、一緒に頑張ろう」
嵐が過ぎ去った、眩しい朝の光の中。
15年という長すぎる遠回りを経て、私たちはようやく、二人で同じ未来へ向かって、その最初の一歩を踏み出したのだった。