婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
ランチの後、午後の仕事が驚くほど頭にはいらなかった。

穂乃果があんな事言うから……。

『もう、巻き戻せる嘘じゃなくなってる』

元には戻せないってことよね。
そんなこと、十分わかっている。でも、穂乃果が言うほどそんなに大げさなものでは……。

そう思おうとしても、デートの時の綾斗さんを何度も思い出してしまう。
頭に浮かんでは消し、浮かんでは消しを繰り返しているうちに、あっという間に就業時間になった。

ああ、ダメだ……。今日は何しても身が入らない。こういう時は、さっさと帰って頭の中をリセットしよう。

「お疲れ様でした。お先に失礼します」

帰り支度をして挨拶をし、エレベーターを降りる。エントランスへ降り立った時だった。
入口からこちらへ向かって歩いて来る背の高い人物に足が止まった。

綾斗さん……。

手元の資料を難しい顔をしながら見ている綾斗さんは私に気が付いていない。目が合ったのは、綾斗さんではなく隣にいる女性だった。

「桃瀬さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」

落ち着いた笑顔でそう挨拶してきたのは、綾斗さんの秘書の真田レイラさんだ。
年齢は綾斗さんと同じくらいだったはずだが、年上にも年下にも見える不思議な雰囲気の綺麗な人である。

確かハーフなんだっけ。だからなのか、明るめの茶髪が色白の肌を余計に透明感のあるものにしている気がする。

綾斗さんの秘書をするくらいなのだから優秀なんだろうな……。

一瞬、胸の奥がざわついた。

真田さんの挨拶に綾斗さんが顔を上げる。難しい顔がほんの一瞬、穏やかに変わった。

「お疲れ。今から帰りか?」
「はい。藤宮専務、お先に失礼致します」

会社なので上司として対応すると、綾斗さんは小さく苦笑した。

「気を付けて帰れよ」
「ありがとうございます」

綾斗さんが歩き出したのを見届けて、私も出口の方へと背を向けた。3歩くらい歩いてからそっと振り返る。
エレベーター前で綾斗さんと真田さんが顔を寄せて資料を覗き込み、何やら話し込んでいる。

真田さん……。いつも、綾斗さんのそばに居る仕事のできる綺麗な人……。

真田さんと話したのは今回が初めてではない。仕事で何とか言葉を交わしている。
二人が並んでいる姿も、今に始まったことではない。何度も見ている光景。

それなのに……、どうしてこんなに気になるんだろう。

胸のざわめきを持て余したまま、私は出口へと向かった。答えは出ないまま、夜風だけが冷たかった。



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