妹の悪意を極上の宝石に変える無感情令嬢ですが、追放先の辺境で溺愛騎士様に「笑って」と懇願されています
第9章 蜂蜜色の毒
その日の午後、ブランネージュ領の静寂は、一台の馬車によって破られた。
雪の白さとは対照的な、けばけばしいほどに鮮やかな深紅の馬車。
側面には、ヴァーミリオン家の紋章である「茨と薔薇」が金箔で描かれている。
屋敷の玄関ホールで、ルミエールは震えを抑えながらその到着を待っていた。
隣にはテオが立ち、ルミの肩を抱いている。足元にはパフが、低く唸り声を上げていた。
「……大丈夫だ。俺がついている」
テオの声は力強い。
だが、ルミの感覚器は、馬車が近づくにつれて増大する「悪意の波動」に悲鳴を上げていた。
『警告。高濃度の悪意接近。……カテゴリー:執着、支配欲、汚濁』
空気が重くなる。
鼻の奥に、腐った花のような、甘ったるい香水の匂いが漂ってくる気がした。
馬車が止まる。
従僕が扉を開ける。
降り立ったのは、分厚い毛皮のコートを纏った、蜂蜜色の髪の少女だった。
ミエル・ヴァーミリオン。
彼女は、出迎えの列の中にルミを見つけると、花が咲くような笑顔を浮かべた。
「お姉様!」
その声は、雪原に響く鈴の音のように愛らしかった。
だが、ルミには聞こえていた。
その声の裏に張り付いた、氷よりも冷たい本音が。
——見つけた。
——私の逃げた人形。
——勝手に幸せになろうなんて、許さない。
ミエルは、雪も構わず駆け寄ってくると、ルミに抱きついた。
「ああ、お姉様! ご無事でよかった! あんな森の中で行方不明になったと聞いて、私、心配で心配で……!」
ミエルの腕が、ルミの背中に回る。
きつく。痛いほどに。
それは抱擁ではない。捕食者が獲物を締め上げる、拘束だ。
ルミの鼻腔を、強烈な香水の匂いと、むせ返るような悪意が満たす。
『悪意濃度:98%。……異常数値』
父の悪意が「冷たい氷」なら、ミエルの悪意は「煮えたぎる泥」だ。
粘着質で、熱く、どこまでも絡みついてくる。
ルミのスキルが、悲鳴を上げて作動する。
ミエルの身体から溢れ出る黒い泥のようなオーラが、ルミの中に流れ込んでくる。
甘い。
頭が痺れるほど甘く、そして吐き気がするほど濃厚な毒の味。
かつては、これが主食だった。
これを食べて、生きてきた。
だが、テオの不器用な料理や、パフの温かい魔力を知ってしまった今のルミにとって、この味は「異物」でしかなかった。
「……うっ」
ルミは、口元を押さえた。
気持ち悪い。
食べたくない。
拒絶反応で、身体が震える。
ミエルは、ルミの耳元で、誰にも聞こえないように囁いた。
「……顔色が悪いわよ、ロータス。やっぱり、あなたは私がいなきゃ駄目ね。早く帰って、私の『毒』を食べてちょうだい」
ゾクリと、背筋が凍る。
彼女は知っているのだ。
ルミが、自分の悪意を食べて生きていることを。
知った上で、それを「餌」として、飼い慣らそうとしているのだ。
——逃げられない。
——この蜘蛛の巣からは、一生。
ルミの瞳から、光が消えかける。
古い服従の回路が、再接続されそうになる。
その時。
ガシッ。
太い腕が、ミエルの肩を掴み、強引に引き剥がした。
「……そこまでだ」
テオだった。
彼は、ルミを自分の背中に隠し、ミエルを見下ろした。
その琥珀色の瞳は、戦場で敵将を射抜く時のように、鋭く光っていた。
「あら、乱暴な方」
ミエルは、悪びれもせず、優雅に服を整えた。
「貴方が辺境伯様ですね? 姉を保護していただき、感謝しますわ。でも、姉妹の感動の再会を邪魔するのは、無粋ではありませんこと?」
「感動の再会には見えなかったな」
テオは、冷たく言い放った。
「彼女が怯えているのが分からないのか」
「怯える? まさか。お姉様は、感動で震えていただけですわ。ねえ、お姉様?」
ミエルが、テオの背後にいるルミに視線を送る。
その瞳が、妖しく光る。
——言いなさい。
——「はい」と。
——私の言うことを聞きなさい。
無言の圧力。
ルミは、テオのコートの裾を、ぎゅっと握りしめた。
怖い。
でも、テオの背中は温かい。
パフが、足元で「がるるるっ!」と威嚇してくれている。
私は、一人じゃない。
ルミは、深呼吸をした。
そして、顔を半分だけ出して、言った。
「……いいえ」
小さな、蚊の鳴くような声。
だが、それは明確な拒絶だった。
「私は……怯えていました。貴女が、怖いです」
ミエルの笑顔が、ピキリとひび割れた。
想定外。
あのお人形が、私の命令に逆らった?
ミエルの周囲の空間が、怒りで歪む。
だが、彼女はすぐに聖女の仮面を被り直した。
「まあ……お姉様ったら。辺境の暮らしで、少し心が不安定になっているのね。可哀想に」
ミエルは、テオに向かって優雅に一礼した。
「辺境伯様。姉の精神状態が心配です。私がしばらく滞在して、看病させていただきますわ」
「断る」
テオは即答した。
「ルミエールは俺が守る。部外者の介入は不要だ」
「部外者? 私は妹ですのよ?」
ミエルは、扇子で口元を隠し、くすりと笑った。
「それに、お父様からの正式な書状もございます。『ルミエールの身柄を、妹である私に一任する』と。……まさか、王国の法に背くおつもりではありませんよね?」
法と、血縁。
それを盾に取られれば、テオといえども、無下には追い返せない。
テオが、歯噛みする。
ミエルは、勝利を確信したように、ルミを見つめた。
「では、しばらくお世話になりますわ。……たっぷりと、失われた時間を取り戻しましょうね、お姉様」
その言葉は、死刑宣告のように響いた。
ミエルが、屋敷の中へと歩き出す。
その背中から、黒いヘドロのような悪意が、ボタボタと垂れ流されているのが、ルミには見えた。
この白い雪の屋敷が、汚されていく。
私の大切な場所が、侵食されていく。
ルミは、震える手で、テオの手を握った。
「……テオ様」
テオは、ルミの手を強く握り返した。
「大丈夫だ」
彼は、ミエルの背中を睨みつけながら、低く言った。
「法がどうあれ、血がどうあれ。……俺は、君の意志を最優先する」
テオは、ルミの方を向き、誓うように言った。
「戦おう、ルミエール。君の自由のために。俺たちが、ついている」
ルミは、頷いた。
もう、逃げない。
あの蜂蜜色の毒に飲み込まれて、心を殺すのは終わりだ。
ルミの瞳に、静かな、しかし消えることのない炎が灯った。
それは、かつて「死に場所」を求めていた少女が、初めて「生きる場所」を守るために抱いた、戦意の炎だった。
こうして、ブランネージュ領を舞台にした、聖女と悪女(とされた少女)の、最後の戦いが幕を開けた。
雪の白さとは対照的な、けばけばしいほどに鮮やかな深紅の馬車。
側面には、ヴァーミリオン家の紋章である「茨と薔薇」が金箔で描かれている。
屋敷の玄関ホールで、ルミエールは震えを抑えながらその到着を待っていた。
隣にはテオが立ち、ルミの肩を抱いている。足元にはパフが、低く唸り声を上げていた。
「……大丈夫だ。俺がついている」
テオの声は力強い。
だが、ルミの感覚器は、馬車が近づくにつれて増大する「悪意の波動」に悲鳴を上げていた。
『警告。高濃度の悪意接近。……カテゴリー:執着、支配欲、汚濁』
空気が重くなる。
鼻の奥に、腐った花のような、甘ったるい香水の匂いが漂ってくる気がした。
馬車が止まる。
従僕が扉を開ける。
降り立ったのは、分厚い毛皮のコートを纏った、蜂蜜色の髪の少女だった。
ミエル・ヴァーミリオン。
彼女は、出迎えの列の中にルミを見つけると、花が咲くような笑顔を浮かべた。
「お姉様!」
その声は、雪原に響く鈴の音のように愛らしかった。
だが、ルミには聞こえていた。
その声の裏に張り付いた、氷よりも冷たい本音が。
——見つけた。
——私の逃げた人形。
——勝手に幸せになろうなんて、許さない。
ミエルは、雪も構わず駆け寄ってくると、ルミに抱きついた。
「ああ、お姉様! ご無事でよかった! あんな森の中で行方不明になったと聞いて、私、心配で心配で……!」
ミエルの腕が、ルミの背中に回る。
きつく。痛いほどに。
それは抱擁ではない。捕食者が獲物を締め上げる、拘束だ。
ルミの鼻腔を、強烈な香水の匂いと、むせ返るような悪意が満たす。
『悪意濃度:98%。……異常数値』
父の悪意が「冷たい氷」なら、ミエルの悪意は「煮えたぎる泥」だ。
粘着質で、熱く、どこまでも絡みついてくる。
ルミのスキルが、悲鳴を上げて作動する。
ミエルの身体から溢れ出る黒い泥のようなオーラが、ルミの中に流れ込んでくる。
甘い。
頭が痺れるほど甘く、そして吐き気がするほど濃厚な毒の味。
かつては、これが主食だった。
これを食べて、生きてきた。
だが、テオの不器用な料理や、パフの温かい魔力を知ってしまった今のルミにとって、この味は「異物」でしかなかった。
「……うっ」
ルミは、口元を押さえた。
気持ち悪い。
食べたくない。
拒絶反応で、身体が震える。
ミエルは、ルミの耳元で、誰にも聞こえないように囁いた。
「……顔色が悪いわよ、ロータス。やっぱり、あなたは私がいなきゃ駄目ね。早く帰って、私の『毒』を食べてちょうだい」
ゾクリと、背筋が凍る。
彼女は知っているのだ。
ルミが、自分の悪意を食べて生きていることを。
知った上で、それを「餌」として、飼い慣らそうとしているのだ。
——逃げられない。
——この蜘蛛の巣からは、一生。
ルミの瞳から、光が消えかける。
古い服従の回路が、再接続されそうになる。
その時。
ガシッ。
太い腕が、ミエルの肩を掴み、強引に引き剥がした。
「……そこまでだ」
テオだった。
彼は、ルミを自分の背中に隠し、ミエルを見下ろした。
その琥珀色の瞳は、戦場で敵将を射抜く時のように、鋭く光っていた。
「あら、乱暴な方」
ミエルは、悪びれもせず、優雅に服を整えた。
「貴方が辺境伯様ですね? 姉を保護していただき、感謝しますわ。でも、姉妹の感動の再会を邪魔するのは、無粋ではありませんこと?」
「感動の再会には見えなかったな」
テオは、冷たく言い放った。
「彼女が怯えているのが分からないのか」
「怯える? まさか。お姉様は、感動で震えていただけですわ。ねえ、お姉様?」
ミエルが、テオの背後にいるルミに視線を送る。
その瞳が、妖しく光る。
——言いなさい。
——「はい」と。
——私の言うことを聞きなさい。
無言の圧力。
ルミは、テオのコートの裾を、ぎゅっと握りしめた。
怖い。
でも、テオの背中は温かい。
パフが、足元で「がるるるっ!」と威嚇してくれている。
私は、一人じゃない。
ルミは、深呼吸をした。
そして、顔を半分だけ出して、言った。
「……いいえ」
小さな、蚊の鳴くような声。
だが、それは明確な拒絶だった。
「私は……怯えていました。貴女が、怖いです」
ミエルの笑顔が、ピキリとひび割れた。
想定外。
あのお人形が、私の命令に逆らった?
ミエルの周囲の空間が、怒りで歪む。
だが、彼女はすぐに聖女の仮面を被り直した。
「まあ……お姉様ったら。辺境の暮らしで、少し心が不安定になっているのね。可哀想に」
ミエルは、テオに向かって優雅に一礼した。
「辺境伯様。姉の精神状態が心配です。私がしばらく滞在して、看病させていただきますわ」
「断る」
テオは即答した。
「ルミエールは俺が守る。部外者の介入は不要だ」
「部外者? 私は妹ですのよ?」
ミエルは、扇子で口元を隠し、くすりと笑った。
「それに、お父様からの正式な書状もございます。『ルミエールの身柄を、妹である私に一任する』と。……まさか、王国の法に背くおつもりではありませんよね?」
法と、血縁。
それを盾に取られれば、テオといえども、無下には追い返せない。
テオが、歯噛みする。
ミエルは、勝利を確信したように、ルミを見つめた。
「では、しばらくお世話になりますわ。……たっぷりと、失われた時間を取り戻しましょうね、お姉様」
その言葉は、死刑宣告のように響いた。
ミエルが、屋敷の中へと歩き出す。
その背中から、黒いヘドロのような悪意が、ボタボタと垂れ流されているのが、ルミには見えた。
この白い雪の屋敷が、汚されていく。
私の大切な場所が、侵食されていく。
ルミは、震える手で、テオの手を握った。
「……テオ様」
テオは、ルミの手を強く握り返した。
「大丈夫だ」
彼は、ミエルの背中を睨みつけながら、低く言った。
「法がどうあれ、血がどうあれ。……俺は、君の意志を最優先する」
テオは、ルミの方を向き、誓うように言った。
「戦おう、ルミエール。君の自由のために。俺たちが、ついている」
ルミは、頷いた。
もう、逃げない。
あの蜂蜜色の毒に飲み込まれて、心を殺すのは終わりだ。
ルミの瞳に、静かな、しかし消えることのない炎が灯った。
それは、かつて「死に場所」を求めていた少女が、初めて「生きる場所」を守るために抱いた、戦意の炎だった。
こうして、ブランネージュ領を舞台にした、聖女と悪女(とされた少女)の、最後の戦いが幕を開けた。

