一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
御崎先生に別れを告げ、研究室に戻ると、そこには海外の医学ジャーナルとノートPCが広げられていた。
「……ターゲットの遺伝子座を考えると、やっぱりCRISPRでノックアウトマウス作るのが一番確実か……?」
栄人さんが、マグカップ片手に難しそうな顔で唸る。
その横顔は、数週間前の悲壮感漂うものではなく、獲物を狙う狩人の目に戻っていた。
「神の鋏、CRISPR-Cas9……インパクト高いですね」
私もPCの画面を覗き込み、マウスカーソルを動かす。
遺伝子編集技術の代名詞。確かに強力なツールだけど、臨床検体でやるには倫理的なハードルも高いし、時間がかかる。
「……んー、でも」
私は最新のレビュー論文をスクロールしながら、別の可能性を提示した。
「……EWASとかも、最近トレンドかな?」
「EWAS……。エピゲノムワイド関連解析か」
「はい。先生の手術で得られる心筋の検体、あれを使わせてもらって……。DNAの配列そのものじゃなくて、『メチル化』の変化を見るんです」
私の言葉に、栄人さんの目が光った。
外科医としての勘が、それが「イケる」と反応した証拠だ。
「……なるほどな。心不全の予後と、エピジェネティックな変化の相関を見るわけか」
「そうです! それなら、実験は最小限の検体処理で済みますし、あとは私が自宅でひたすら統計解析を回せばいい」
「育児の合間に、スパコンで解析を回す母親か……。頼もしいな」
彼は楽しそうに笑い、私の肩に腕を回した。
「よし、乗った。……検体は俺が集める。倫理委員会の申請も俺が通す」
「解析と図表作成は私がやります。……これで、インパクトファクター10点以上、狙えますね」
「10点? ……甘いな」
彼はニヤリと笑い、私のあごを軽く持ち上げた。
「俺たちが組むんだぞ? ……どうせなら、トップジャーナルの表紙を飾るぞ」
「ふふ、大きく出ましたね」
「言ったろ。俺は野心家だって」
「……あ、動いた」
その時、ふとお腹の奥でポコっと小さな衝撃を感じた。
まるで、私たちの野心的な計画に『それならボクも手伝うよ』と相槌を打っているかのように。
「気が早いな。こいつも、将来は研究者か?」
栄人さんが愛おしそうに、私の膨らんだお腹に大きな手を添える。その手からは、じんわりとした温もりが伝わってくる。
窓の外には、穏やかな陽射し。
私たちのお腹の中には新しい命。
そして頭の中には、世界をあっと言わせる研究計画。
普通の人から見れば、難解な記号と数字の羅列かもしれない。
けれど私たちにとっては、これが何よりもワクワクする、「家族の未来の設計図」だった。