部長と私の秘め事
「ゆ……、浴衣なんて子供の頃以来、着てませんよ」

「今の浴衣って、上下セパレートなんでしたっけ?」

 尊さんに尋ねると、ニッコリ笑って言われた。

「この日のために京友禅の浴衣を用意したから、中村さんと一緒に着たらどうだ? 俺らも浴衣を着るし」

「んっ……」

 尊さんの浴衣姿を想像した私は、鼻血が流れた気がして、手で口元を覆う。けれど心配ない。エア鼻血だ。

「恵ちゃん、俺の顔がいいのは買ってるんでしょ? 浴衣姿見たくない?」

 恵も猫じゃらしでホイホイされている。

「……み、見たい……、です、……けど……」

「よし、じゃあ、みんなで着ようね」

 パァッと笑顔になった涼さんを前に、私も恵も何も言えずにいる。

 その時、温製のアントレが運ばれてきた。

 お皿の中央には軍鶏(シャモ)のバロティーヌ――お肉を丸く巻いて、ファルスと呼ばれる詰め物をした料理があり、横には半透明になるまで柔らかく加熱された冬瓜とフォアグラが添えられている。

 とても綺麗で美味しそうなんだけれど、浴衣の話もあるので、意識をどっちに持っていけばいいか分からない。

「……でも、浴衣での移動って大変じゃないですか? そう長く歩く事はないと思いますけど、下駄? 草履? の鼻緒で足を痛めたら、迷惑かけそうで……」

 昔、昭人と付き合っていた時にファストファッションの浴衣を買って、母に着付けてもらってデートした事があるけれど、いま言ったように上手く歩けなくて彼を苛立たせてしまった。

 着慣れない物や、おろしたての靴でデートするもんじゃないと、今までの少ない経験から理解してはいる。

「それは……、なぁ? ホテルに着付けてくれる人を呼ぶから、準備が終わったら車で移動すればいいんじゃないか?」

 尊さんに意見を求められ、涼さんは「そうだな」と頷いている。

 うん……、ごく当たり前のように言ってるけど、彼らの〝普通〟と私たちの〝普通〟が大きく違っているのはよく分かった。

 料理を食べ終えたあと、ソースを一滴でも無駄にしてなるものかと思った私は、パンでソースを拭って食べ、「うん」と頷いて恵に言った。

「諦めよう。されるがままになったほうが、考えなくて済む」

「まぁ……、そうだけど……」

 疲れたように頷いた恵は、「肉美味しかった」と呟いて口直しのお水を飲む。

「俺たちでおもてなししようと思ってのデートプランだけど、疲れさせちゃったらごめんね?」

 涼さんは私たちの様子を見て、少ししょんぼりして言う。

 だから私はブンブンと首を横に振った。

「いえ! こうなったら受け入れます。予約やらしているだろうに、すでに用意しているものを無駄になんてできませんし、どうせなら沢山楽しみます。ね? 恵」

 私に言われ、恵も納得したように何度か頷いた。

「そう……、だね。せっかく張り切って用意してくれたのに、楽しまないのは一番失礼な態度だよね」

 恵が言った時、魚料理が運ばれてきた。

 ふっくら柔らかにソテーした高級魚のハタに、ヴェルジュという熟す前の葡萄を使った、酸味のあるジュースで作った、赤いソースで仕上げた一皿だ。

 それに合わせた白ワインも出され、そろそろ酔ってきた私は体を火照らせていい気分になる。

「朱里、明日もあるから、あんまり飲み過ぎるなよ。出されたもんを全部飲まなくていいから」

 尊さんに声を掛けられ、私は「はい」と頷く。

「あー、朱里、目がトロンとしてるわ。ジュース飲みな、ジュース」

 今まで何かと状況に圧倒されていた恵だけれど、私に世話焼きが必要となると、今までのうろたえはどこかに、心配してくれる。

 尊さんがギャルソンさんに「ドリンクメニューをお願いします」と言うと、彼は一礼して退室していった。

 私は赤ぶどうジュースを注文し、恵も「美味しそう」と言って同じものを頼んだ。

 メインは牛フィレ肉だ。

 綺麗な薔薇色のお肉に黄色いベアルネーズソースがかかり、辛味大根のコンディマンが添えられている。

 ベアルネーズソースは、ホワイトアスパラガスの料理に掛かるオランデーズソースと酷似した物で、卵黄とバター、ハーブを使った黄色っぽいソースだ。

 オランデーズソースはレモン汁を使って乳化させるけれど、ベアルネーズソースはそれを用いない。

 コンディマンとは手作りの調味料を意味し、今まで出された料理にかかっていたソースもすべてコンディマンと言える。

 今出された肉料理では、辛味大根を細かく角切りにし、他の調味料も合わせて作った、具だくさんソースだ。
< 581 / 693 >

この作品をシェア

pagetop