忘れた記憶が導く、もうひとつの恋-本当に愛する人は誰?-

第2話 揺らぎの始まり

朝なのか夜なのかも分からない。


外の景色は霧に覆われ、ホテルの窓は白く曇っていた。


どれほど時間が経ったのか。


咲(さき)は、与えられた部屋のベッドの端に腰を下ろして、
ぼんやりと天井を見つめていた。


胸の奥が、ずっとざわざわしている。


あの時、声をかけてくれた男性――新堂蓮(しんどう れん)。


名前は、神の館に入った直後に与えられた「仮のもの」だという。


けれど、不思議だった。


初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしい響きがした。


「桐原咲さん、でしたよね?」

突然、ノックの音。


ドアを開けると、蓮が立っていた。


白いシャツに黒いパンツ。

シンプルなのに、どこか誠実さを感じさせる。


「下のホールに集まるようにって。朝食を兼ねたミーティングだそうです。」

「……ミーティング、ですか。」

「ええ。どうやら“ゲーム”のルール説明みたいです。」

咲は小さく頷き、蓮の後ろを歩いた。


ホテルのロビーにはすでに数人が集まっていた。


その中のひとり――赤いワンピースの女性が、咲を見つけるなり
にっこりと笑いかけてきた。


「おはよう。昨日のあなた、ちょっと怯えてたでしょ?大丈夫?」

「えっと……ありがとうございます。」

「私、黒瀬沙耶香(くろせ さやか)。よろしくね。」


人懐っこい笑顔。

けれどその目は、咲の後ろにいる蓮を一瞬でとらえた。

「……ねぇ、そっちの人、あなたの“ペア”?」


「いえ、そんな……分からなくて。」


「ふぅん。かっこいいから、人気出そう。」


軽く笑って去っていく沙耶香。


咲の胸に、またあの小さな棘のような痛みが刺さった。


それが嫉妬なのか、別の感情なのかも分からない。

ホールの中央、天井のスピーカーが再び光を帯びた。
例の「神の声」が響く。

________________________
「あなたたちは十人。
この館に滞在するのは七日間。

七日間で、あなたの“心が選ぶ相手”を決めなさい。

二人の心が一致すれば、記憶は戻る。

一致しなければ、ここで永遠に“他人”となるでしょう。」
________________________

ざわめきが広がる。


「本気で恋をしろってことか……?」


「顔も名前も知らないのに?」


「何それ、バカみたい……!」


けれど、咲の心には奇妙な直感があった。


(――私はきっと、あの人と、もう一度出会うためにここに来たんだ。)


その直感の先にいたのは、隣に立つ蓮。


彼が軽くこちらを振り向いた瞬間、目が合う。


言葉なんてなくても、心が震えた。


けれど、その静かな時間を破るように――
別の男が、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「ねえ、咲さん。あなた、面白い目をしてるね。」


その声はどこか挑発的だった。


長身で、端正な顔立ち。

けれど笑みの奥に何かを隠しているような男。


名札には**速水悠斗(はやみ ゆうと)**と書かれている。

「俺、こういう状況も悪くないと思っててさ。
 顔も名前も忘れてるなんて、まるでリセットボタンみたいだろ?
 だからさ――ここから始めようよ。」


蓮がわずかに眉を寄せる。


咲はその視線の間で、戸惑い、息をのんだ。


“この七日間で、誰を選ぶかで未来が決まる。”


その言葉が、頭の奥で何度も反響した。


咲は知らない。


彼――蓮こそが、かつて自分が最も愛し、そして別れた“元夫”であることを。


そして悠斗もまた、咲の過去に深く関わっていた男であることを。


神の仕掛けた恋の迷宮は、ゆっくりと動き出していた。


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