幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない
第21章 『すれ違う心音』
翌朝。
雨は止んでいたが、
隼人と由奈の胸の中にはまだ湿った冷たさが残っていた。
由奈は台所で朝食を並べ、
そっと隼人を呼んだ。
「隼人さん……朝ごはん、できてます」
「……ああ」
返事は優しい。
だけどどこか遠い。
いつもなら隼人は、
由奈が座るまで待ってから箸を取る。
その小さな気遣いが、
由奈の朝の幸せだった。
――今日は違った。
隼人は無言で席に座り、
静かに箸を動かし始める。
(……待っててくれないんだ)
胸が、きゅ、と痛んだ。
隼人の中で“何かが変わった”と
由奈は感じてしまっていた。
本当は、
隼人は気遣う余裕がないほど
昨夜のことに心を乱していただけなのに。
⸻
朝食の間、会話は少なかった。
お互いに話したいことはあるのに、
触れれば壊れそうな恐怖が先に立つ。
隼人は由奈の視線が揺れているのに気づく。
(由奈……泣きそうだな)
そう思うと、
また“触れられなくなる”。
怒鳴りたいわけじゃない。
責めたいわけじゃない。
ただ、
どうしていいか分からない。
それが隼人の限界だった。
食事を終えて、
ふたりは同じ時間に玄関へ向かった。
いつもは隼人が先に靴を履き、
由奈の足元を気にして待ってくれるのに。
今日は逆だった。
由奈が先に靴を履き、
隼人が黙ってそれを見つめた。
ほんの数秒の沈黙。
けれどその沈黙は
由奈の胸に鋭い痛みを落とした。
(……やっぱり、避けられてる)
隼人は、
声をかけようとしていた。
『昨日は、怖かっただろう』
『俺が悪かった』
『もう離れないで』
言いたい言葉はたくさんあった。
でも口を開いた瞬間——
“泣かせるかもしれない”
という恐怖が胸を掴んで、
言葉が喉に貼り付いた。
結果、隼人の声は
やけに淡白になった。
「……行こうか」
その一言が、
由奈には“距離”にしか聞こえなかった。
エレベーターの中。
ふたりきりの密閉された空間。
由奈は隼人の横で
肩を小さくすくめながら立っていた。
隼人の手が横にある。
触れられる距離。
触れたい距離。
なのに。
由奈は、恐怖と不安で動けない。
隼人は隼人で、
手を伸ばそうとして、
やっぱり震えて止めてしまう。
(触れたいのに……
どうしてこんなに……怖いんだ)
エレベーターの静寂が
二人の心音を強調した。
――それは、触れ合えない心音。
会社のロビーに入ってすぐ、
由奈は足を止めた。
隼人の視線が向かった先に——
麗華が立っていた。
完璧な笑顔。
完璧なメイク。
由奈にだけ見せる、わずかに勝ち誇ったような目。
「隼人、おはよう」
“隼人”
呼び捨て。
由奈の胸がちくりと痛む。
隼人は軽く会釈したが、
どこかぎこちなかった。
由奈は小さく頭を下げ、
すれ違おうとしたその瞬間——
麗華の声が追いかけた。
「昨日、ずいぶん遅かったみたいね?
……大丈夫だった? 片岡さん」
由奈の足が止まる。
麗華は優しい笑顔のまま、
由奈の耳元にだけ聞こえる声で囁いた。
「隼人、すごく心配してたわよ。
……“自分とは話してくれないのに”って」
由奈の心臓が揺れた。
(隼人さん……そんなふうに……思って……)
隼人は由奈を見つめ、
何か言いかけたが——
麗華が隼人の腕に軽く触れた。
「隼人、相談があるの。
二分だけいい?」
由奈の胸がえぐられた。
(……触れられてる)
隼人は咄嗟に腕を引いたが、
その“引く動作”すら
由奈には届いていない。
麗華は優雅に微笑んだ。
「すぐ終わるわ。
……由奈さんのほうこそ、ゆっくり休んでね?」
その言葉の裏にある毒が、
由奈の胸を静かに蝕む。
隼人は由奈に声をかけようとしたが、
由奈は一歩だけ下がり、
小さく頭を下げた。
「……お先に失礼します」
そして歩き出す。
隼人の声が届く前に。
(……私が隼人さんに甘えてるのが、
いちばん迷惑なんだ)
誤解は、完全に形を成した。
そして隼人の胸には、
“由奈が自分から離れていく”
という恐怖だけが残った。
ロビーのざわめきの中で、
隼人は一人、痛みを飲み込むように呟いた。
「……由奈」
届かない声。
届かない想い。
――すれ違う心音は、
まだ触れ合えないまま、
深く沈んでいく。
雨は止んでいたが、
隼人と由奈の胸の中にはまだ湿った冷たさが残っていた。
由奈は台所で朝食を並べ、
そっと隼人を呼んだ。
「隼人さん……朝ごはん、できてます」
「……ああ」
返事は優しい。
だけどどこか遠い。
いつもなら隼人は、
由奈が座るまで待ってから箸を取る。
その小さな気遣いが、
由奈の朝の幸せだった。
――今日は違った。
隼人は無言で席に座り、
静かに箸を動かし始める。
(……待っててくれないんだ)
胸が、きゅ、と痛んだ。
隼人の中で“何かが変わった”と
由奈は感じてしまっていた。
本当は、
隼人は気遣う余裕がないほど
昨夜のことに心を乱していただけなのに。
⸻
朝食の間、会話は少なかった。
お互いに話したいことはあるのに、
触れれば壊れそうな恐怖が先に立つ。
隼人は由奈の視線が揺れているのに気づく。
(由奈……泣きそうだな)
そう思うと、
また“触れられなくなる”。
怒鳴りたいわけじゃない。
責めたいわけじゃない。
ただ、
どうしていいか分からない。
それが隼人の限界だった。
食事を終えて、
ふたりは同じ時間に玄関へ向かった。
いつもは隼人が先に靴を履き、
由奈の足元を気にして待ってくれるのに。
今日は逆だった。
由奈が先に靴を履き、
隼人が黙ってそれを見つめた。
ほんの数秒の沈黙。
けれどその沈黙は
由奈の胸に鋭い痛みを落とした。
(……やっぱり、避けられてる)
隼人は、
声をかけようとしていた。
『昨日は、怖かっただろう』
『俺が悪かった』
『もう離れないで』
言いたい言葉はたくさんあった。
でも口を開いた瞬間——
“泣かせるかもしれない”
という恐怖が胸を掴んで、
言葉が喉に貼り付いた。
結果、隼人の声は
やけに淡白になった。
「……行こうか」
その一言が、
由奈には“距離”にしか聞こえなかった。
エレベーターの中。
ふたりきりの密閉された空間。
由奈は隼人の横で
肩を小さくすくめながら立っていた。
隼人の手が横にある。
触れられる距離。
触れたい距離。
なのに。
由奈は、恐怖と不安で動けない。
隼人は隼人で、
手を伸ばそうとして、
やっぱり震えて止めてしまう。
(触れたいのに……
どうしてこんなに……怖いんだ)
エレベーターの静寂が
二人の心音を強調した。
――それは、触れ合えない心音。
会社のロビーに入ってすぐ、
由奈は足を止めた。
隼人の視線が向かった先に——
麗華が立っていた。
完璧な笑顔。
完璧なメイク。
由奈にだけ見せる、わずかに勝ち誇ったような目。
「隼人、おはよう」
“隼人”
呼び捨て。
由奈の胸がちくりと痛む。
隼人は軽く会釈したが、
どこかぎこちなかった。
由奈は小さく頭を下げ、
すれ違おうとしたその瞬間——
麗華の声が追いかけた。
「昨日、ずいぶん遅かったみたいね?
……大丈夫だった? 片岡さん」
由奈の足が止まる。
麗華は優しい笑顔のまま、
由奈の耳元にだけ聞こえる声で囁いた。
「隼人、すごく心配してたわよ。
……“自分とは話してくれないのに”って」
由奈の心臓が揺れた。
(隼人さん……そんなふうに……思って……)
隼人は由奈を見つめ、
何か言いかけたが——
麗華が隼人の腕に軽く触れた。
「隼人、相談があるの。
二分だけいい?」
由奈の胸がえぐられた。
(……触れられてる)
隼人は咄嗟に腕を引いたが、
その“引く動作”すら
由奈には届いていない。
麗華は優雅に微笑んだ。
「すぐ終わるわ。
……由奈さんのほうこそ、ゆっくり休んでね?」
その言葉の裏にある毒が、
由奈の胸を静かに蝕む。
隼人は由奈に声をかけようとしたが、
由奈は一歩だけ下がり、
小さく頭を下げた。
「……お先に失礼します」
そして歩き出す。
隼人の声が届く前に。
(……私が隼人さんに甘えてるのが、
いちばん迷惑なんだ)
誤解は、完全に形を成した。
そして隼人の胸には、
“由奈が自分から離れていく”
という恐怖だけが残った。
ロビーのざわめきの中で、
隼人は一人、痛みを飲み込むように呟いた。
「……由奈」
届かない声。
届かない想い。
――すれ違う心音は、
まだ触れ合えないまま、
深く沈んでいく。