婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~

4.知らなかった距離

月曜日の朝。
藤宮グループの本社のエントランスはいつも通りの忙しさだった。

「おはようございます」
「おはよう」

挨拶が飛び交い、私も普段通りエントランスを抜けてエレベーターへと向かう。

今日からまたいつも通りの毎日が始まる。夢みたいな2日間はあっという間だった。頭に浮かぶのは優しく微笑む綾斗さんの姿。素直に楽しかったなと思える帰省だった。

……だったんだから、もういいのよ私!

切り替えていかないといけないのに頭の中で綾斗さんがちらつく。こんなんじゃいけない。仕事に身が入らなくなる。

ふぅとため息をつくと、後ろからざわめきが聞こえた。
振り返ると、綾斗さんが真田さんと部下を引き連れてエントランスに入ってくるところだった。顔を上げた綾斗さんとバッチリ目が合う。

綾斗さん……。

咄嗟に目を逸らして下を向く。他の社員同様、道を譲り「おはようございます」と頭を下げて挨拶をした。

「おはよう」

すれ違う時、一瞬だけ目が合う。でも、それだけだった。上司と部下としての完璧な距離感。笑顔などない、いつも通りのクールな表情。
綾斗さんではない、藤宮専務がそこにいた。

「だよね……」

小さく呟く。

別に期待していたわけではないが、もう二度と、あんな柔らかい笑顔を向けられることはないんだ。そう思うと少し切なかった。でもそれが当たり前なのだけどね。

綾斗さんが目の前を通り過ぎた後、真田さんと目が合った。軽く会釈されたが、声をかけられることはない。
リスケの連絡をもらっているんだから、きっと綾斗さんから諸々の事情は説明されているのかもしれない。

きっと、一日限りの偽装婚約のことも……。

だとしたら、私のこと怒っているだろうな。そんなくだらないことで藤宮専務を利用して……って。

エレベーターに乗り込む一行を見送ろうと顔を上げた時、再び綾斗さんと目が合った。
真っすぐに私を見ている。表情は変えず、でも視線は外さない。それは扉が閉まるまで変わらなかった。

今、私を見ていたよね……? どうして……。

胸がキュッと痛んだ。

「おはよう、桃瀬さん。来月の広報誌の事なんだけど――」

後ろから同僚に声をかけられハッと現実に戻る。

ダメダメ、切り替えていかなきゃ。

私は同僚に笑顔で振り返った。



――切り替えたいって思っているのに、どうしてこういう時に限って仕事で一緒になってしまうんだろう。

私は会議室で資料を見ながら、上席にいる綾斗さんを横目で見た。

「来月のブライダル雑誌に専務のコメントを――」「予算の見積もりについて――」

真剣に資料をめくる綾斗さん。
昨日までの柔らかい表情はない。今まで、この表情しか知らなかったのに、あの顔がもう見れないのだと思うとなんだか見たくなってしまう。

……私、幻でも見ていたのかな。

仕事であんな顔、見たことなかった。だから、まだそのギャップに頭が追い付かないでいる。

未だに繋いだ手の温もりも忘れられていないし……。

「では、この担当の桃瀬から詳しく説明をさせていただきます。桃瀬……、桃瀬?」
「あっ、はい!」

しまった!

ハッと顔を上げると、じっと私を見つめる綾斗さんと目が合う。慌てて資料を探すが見当たらず、余計に焦ってしまう。

「どうした、用意していないなら次に行くぞ」

綾斗さんの冷たい声。

「あ、いえ! あります、こちらの資料をご覧ください」

焦りながらしどろもどろで説明をしていくが、綾斗さんは厳しい顔のままだ。

「――読めばわかる説明だな。もういい、わかった」
「……っ、申し訳ありません」

突き放すような言い方に、ズキッと胸が痛くなるがその通りなので言い返せない。

もっと上手く説明するはずだったのに、動揺して資料を読むしかできなかった……。情けない……。

でも、仕事中の綾斗さんってこんな感じだった。
クールでいつも真剣に仕事に向き合う。真面目さゆえに冷たく感じる。いつもの綾斗さん。

切り替えができていないのは私だけだ。オンオフができていないなんて社会人失格。

久しぶりに落ち込んで、そのまま会議は終わった。
会議後、すぐにデスクに戻っても仕事ができる気がしなかったので一人残って後片付けをすることにした。片づけをしながら肩を落とす。

「綾斗さん、呆れただろうな……」

専務との大事な会議なのに、ボーっとしているなんて論外でしょう。しかも、説明もうまくできていない。

このままじゃダメだ! 

私は軽く頬を叩いた。

「しっかりしろ、茉白! 仕事中! よしっ!」

気合を入れて背筋を伸ばした時だった。

「凄い音がしたけど?」

低く響きの良い声がしてハッと振り返る。
会議室の入口に、もたれ掛かる様にして腕を組んだ綾斗さんが立っていた。

「あ、あや……、藤宮専務。お疲れ様です」

しまった! 見られた?

気まずさから目を逸らす。誤魔化すように声をかけた。

「えっと……、どうかされましたか?」
「ああ、忘れ物をしてな」
「忘れ物?」

資料やプロジェクター以外に何かそれらしきものあったっけ?

「では、見つけたら真田さんに届けに……」

顔を上げると、綾斗さんがすぐ隣まで来ていた。驚いてハッと一歩下がる。しかし、綾斗さんはなぜか下がった分近づいてきた。

「あ、あの……? 藤宮専務?」
「今日は集中していないな? 桃瀬」
「すみません……」

もしかして、あまりの不出来に叱りに来たとかかな?

低い声で指摘され、私はつい俯く。

「いつもの桃瀬なら資料の丸読みなんてしない。仕事で何かあったか?」
「い、いえ。なにも……」

やっぱり怒っているのか。
昨日のことが頭から離れなくて心ここにあらずでしたなんて言ったら、見限られるかもしれない。

「そうか……。なら……、親御さんに何か言われたか? 茉白」
「え?」

急に声のトーンが柔らかくなり、苗字ではなく名前を呼ばれた。ドキッとして顔を上げると、先ほどよりも穏やかな表情の綾斗さんがいた。

「昨日、帰った後、何かあったのかと思って」
「い、いえ……、何もありません」
「本当か?」

じりじりと近づいてくる綾斗さんに私は後ずさる。

名前を呼ばれただけで胸が苦しくなるのに、そんなに距離を詰めてこないでほしい。しかし、綾斗さんは私を逃そうとせず、ついに後ろは壁になってしまった。

「藤宮専務……」
「今は仕事の話はしていない。名前で呼べ」
「っ……、綾斗さん」

綾斗さんは満足したように口角を上げてニッと笑う。




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