婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
3.おかえり、逃げ場はないね
駅を出た途端、空気が違った。湿り気を含んだ風と、どこか懐かしい匂い。私は肌寒さを感じてハァと息を吐いた。
「……やっぱり田舎ですね。空気も冷たい」
ポツリと呟いた私の横で綾斗さんが小さく笑う。
「悪くない」
だったらいいけど。
その一言に、少しだけ救われた気がした。
ついに帰省の日を迎えた。
私たちは新幹線と在来線を乗り継ぎ、実家のあるこの小さな温泉街まで来たのである。
人少ないな……。
観光客の足が遠のいているのがわかる。
古くからある街並み、代わり映えのないありきたりなお土産。特に惹きつけるものもないこの町はここ数年で一気に観光客が減っていた。
ここから車で一時間ほど離れた温泉街がアニメとコラボし、大人気となったのも影響しているだろう。
駅からバスで15分ほど行ったところに、お土産屋さんなどが立ち並ぶ小さな商店街がある。その先に旅館を営むうちの実家があった。
「思ったよりも大きいじゃないか」
見慣れた看板の先にある、二階建ての旅館を見上げて綾斗さんが感心したように言う。
「古いだけです」
紅葉の季節は綺麗で温泉も入れてロケーション的には最高なのに、なにせ若い人が少ない分、この土地のアピールが十分に出来ていない。その点が年配者だけでは不十分なのだ。
でも、余計なことを言うと「なら帰ってこい」「この土地の人と結婚しろ」ってうるさいから何も言えないけど。
……この土地にはお兄ちゃんがいる。私がいたって比べられるだけだ。
「なぁ、あれ茉白のお父さんか?」
綾斗さんが玄関の方を指さすと、父が玄関からそわそわと辺りを見渡していた。
「そうです。――お父さん、ただいま」
「茉白! おかえり! あ、この人が彼氏か!?」
父は馴れ馴れしく綾斗さんの肩を掴む。接客業をしているためか、父は他人との距離がやたらと近い。
「初めまして、藤宮綾斗です」
綾斗さんが丁寧に頭を下げた瞬間、父の顔がパッと明るくなった。
「おお、礼儀正しいな! 男前だし、都会の男は違うな!」
「ちょっと、お父さん……」
ガハガハ笑って綾斗さんの肩を叩く父を制止しようとすると、母が声を聞きつけて中から出てきた。
旅館の女将らしく着物を着てしおらしく出てくるが、その目はしっかりと綾斗さんを見つめている。母と言うのはどこまでも抜け目がない。
「いらっしゃい。遠いところ、ありがとうねぇ」
「ほら、長旅で疲れただろ。どうぞ入って! 真白、お前もさっさと来い」
「ありがとうございます、失礼します」
そのやり取りを見ながら、私は早くも胃が痛くなるのを感じた。
始まったよ……。
こっそりと大きなため息を吐いた。