隣の席のハルタ先輩は様子がおかしい
このときまだ、私にとってハルタ先輩は「春田さん」。仕事ができるのはもともと知っていて、隣の席にいてくれてちょっと心強い存在というだけ。
他のひとたちと同じように“完璧な人たらし”の姿しか見たことはなかったんだけどーー。
その小さなロースタリーにいた春田さんは、スーツのボトムにはちぐはぐなTシャツを着て、ごわごわした職人みたいなエプロンをつけて、コーヒーの香りをさせて、しゃがんで何かの作業をしていたからか、髪まで少しだけ乱れて。
顔以外、まるで別人みたいだったので、一瞬だけ反応が遅れてしまった。
「……げっ、って言いました?」
「隅田さん」
キッチンカウンターごしに身を乗り出したハルタ先輩が、私の肩を掴んだ。一瞬ぐっと掴まれた気がしたが、すぐにふわっとやわらかくなる。
「ごめん、痛かった?」
「あ、大丈夫です。ソフトボール部だったんで、肩強いです」
虚を突かれたようにぷっとハルタ先輩が笑いかけるが、すぐに真剣な顔に戻る。
「このこと、黙っててくれる?」
「え? ……春田さんが、勤務時間中にコーヒー屋さんでアルバイトしてたことですか?」
「いやいやいやそうだけど違う、アルバイトじゃないし、このあとすぐ会社戻るつもりだったし」
「そうなんですね…」
言いながら思わずハルタ先輩がつけているエプロンをじっと見てしまう。「Cafe&Roastary 柊」と、明らかにこの店の店名っぽい文字が刺繍されている。
気の利いたかわいい刺繍だなあ…と見ていたら、私が疑っているみたいに感じたのかもしれない。ハルタ先輩がああ~~…と自分のエプロンをめくった。
「わかった。ちょっとそこに座って待ってて」
「あ…はい」
ハルタ先輩が指し示したベンチに座ってみる。ハルタ先輩がキッチンカウンターの中で、何やら忙しく動き始めた。
少しして、ふわ…といい匂いが香る。
(これ…)
ふと気づいた。
(これ、春田さんがいつも、まとってるにおいだ)
作業を終えたハルタ先輩が、ふたつのカップを持ってベンチに寄ってくる。
「どうぞ」
渡されたのは、きれいな金の継ぎ模様に品がある、かわいいティーカップ。…になみなみとつがれている、真っ黒な液体。
「あ…りがとうございます」
受け取って持っていると、ハルタ先輩が隣に座った。黙っているので、こちらも緊張してきてぐっとカップを掴む。あなたが隣にいるから緊張してしまうのに、そんなことも知らずハルタ先輩があまつさえ、こちらの顔を覗き込んできた。
(ひえっ)
いやおうにも気づいてしまう。この人、本当に、顔面が輝くようにきれい。
「…飲んで?」
言われて気づき、急いでカップを口に運ぶ。
「…!」
一口をしっかり味わって、ぱっとハルタ先輩のほうを見ると、今度はハルタ先輩のほうが私の急な動きにびっくりしたように揺れる。
「おい……っしい、です!」
意気込みすぎて変なところにタメが入ってしまった。
恥ずかしくなりそうなところに、一瞬ハルタ先輩が、見たことのない照れたような表情を浮かべた。え、と思う間もなく顔がいつも通りのかたちに戻る。
そのうえでにやっと笑って言った。
「これで共犯だから」
「えっっ」
「飲んだよね。無銭飲食。この店先払いだから」
「えっ!? いや、払いますよ!!」
ポケットから財布を出そうとするとすっとハルタ先輩が手を添えて止めてくる。(触れるか触れないかの位置で、こういうところいちいちスマートだなあと思う)
「もう遅いんだなあ…」
「えっ…えっ…」
慌てていると、そんな私を不憫に思ったのか、ハルタ先輩が砕けたように笑った。
「ごめん。大丈夫だから飲んで」
「あ…」
「ここ、俺の友達の店。昼休憩の時よく来てるんだ。いま牛乳がないとか言って買い出しに行ってて、これ着させられて店番押しつけられたとこ」
ハルタ先輩が自分のコーヒーを飲みながら、片手で器用にエプロンを外してテーブルに置く。
「でも、ここけっこう会社からは遠くないですか?」
「だからいいんじゃん。誰にも会わないし」
「…」
「あれ、なんか隅田さんには気づかれてる気がしてたけど。俺がそんなに人好きじゃないって」
いや、全然気づいてませんでしたけど……。
たぶん会社のみんなと同じようにハルタ先輩のことは“人たらし”だと思っていた。目の奥にどこか冷静さがあるような気はしていて、春田さんのほうから誰かに特別に懐いたりはしていないとは気づいていたけど、それが冷たさや薄情さではないと思っていた。仕事のうえで、誰かが困っているのを放っておく人ではなかったから。
「人が好きじゃないにしては……優しいような気がしますけど」
ハルタ先輩の目がちょっとおかしそうに揺らいだ。
「そうかな?」
「あっ…ていうか…じゃあすみません、私来ちゃって…」
ここはきっと、いつも忙しく気働きをしているハルタ先輩の聖域みたいなことなんだ。今更はっと気づいて、急いで出るために、コーヒーをぐびっと飲みきろうとする。
「…あつっ」
ハルタ先輩が笑った。
そうこうしているうちに、ハルタ先輩のお友達が帰ってきた。アパレル会社とかに勤めていそうな、瘦せ型でこぎれいな人。だけどーー「おい、ナンパ禁止」ハルタ先輩とちょっと似た雰囲気で喋る。
「いや、同僚だから。ね」ハルタ先輩がひじで軽く小突いてくる。“完璧”で“人と適切な距離を保つ”ハルタ先輩――らしくない仕草かも、とちょっとだけ思った。
ハルタ先輩とお友達とが、ぽつぽつとおしゃべりしている店内で、たまに話を振られたり、私もなぜか居座ることを許される雰囲気。
そんな空気に甘えてコーヒーをゆっくりいただいたあと、「じゃあ…」と立ち上がる。
「俺ももうちょっとしてから会社戻るから」
「はい」
身支度をしていると、お友達さんが聞いてくれる。「同僚さんもコーヒー好きなんですか?」
「あ…はい。でも、詳しくはないっていうか、ブラックも飲んだことなくって。たまにラテ飲むくらいで…」
「え、言ってよ」
ハルタ先輩が声を上げる。
「ブラック飲ませちゃった」
「あっ、いえ、それが、すっごくおいしかったんで!! びっくりしたんです。苦いようで苦くなくて、果物みたいな…後味もふわっとしてて、すみませんいっぺんに飲んじゃいました」
言いながら財布を出そうとすると、またハルタ先輩に阻止される。今度は手が触れた。
見上げると笑っている。
「ありがとう」
なぜかお礼を言われて驚く。
「えっ? こ…こちらこそ…ありがとうございました」
いそいそとお店を出ると、うしろから声が追ってくる。
「隅田さんでよかった」
振り向くと、入り口からハルタ先輩がこっちを見ている。
「また来ていいよ」
いや、俺の店だよ、などとお友達が喋っているのが聞こえる。いいじゃん、などと答えながらハルタ先輩が中に入っていく。
私は前に向き直り、なぜだか心臓がどきどきしていたので、意味はないけど手でおさえていた。なんとなく小走りで、会社まで戻った。
その日から、“春田さん”は“ハルタ先輩”になり、完璧で人ぎらい?な仮面を、私にだけ脱いで見せるようになったのだった。