マルベリーの木の下で、あなたはわたしの全てを奪う

外伝 夏の夜の夢 後編

 その日の公演が終わり、広場に集まった人々が家路についてしばらくした頃、パタパタという軽い足音が聞こえてきた。

「お待たせ、アイザック。ねえ、今日のあたし、どうだった?」

 普段着に着替えたカタリーナが勢いをつけてアイザックの胸に飛び込んで来る。両腕で彼女を抱き止めてこう答えるのも、もうすっかりいつものことだ。

「素晴らしかったよ、僕の天使」

 口づけを交わし、顔を見合わせて微笑み合う。仕事を終えたカタリーナが十九歳の娘の顔に戻って切実に訴えた。

「ああもう、お腹ペコペコ。もっと早く出て来たかったんだけど、団長との話が長引いちゃって……ごめんなさいね、アイザック」
「君のせいじゃないよ。とにかく食事にしよう。さあ座って」

 カタリーナの手を取って、広場に隣接した市場の一角にある食堂のテーブルに座らせる。仔牛のカツレツに、野菜の酢漬けに、たっぷりとバターを塗った丸パン。若い二人は存分に食事を楽しんだ。

「んー、美味しかった、ご馳走様」

 満ち足りた表情でフォークを置いたカタリーナを眩しそうに見ていたアイザックは、さりげなく支払いを済ませると声をかけた。

「ちょっと外で話そう」

 その言葉にカタリーナもふと真剣な表情になり、二人は店を出ると広場の真ん中の噴水の端に腰を下ろした。あの日、初めて言葉を交わしてから、もうすっかり馴染んだ光景だ。

「アイザック……今日でこの街での公演も終わりよ。あたし、団長と話したの」
「そうか、団長は何と?」
「そうね、それなりに引き留められたけど、分かってくれたわ。親に捨てられた孤児のあたしを引き取って育ててくれた彼を悲しませるのは辛かったけど、自分の幸せを第一に考えろと言ってくれた」
「……」

 一瞬、二人の間に沈黙が流れ、噴水の水が流れるかすかな音だけが響いた。

「家族に君との結婚を認めてくれるよう話したんだ。義兄(にい)さんは受け入れてくれたんだが……」

 俯いて言葉を探すアイザックを労わるかのように、カタリーナの手がそっと背中に添えられた。そして、一瞬言葉を飲み込むと、彼女は努めて明るい声で答えた。

「いいのよ、アイザック。あたし、分かってたの。あなたのお嫁さんになろうだなんてあたしには過ぎた望みだってこと。この一か月、幸せだったわ、あたし。それだけで十分よ。どちらにしてももう女優は辞めたいと思っていたのだから、いい切っ掛けだったわ」

 だがアイザックは激しく首を横に振り、カタリーナの言葉を否定したのだった。

「いや、僕は君を諦めない。僕が欲しいのは君だけだ」
「でも……」
「聞いてくれカタリーナ。僕はここを出て行こうと思う」
「えっ……?」
「二人で帝都に行こう。僕の申し込みを受けてくれるね?」

 カタリーナの顔が一瞬ぱっと輝いたが、すぐにその頬の赤みは消え去り、蜂蜜色の瞳には悲しみの色が宿った。静かな落ち着いた声で彼女は答えた。

「……それはできないわ、アイザック」
「なぜ!? 君は僕を愛してくれているんじゃなかったのか!?」

 思ってもみなかったカタリーナの拒絶に、アイザックは気色ばんで詰め寄る。

「いいえ、愛しているからよ、アイザック。あたしのために家族や故郷(ふるさと)を捨てるなんて、そんなの、いけないわ。この前話してくれたでしょう? エドガー様……お義兄(にい)さんがとても良くしてくれたと、尊敬していると。だったらあなたはここにいて、男爵様の手助けをしなければ」

 そうカタリーナが答えると、アイザックはふっと微笑み、ゆっくりとカタリーナの手を取った。

「君のためにじゃないよ。ずっと思っていたんだ。僕はアッシェンバッハ家の人間じゃない。義父(ちち)義兄(あに)もよくしてくれるけれど、ずっと他人の家で暮らしている感覚が抜けなかった。……二年前、エドガーが結婚してから、ますます僕が感じている違和感が大きくなったんだ」

 アイザック・アッシェンバッハは微妙な自分の立場に困っていた。アッシェンバッハ家は男爵の爵位を持つ家柄だが、彼自身には貴族の血は流れていない。なぜなら、早くに妻を亡くした先代のアッシェンバッハ男爵のもとに、同じく早くに未亡人となったアイザックの母が子連れで後妻に入ったからだ。一応、養子縁組をしてアイザックはアッシェンバッハ家の一員となったものの、貴族の称号である『フォン』を名乗るわけにはいかず、男爵家の相続権も持っていなかった。
 
 アイザック自身は自分が平民であることをよくよく理解していたし、貴族の身分など欲しいとも思っていなかった。アッシェンバッハ男爵家にはアイザックより二つ年上の嫡子、エドガーがいて、二人は複雑な関係であるにも関わらずとても仲が良く、アイザックは自分の置かれた環境に特に不満は持っておらず、むしろ満足していたのだ。……そう、二年前までは。

 アッシェンバッハ家でアイザックが居心地の悪さを感じるようになったのは、エドガーの妻、ヒルデガルド夫人がこの地に嫁いで来てからだ。どうしてそんなことになったのか未だに摩訶不思議だが、ヒルデガルド夫人は皇帝陛下の姪にあたる。そのような雲の上のお方がこんな辺鄙(へんぴ)な場所に僅かばかりの領地を持つ男爵家に輿入れされるということで、当時、アッシェンバッハ領は蜂の巣をつついたような騒ぎとなったものだ。

 この結婚は、絶対にうまくいく筈がない……。

 誰もが内心そう思っていたが、当然、言葉にするのは憚られた。そしてその予想は当たった。嫁いですぐの頃こそヒルデガルド夫人は夫エドガーを熱烈に愛している様子がありありと見てとれたが、半年もすると明らかに夫に対して幻滅と軽蔑のまなざしを向けるようになったのだ。ほら見たことか……と領民は囁きあった。それでも夫のアッシェンバッハ男爵エドガーは妻に寄り添い、心のこもった言葉をかけ、辺境の貧乏男爵家の女主人としての家の切り盛りなど何一つできない彼女を補佐し続けていた。

 アイザック自身は敬愛する義兄(あに)エドガーの選んだ相手なのだからとヒルデガルドに不満はなかったし、むしろ家族の一員として円満な関係を築きたかったのだが、向こうはそうではなかったらしい。表立っては何も言わないが、ヒルデガルドがアイザックを見る目には平民の連れ子の分際で、という軽蔑の念がありありと現れていた。そして去年、男爵夫妻のもとに跡継ぎの男子、しかも双子の子供が生まれると、それはますます激しさを増した。

 アイザックは身の置きどころがなかった。さらに数日前、結婚したい相手がいると打ち明けた時、エドガーは喜んでくれたが、ヒルデガルドはその女性の生まれが孤児で旅回りの女優だと知ると激怒し、二人のことを激しく罵ったのだった。そもそも平民のアイザックがアッシェンバッハの姓を名乗ることさえ腹立たしいのに、その上女優のような卑しい女がこの家に入るなど言語道断、この恥晒し、皇帝陛下にどう申し開きするつもりだ、と。そこでアイザックは家を出ていくことを決めたのだった。カタリーナとのことだけが原因なのではなく、自分がここに留まり続けることで、義兄エドガーとヒルデガルドの夫婦関係にこれ以上ひびが入ることを避けたかったのだ。
 
 そのことを多少ぼかしながらカタリーナに打ち明けると、彼女は黙ったままアイザックの頬にそっと触れた。アイザックはそれを受諾と受け取った。

「だから、僕もここを出て、新しい生き方を手に入れる切っ掛けを探していたんだ。君と同じだよ。二人で新天地で一から始めよう、カタリーナ。僕の手を取ってくれないか」

 カタリーナは静かに微笑むと、差し出されたアイザックの手を握り返して答えた。 

「喜んで。あなたのいる所が、あたしの居場所よ、アイザック。愛しているわ」

 翌日、劇団はカタリーナを残して次の街へと旅立ち、アイザックはエドガーに家を出ていくことを告げた。エドガーはかすかにその表情に悲しさを滲ませながら、それでも普段通りの声で義弟(おとうと)の門出を祝福した。そして、妻の見ていないところでこう声をかけた。

「困ったことがあったら、遠慮せず連絡をくれ。無理はするな。ここはお前の家だ、いつでも戻ってこい。……すまないな、アイザック」

 アイザックはどこか晴れ晴れとした気分でアッシェンバッハ家を後にすると、足取りも軽く広場へ向かった。噴水の前でカタリーナが待っている。お互い荷物は旅行鞄一つだけだ。彼女がアイザックに気付いてこちらへ走って来ようとした時、風にあおられて被っていた麦わら帽子が脱げて、金色の長い髪がアイザックの瞳に映った。やっぱり天使だ。二人の間に生まれる子供は、あの金色の髪と蜂蜜色の瞳を受け継いでほしい。うん、そうだ、女の子がいいな。アイザックは未来に想いを馳せた。

 空はどこまでも青く、アッシェンバッハ領はいつも通り風が強い。アイザックはふと足を止めると、市場の店先に並ぶマルベリーのリキュールの小瓶を手に取って、店主に代金を払った。……今夜、宿屋で二人で飲もう。故郷を捨てるんじゃない、二人だけの故郷を手に入れるために、僕たちはここを出て行くんだ。アイザックの胸には希望と喜びが満ち溢れていた。


<外伝 夏の夜の夢 完>
<マルベリーの木の下で、あなたはわたしの全てを奪う 完>

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