部長と私の秘め事
「そうだったらいいな」

 彼がそんな表情をする理由は理解している。

 母子家庭で生まれ、母と妹が亡くなったあと、尊さんは実父や継母、すべての環境を恨んで成長した。

『大人になって力をつけるまでは我慢しろ』と自分に言い聞かせても、胸の奥では激しい憎悪を渦巻かせていたはずだ。

 理性的な彼はそんな自分を恥じ、ちゃんとした親になれるか不安を抱いている。

 ――でも、大丈夫。

「……私たち、二人揃ったら怖い物なんてありませんから」

 涙を拭ってニコッと笑うと、尊さんは「だな」と優しく笑ってキスをしてくれた。





「朱里」

「はい?」

 寝る前に髪をまとめてシルクのナイトキャップに押し込んでいると、尊さんがコスメブランドの紙袋を差しだしてきた。

「エッ」

 驚きながら受け取ると、尊さんは苦笑いしながら言う。

「少しずついいと思った物をプレゼントしてく」

 言われて、神くんからの贈り物を思いだした。

「まだ張り合ってたんですか?」

「俺の中では終わらない戦いなんだよ」

「んふふ。……ありがとうございます」

 中に入っていたのはリップで、普段使いしやすい肌馴染みのいい色だ。

「それ、ツヤ系の割に色持ちが良くて、保湿もしてくれるらしい」

「おや、どこ情報ですか?」

 情報の出所を気にすると、尊さんはサムズアップして言った。

「速水家の女性陣」

「あらー……、あの方々、コスメの話もできる感じですか……」

 私の目がキランと輝く。

「まぁ、ステージに上がるのにメイクは必須だし、長時間弾いても、汗を掻いても落ちないのとか、色々探したみたいだ」

「あぁ……、なるほど」

「それで、良さそうなのを教えてもらった。発色のいいのとか、用途別にオススメはあるみたいだけど、俺としては朱里の唇のケアを一番にしたい。……という男のエゴだ」

「んふふ! そのエゴ、受け入れます!」

 私はリップの色を確認し、つけてみた感じを想像してワクワクする。

「明日、さっそくつけてみますね。月曜日からオフィスにつけていきます」

「おう」

 尊さんは微笑んでから、ナイトキャップを被った私の頭をポフポフ叩く。

「これはなんの帽子だ? 寝癖防止?」

「半分合ってます。髪が擦れるとダメージを負ってしまうんです。シルク百パーセントだと保湿もしてくれるので、ツルツルになります。これはロングヘア用なんですが……。エイリアンみたいでしょう」

 真顔で言った瞬間、尊さんが「ぶふっ」と横を向いて噴き出した。

 言った通り、ロングヘア用のナイトキャップは後ろに袋が垂れ下がっているので、まさにエイリアンの長い頭に似ている。

「ちょ……っ、待ってくれ……っ、ツボった……っ」

 尊さんはプルプル震えて笑い、私を見てはまた顔を伏せて笑う。

 その姿を見て、私は後頭部の袋を摘まんで見せびらかし、ドヤ顔をする。

 すると尊さんはまた笑い始めた。

 彼はしばらく笑ったあと、「はぁ……」と溜め息をついてベッドに倒れ込む。

「こんなに目がぱっちりで可愛いエイリアンがいたら、ちょっと……、考えちゃうよな」

「やだ、異種間恋愛アリの人だ」

「俺は生粋のアカリストだよ」

 クスクス笑って言った尊さんは、グイッと私の後頭部に手を回し、キスをしてきた。

「ん……」

 チュッと小さな音が立って唇が離れたあと、私はお風呂上がりで前髪の下りた尊さんを見て頬を染める。

「寝るか」

「……はい」

 私は尊さんの温もりを感じながら、幸せと安心感に満ちて目を閉じた。

 今ではこの立派過ぎるマンションを〝我が家〟と認識している自分がいる。

 記憶にある私の最初の〝家〟は、賃貸マンションだった。

 居間とキッチンがあり、バスと洗面所があるほか、二つの部屋があって、一つは両親の寝室、一つは私の部屋にしてもらえた。

 その物件に暮らしていた時に父は亡くなってしまい、私は母と別のアパートに移って数年暮らした。

 それから母が再婚したあとは吉祥寺に移り、一人暮らしを始めて転々とし、最後は西日暮里に住んだあと、尊さんが暮らすマンションにお世話になる流れだ。

 私の記憶はあやふやで、ジグソーパズルのピースが少し欠けてしまっているような感じで、大切な事を忘れてしまっている事に罪悪感を抱いている。

(……お父さん、こんな私でも幸せになっていいかな? 大好きなお父さんの事を忘れたまま、お嫁に行こうとしてるけど、許してくれる?)

 心の中で父に話しかけてくると、涙が次々に溢れてくる。

 私がズッと洟を啜ったのに気づいたからか、尊さんは私の体に腕を回し、脚も絡めてくる。

(この人、とっても優しいの。頼りになるし、理想の上司。お父さんが死んで絶望していた時、私の命を救ってくれた人だよ)

 そう思うと、すでに父から尊さんにバトンタッチがされていたように思えた。

 まるで、花嫁のエスコート役を、ヴァージンロードの途中で新婦の父から新郎に変わるように。

 あの時、尊さんが愛知県にいたのは、速水家の本家を見てやろうという気持ちからだった。

 でも私の都合のいい脳は、父が彼をあそこに向かわせてくれたのでは……、と考えてしまう。

 運命は巡りに巡って、彼の大切な家族を殺し、私の父を殺し、私たちを引き合わせた。

 犠牲ありきの関係と思いたくないけれど、尊さんはお母さんと妹さんを喪わなければ愛知県へ行かなかっただろうし、私も父を喪わなければ旅行で向かう事はなかった。

 私たちはこの人生を歩まなければ、出会う事はなかっただろう。

「……尊さん……」

「ん?」

 小さな声で呼びかけると、暗闇の中で彼が返事をする。

 体を伝って聞こえてくる低い声に安堵した私は、微笑んで言った。

「幸せになりましょうね」

 私は言葉の初めに、「みんなの分も」という意味を込める。

「ああ」

 暖かな声を聞き、私は静かに息を吐き、ゆっくりと体をリラックスさせると眠りの淵に意識を解き放つ。

 ――ここは、安心していい場所だ。

 もう暗闇を怖れて一人で震えなくていい。

 母を気遣って、一人でも大丈夫なふりをしなくていい。

(これからは、尊さんを頼って夫婦として生きていくよ)

 私はもう一度心の中で父に語りかけ、心地いい闇に意識を委ねた。



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