忘れた記憶が導く、もうひとつの恋-本当に愛する人は誰?-
第5話 消えた記憶、重なる唇
夜。
静かな廊下を、咲(さき)は一人で歩いていた。
部屋に戻っても眠れず、ただ胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
あの庭園で感じた、蓮(れん)の手の温もり。
ほんの一瞬だったのに、ずっと離れなかった。
(どうしてこんなに――心臓が痛いの。)
足が自然に、ラウンジへ向かっていた。
淡い灯りの中、ひとりソファに座る蓮の姿が見える。
彼もまた眠れないらしい。 咲が近づくと、彼はゆっくり顔を上げて微笑んだ。
「……桐原さんも、眠れないんですね。」
「はい。なんだか、心がざわざわして。」
「分かります。僕も、同じです。」
テーブルの上に置かれた紅茶から、白い湯気が立ちのぼる。
咲が隣に腰を下ろすと、二人の距離は近くて、 ほんの少し動けば、肩が触れそうだった。
「……あの、“片想い”のことなんですけど。」
咲が口を開くと、蓮は目を伏せたまま、静かに笑った。 「僕じゃないかもしれませんよ。」
「そうかもしれません。でも――」
咲は言葉を探した。
でも胸の奥にある“確信”だけは、どうしても隠せなかった。
「それでも、あなたを見ると…… 何か、心の奥が懐かしくなるんです。 昔、すごく大切だった人を思い出すような――そんな気がして。」
蓮の指が、テーブルの上で止まる。
そして、ゆっくりと咲の方を向いた。 瞳の奥に、かすかな痛みが宿っている。
「僕も、です。 あなたの笑い方とか、声とか…… 全部、知ってる気がするんです。理由は分からないのに。」
沈黙。 でも、その沈黙さえ心地よかった。
外の霧が窓を伝い、光が滲む。 まるで二人だけを包み込む世界だった。
「――桐原さん。」
蓮がゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、咲の頬に触れる。
あたたかい。 そして、どこか懐かしい。
「こんな風に、触れたことが……前にも、ありましたよね。」
咲は息を飲んだ。
胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。
(そうだ……この感覚。私は、前にもこの人に――)
思い出す。
涙を浮かべた夜。
喧嘩のあと、謝り合って、 彼が「もう離さない」と抱きしめてくれたこと。
映像のように蘇る一瞬の記憶。 涙が頬を伝う。
「……ごめんなさい。なんで泣いてるのか分からなくて。」
蓮はその涙を指で拭った。
「泣かないでください。」
咲が顔を上げた瞬間、 二人の距離が、自然に、近づいていった。
呼吸が重なり、互いの温度が伝わる。
唇が触れるか触れないかのところで―― 蓮が、そっと止まった。
「……駄目だ。今はまだ、全部思い出せていない。」
咲の胸がきゅっと締めつけられる。
けれどその言葉には、確かな優しさがあった。
「でも、約束します。 必ず思い出します。 あなたが誰で、俺が何を失ったのか――全部。」
彼の額が咲の額に触れる。
静かな呼吸だけが響いた。
まるで“キスの代わり”のように、 心と心が重なった瞬間だった。
咲はその温もりの中で、 もうひとつの記憶を見た気がした――
“離婚届にサインをする彼の横顔” “行かないで”と叫んだ自分の声。
――彼だ。あの時の、旦那さん。
胸の奥に、やっと言葉が形を持つ。
けれどそれを伝えようとした瞬間、 外の霧が一気に窓を覆い、館の灯が一瞬、消えた。
蓮の姿が、霧に飲まれていく。
「蓮さんっ……!」
叫んだ声が、暗闇に吸い込まれた。
その瞬間、咲の中で封じられた記憶の扉が、完全に開いた。
静かな廊下を、咲(さき)は一人で歩いていた。
部屋に戻っても眠れず、ただ胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
あの庭園で感じた、蓮(れん)の手の温もり。
ほんの一瞬だったのに、ずっと離れなかった。
(どうしてこんなに――心臓が痛いの。)
足が自然に、ラウンジへ向かっていた。
淡い灯りの中、ひとりソファに座る蓮の姿が見える。
彼もまた眠れないらしい。 咲が近づくと、彼はゆっくり顔を上げて微笑んだ。
「……桐原さんも、眠れないんですね。」
「はい。なんだか、心がざわざわして。」
「分かります。僕も、同じです。」
テーブルの上に置かれた紅茶から、白い湯気が立ちのぼる。
咲が隣に腰を下ろすと、二人の距離は近くて、 ほんの少し動けば、肩が触れそうだった。
「……あの、“片想い”のことなんですけど。」
咲が口を開くと、蓮は目を伏せたまま、静かに笑った。 「僕じゃないかもしれませんよ。」
「そうかもしれません。でも――」
咲は言葉を探した。
でも胸の奥にある“確信”だけは、どうしても隠せなかった。
「それでも、あなたを見ると…… 何か、心の奥が懐かしくなるんです。 昔、すごく大切だった人を思い出すような――そんな気がして。」
蓮の指が、テーブルの上で止まる。
そして、ゆっくりと咲の方を向いた。 瞳の奥に、かすかな痛みが宿っている。
「僕も、です。 あなたの笑い方とか、声とか…… 全部、知ってる気がするんです。理由は分からないのに。」
沈黙。 でも、その沈黙さえ心地よかった。
外の霧が窓を伝い、光が滲む。 まるで二人だけを包み込む世界だった。
「――桐原さん。」
蓮がゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、咲の頬に触れる。
あたたかい。 そして、どこか懐かしい。
「こんな風に、触れたことが……前にも、ありましたよね。」
咲は息を飲んだ。
胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。
(そうだ……この感覚。私は、前にもこの人に――)
思い出す。
涙を浮かべた夜。
喧嘩のあと、謝り合って、 彼が「もう離さない」と抱きしめてくれたこと。
映像のように蘇る一瞬の記憶。 涙が頬を伝う。
「……ごめんなさい。なんで泣いてるのか分からなくて。」
蓮はその涙を指で拭った。
「泣かないでください。」
咲が顔を上げた瞬間、 二人の距離が、自然に、近づいていった。
呼吸が重なり、互いの温度が伝わる。
唇が触れるか触れないかのところで―― 蓮が、そっと止まった。
「……駄目だ。今はまだ、全部思い出せていない。」
咲の胸がきゅっと締めつけられる。
けれどその言葉には、確かな優しさがあった。
「でも、約束します。 必ず思い出します。 あなたが誰で、俺が何を失ったのか――全部。」
彼の額が咲の額に触れる。
静かな呼吸だけが響いた。
まるで“キスの代わり”のように、 心と心が重なった瞬間だった。
咲はその温もりの中で、 もうひとつの記憶を見た気がした――
“離婚届にサインをする彼の横顔” “行かないで”と叫んだ自分の声。
――彼だ。あの時の、旦那さん。
胸の奥に、やっと言葉が形を持つ。
けれどそれを伝えようとした瞬間、 外の霧が一気に窓を覆い、館の灯が一瞬、消えた。
蓮の姿が、霧に飲まれていく。
「蓮さんっ……!」
叫んだ声が、暗闇に吸い込まれた。
その瞬間、咲の中で封じられた記憶の扉が、完全に開いた。