部長と私の秘め事
「そういえば、テレビがないんですね」

「だな。宿泊する時ぐらいは、世間の事を忘れてほしいっていう意味だと思う」

 棚には円筒型のブルートゥーススピーカーがあり、尊さんは早速スマホからお気に入りのジャズを流している。

(あ、この曲を聴いてると〝いつもの〟感じがする)

 慣れない高級ホテルに来て興奮していたけれど、徐々にゆったりとした気持ちになってくる。

「少し休んだら、敷地内の冒険してくるか」

「はい! そういえば、お風呂の建物があるんですよね? せっかくだから行ってみたいな」

「だな。コテージにも風呂はあるけど、色々見てみるのはアリだ」

 尊さんはそう言ったあと、私の口元を親指で擦る。

「ん?」

「粉、ついてた」

 そう言って尊さんは微笑み、親指をチュッとしゃぶる。

「ミコォ~……」

 照れた私は、額をグリグリと尊さんの肩に押しつける。

「ははっ、なんだよ。わんぱくな食い方するからだろ」

 尊さんは私を抱き締め、額にキスをしてきた。

「んー……」

 私も彼を抱き返し、尊さんの匂いを思いきり吸い込む。

「……色々怒濤の展開で進んでいますけど、気がついたらもう夏ですね」

「もう少ししたらみんなで温泉だから、もう一仕事あるぞ」

「楽しみじゃないですか。百合さんと水入らずで……」

「まぁ、な……」

 顔を上げると、尊さんは溜め息をついて窓の外を眺めている。

「まだ距離感とか分かっていませんか?」

「……だな。……憎まれてなかったと分かって安心したが、感動の再会の初回はともかく、二回目以降はどういう顔で……、という不安はある」

「ありのままのミコでいいんですよ。小牧さんたちもいますし、私もいます。きっと女性陣が会話を回してくれると思いますし、それに乗ってればいいんですよ。もし百合さんが深い話をしたいと思うなら、尊さんを呼ぶでしょうし、そうじゃなかったらみんなと一緒に楽しむでいいと思います」

「そっか」

「そうですよ。……でも、ちょっとぐらいは孝行したほうが、喜ぶと思います」

「だな。何か考えとく」

 そのあと、少しゆっくりしてから、私たちは敷地内を散策する事にした。





 お風呂の施設に向かうつもりなので、私たちはバスセットを手に部屋を出て、ゆっくりと小径を歩いて行く。

 中心にある池は、ただ水が溜まっているだけでなく、ちゃんと流れがある。

 そこに鴨などの水鳥がいて、まるで公園にいる気持ちになる。

 私たちは池を背景に記念写真を撮り、中央にある島でも写真を撮った。

 小径まで戻ってさらに歩いて行くと、なんと小規模ながら棚田まであり、本当に谷間(たにあい)の里を表しているんだなと分かった。

 棚田はラウンジになっていて、宿泊者が椅子に腰かけて景色を楽しんでいる。

 大浴場は二箇所あって、一つは一般客も日帰りで利用できる〝アキアカネ〟、もう一つは宿泊者専用の〝リラクゼーションバス〟だ。

 私たちは後者に向かい、あとで合流する事にしてお風呂に向かった。





 どうやらお風呂は光のお風呂と、闇のお風呂があるらしく、真っ暗闇の中でリラックスしながら五感を開放していくのが目的らしい。

 入り口にはお風呂の入り方の手順が書かれてあって、とりあえず熟読する。

 まず体を洗ってサウナに入り、水風呂に入ってから水路を進み、光のお風呂から闇のお風呂に向かうんだそうだ。

 私は脱衣所で服を脱ぎ、髪をクリップで留めると諸々のお風呂セットを持って洗い場へ向かう。タオルはふんだんに用意されてあるので、ありがたい。

 お風呂は全体的に暗く、まだ外は明るいのに照明で照らされた中で、半個室みたいな場所でメイクを落とし、体も髪も綺麗に洗った。

 洗い場は円筒状にくりぬかれた場所で、椅子も円筒状の黒い大理石みたいな感じだ。

 その向かいには足元にお湯の溜まった打たせ湯があり、その水路の階段を下りて光のお風呂へ向かうみたいだ。

 サウナはあまり得意じゃないけれど、せっかくなので円形のサウナで少し蒸されて、水風呂につま先だけ入れ、根を上げた。

 私は整う事ができない女だ。一生とっちらかったままでいい。
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