婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~

どうして? もう上司と部下に戻ったんでしょう? なんで名前で呼ぶの? なんで距離を詰めるの?

混乱していると、綾斗さんはふっと笑った。

「茉白の両親がくれたお菓子、美味かった」

予想外に急にお土産の話をされ、私はパッと顔を上げた。

「食べてくれたんですか?」
「ああ、当然」

良かった、嬉しい。
よくあるお饅頭だから、口に合わなかったらどうしようかと思っていた。嬉しくて少しテンションがあがる。

「昔からある定番のお土産商品なんですけど、私は昔からあれが好きなんです! 真ん中からあんこがトロッとしていて甘すぎず、でもホッとするような味で……」
「ん?」
「あ、いえ……」

穏やかに微笑みながら私の話を聞いている姿は、昨日見た綾斗さんだ。さっきまでの厳しい藤宮専務ではない。

……ギャップ、きつい。しかも、さっきから距離が近い。なんで……?

なんだか綾斗さんの雰囲気が甘くて、どうしたらいいのかわからずに混乱してくる。

「あの、綾斗さん? 忘れ物したんじゃ……?」
「いや、してない」
「え? でもさっき……」
「口実。茉白の様子を見に来ただけだ」

そう言って指先で私の前髪をそっと横に流す。

もしかして、さっきの事気にしてくれたの?

「大丈夫そうだな」
「はい……」

大丈夫なんかじゃない。
もう婚約者のフリは終わったのに、どうして名前で呼ぶの? どうしてこんなに距離が近いの? 上司と部下に戻ったんだよね? 

どうしてこんなに……、心臓がうるさいんだろう。

綾斗さんがさらに一歩近づく。もう後ろは壁で下がれない。綾斗さんの腕が壁について私を腕の中に囲んだ。

「あの……」
「ん?」

どうしよう……。綾斗さんの顔が近い。目が逸らせない。このまま見つめ合っていたら、顔が近づいてしまう。

「っ……、綾斗さ……」
「専務、失礼致します」

その時。カチャと扉が開く音がして、真田さんが入ってきた。

あっ……!

咄嗟に私は綾斗さんの胸を押して距離を取る。

「……お取込み中なら後にしますが」

真田さんは顔色を変えず、ひと呼吸開けてからそう言った。

「い、いえ……!」

動揺しているのは私だけ。綾斗さんは平然とした顔で真田さんを振り返る。

「どうした」
「先日契約をしたB社から急ぎのお電話が入っております」
「すぐ行く」

真田さんは私をじっと見てから、一礼して部屋を出て行った。
そして綾斗さんは振り返り、少し申し訳なさそうにする。

「そうだ。婚約者のフリのことなんだが」
「はい」
「簡単にだが真田には説明さえてもらった。口止めはしたが、相談なく勝手に悪かった」

真田さんに……? 急な泊りになったのだし、調整するうえで話したのだろうか。
珍しく決まりが悪そうな様子に、私は慌てて首を横に振った。

「大丈夫です。真田さんなら誰かに言ったりなんてしないでしょうし」

まぁ、二人だけの秘密ではなくなったのは残念だけど。一日限りだしもう終わったことだから別にもういい。

「ありがとう」

ホッとしたように微笑んだ綾斗さんは大きな手でポンっと私の頭を優しく撫でた。

「じゃあな」

軽く手を上げて部屋を出て行く綾斗さんの背中を見送った後、一人残された私は、壁に寄りかかったままその場に座り込んだ。

うわぁ~……! どうしよう、ドキドキしすぎて苦しい……。今のは一体何だったの。

綾斗さんが私の様子を気にしてくれたのは嬉しかった。名前を呼んでくれたのも本当は凄く嬉しい。
もし、あの時真田さんが来なかったら……? どうなっていたのだろう。
それにあの大きな手……。触れられるだけで胸が激しくなってうるさい。

「綾斗さん……」

どうしたらいい? あんな距離……、私は知らない。胸が痛いくらい知らない。



その日の昼休み。

『金曜の夜、空いてる? ご飯行こうよ。帰省の話聞かせて』

コンビニへ行こうとした私のスマホにそう穂乃果からメールが届く。画面を通して穂乃果のソワソワが感じられるようだ。

何て言えばいいのかな。何もなかったのに、『何もない』では済まないこの気持ちは……。

小さくため息をついて、穂乃果に『了解』と返事をして私はちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。

「あ……」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です……」

そこには真田さんが一人で乗っていた。

……どうしよう、なんだか気まずい。

しかもこういう時に限って、エレベーターは二人きりである。
真田さんもお昼休憩なのかな。何か話した方が良いのだろうか。そう思っていると、真田さんの方が先に口を開いた。

「藤宮専務からご実家の事、少し聞きました」
「あ……」
「だいたいの事情は分かりましたが、専務は多忙な方なので、ご予定を立てる際は私にも共有して頂けると助かります」

リスケのことを言っているのだろう。そう言えば話したって言っていたね。
偽の婚約者だなんて、そう簡単に人に言えるものではない。それほど、綾斗さんにとって真田さんは信頼できる人なんだ。

ああ、なんだろう……、この気持ち。

モヤモヤした気持ちが胸を渦巻く。
真田さんは前を向きながら淡々とした口調で話すので、怒っているかどうかわからない。私は真田さんの方を向いて頭を下げた。

「すみませんでした」
「謝っていただかなくて結構です。あなたの責任ではありませんから」
「はい……」

そうなんだけど、私の事情で迷惑かけてしまったのだから謝るのは当然だ。
すると、真田さんはチラッと私を見て言った。

「専務は仕事では厳しい方ですが、私生活では案外無理をなさるので……、支える方も大変。ですよね?」
「え……」
「では」

ちょうどエレベーターが一階に着き、真田さんは丁寧に一礼をして先に降りて行った。

今のはどういう意味だろう。労わる様にも聞こえるし、牽制された様にも感じる。どちらにしても、真田さんが綾斗さんのことをよく見ている人だということはよくわかった。

胸が小さくざわめく。私はなぜか息を詰めていたことに気が付いた。

エレベーターが閉まると、そこにはまた私一人残される。さっきよりも狭く感じるのは気のせいだろうか。
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