幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない
第33章 『影の噂、職場に広がる火種』
翌朝。
オフィスに届いた朝の光は明るいのに、
由奈の胸には不安の影が残っていた。
隼人に連れ帰ってもらった夜の温もりは確かだった。
抱きしめられた腕の強さも、
「離れないで」と震えた声も忘れられない。
(でも……
隼人さんは職場で、
私のことをどう思ってるんだろう)
出勤すると、
すぐに違和感に気づいた。
周囲の視線が微妙にこちらへ向いている。
ささやき声がほんの少し聞こえる。
(……何か……おかしい)
席につくと、顔見知りの同僚が
あからさまに気まずそうに会釈して去った。
胸がざわつく。
そんな中、
同じ部署の女性社員・佐伯が
コーヒー片手に近づいてきた。
「由奈ちゃん……大丈夫?」
心配そうな声。
だけどどこか、“知っている”目。
由奈は息を飲んだ。
「……な、何がでしょうか」
佐伯は言いづらそうに口をつぐみ、
周りを見て小声で言った。
「噂になってるの……
昨日の夜、泣いて外にいたって。
誰かに慰められてたって」
(っ!)
由奈の心臓が一気に跳ねる。
「い、いえ……あれは……!」
「それに……」
佐伯は声を落として続けた。
「隼人さんと……最近うまくいってないの?」
(……どうして……そんな話が……)
胸が苦しいほど痛くなる。
佐伯は悪意があるわけではなかった。
むしろ心配していた。
しかし“影の噂”はすでに広がっていた。
(誰が……こんな……)
答えは分かっているのに、
考えたくなかった。
その頃、
別フロアのエレベーター前。
「聞いた?隼人さんの奥さん……
なんか夜に泣いてたらしいよ」
「え、あの美人でおとなしい人?
夫婦仲よかったんじゃなかったの?」
「最近、隼人さん……麗華さんとよく話してるじゃん。
それもあって……らしい」
「じゃあ奥さん、嫉妬で?」
小声が重なり、
まるで静かな炎のように噂が広がっていく。
その中心に――
さりげなく立っていたのは、麗華。
彼女はコーヒーを片手に、
微笑みを浮かべていた。
「……はぁ、可哀想に。
昨日も、すごく泣いてたみたいよ」
と、同情するように首を傾げる。
その言葉が新たな火種となり、
周囲の空気をざわつかせた。
(いいわ……
あっという間に広がっていく)
麗華の視線の先には、
偶然、隼人が歩いてきた。
彼が由奈の話題に気づいたとき、
背中がわずかに強張る。
同僚の一人が軽く笑って言った。
「隼人さん、夫婦ケンカですか?」
隼人の表情が一瞬で硬くなった。
もう一人の社員が続ける。
「奥さん泣かせちゃダメですよ〜。
昨日、外で見たって人もいましたよ」
隼人の胸がひりつく。
(……由奈……
あんなところで……)
誰にも気づかれず泣いていた姿。
心細く、怯えていた姿。
祐真が言っていた“泣いていた”という言葉が
再び胸に刺さった。
(俺が……由奈を守れなかった)
隼人は無言のまま通り過ぎようとしたが、
背後でまた声がした。
「そういえば麗華さんが、
相談に乗ってあげてるって聞いたけど」
(……麗華……何を……)
胸がざわつく。
そんな隼人の表情を、麗華は見逃さない。
(動揺してる。
やっぱり、弱いところは“由奈”ね)
麗華は隼人に近づき、
同情を装った声で言う。
「大変ね、隼人。
奥さん……かなり参ってるみたいよ?」
隼人の眉が、ぎゅっと寄った。
「麗華……
何を由奈に言った?」
「何も。
ただ……あなたの代わりに
相談に乗ってあげただけ」
(嘘だ)
麗華の笑顔の奥にある意図を、
隼人は薄々感じ始めていた。
そのころ由奈は――
休憩室でひとり、
コップの水を持ったまま動けずにいた。
噂が耳に刺さる。
(……私、迷惑ばかり……
隼人さんにも……
職場の人にも……)
スマホに手を伸ばしかけ、
すぐに引っ込めた。
(隼人さん……
迷惑だと思うかな……
また泣いたって思われたら……)
胸が苦しい。
息が詰まる。
そのときだった。
ピッ。
通知。
画面には、知らない番号からのメッセージ。
《奥さん、旦那さんのことしっかり見たほうがいいですよ》
胸がざわつく。
震える指で開く。
《隼人さん、最近ずっと女性と一緒に帰ってます》
《気をつけて》
由奈の心臓が止まりかけた。
(女の人?
誰……?)
一人の顔が浮かぶ。
――麗華さん……?
そのとき、背後で
同僚たちの声がまた聞こえた。
「隼人さん、今日も麗華さんと打ち合わせだってさ」
「仲良いよね、あの二人」
「奥さんは大変だね……」
由奈の手が震える。
(……隼人さん……
本当に、麗華さんと……?)
胸が押しつぶされるように痛む。
頭の中で、昨夜の隼人の声がかすれていく。
——離れないでくれ。
——俺のそばにいてくれ。
その温度が、
噂という冷たい刃で切り裂かれようとしていた。
そして、
由奈の胸には
ある“ひとつの結論”が生まれ始めていた。
(……私……
隼人さんの負担になってる……)
(……迷惑なんだ……)
(……私が離れたほうが……
隼人さんは……楽なんじゃ……)
その瞬間。
麗華が休憩室の扉を静かに開け、
柔らかい笑みを浮かべて入ってきた。
「由奈さん……
少し、話せる?」
微笑みの裏に、
鋭い意図が隠れていることを
由奈はまだ知らない。
影の噂は、
ついに“引き離す力”を持ち始めていた。
オフィスに届いた朝の光は明るいのに、
由奈の胸には不安の影が残っていた。
隼人に連れ帰ってもらった夜の温もりは確かだった。
抱きしめられた腕の強さも、
「離れないで」と震えた声も忘れられない。
(でも……
隼人さんは職場で、
私のことをどう思ってるんだろう)
出勤すると、
すぐに違和感に気づいた。
周囲の視線が微妙にこちらへ向いている。
ささやき声がほんの少し聞こえる。
(……何か……おかしい)
席につくと、顔見知りの同僚が
あからさまに気まずそうに会釈して去った。
胸がざわつく。
そんな中、
同じ部署の女性社員・佐伯が
コーヒー片手に近づいてきた。
「由奈ちゃん……大丈夫?」
心配そうな声。
だけどどこか、“知っている”目。
由奈は息を飲んだ。
「……な、何がでしょうか」
佐伯は言いづらそうに口をつぐみ、
周りを見て小声で言った。
「噂になってるの……
昨日の夜、泣いて外にいたって。
誰かに慰められてたって」
(っ!)
由奈の心臓が一気に跳ねる。
「い、いえ……あれは……!」
「それに……」
佐伯は声を落として続けた。
「隼人さんと……最近うまくいってないの?」
(……どうして……そんな話が……)
胸が苦しいほど痛くなる。
佐伯は悪意があるわけではなかった。
むしろ心配していた。
しかし“影の噂”はすでに広がっていた。
(誰が……こんな……)
答えは分かっているのに、
考えたくなかった。
その頃、
別フロアのエレベーター前。
「聞いた?隼人さんの奥さん……
なんか夜に泣いてたらしいよ」
「え、あの美人でおとなしい人?
夫婦仲よかったんじゃなかったの?」
「最近、隼人さん……麗華さんとよく話してるじゃん。
それもあって……らしい」
「じゃあ奥さん、嫉妬で?」
小声が重なり、
まるで静かな炎のように噂が広がっていく。
その中心に――
さりげなく立っていたのは、麗華。
彼女はコーヒーを片手に、
微笑みを浮かべていた。
「……はぁ、可哀想に。
昨日も、すごく泣いてたみたいよ」
と、同情するように首を傾げる。
その言葉が新たな火種となり、
周囲の空気をざわつかせた。
(いいわ……
あっという間に広がっていく)
麗華の視線の先には、
偶然、隼人が歩いてきた。
彼が由奈の話題に気づいたとき、
背中がわずかに強張る。
同僚の一人が軽く笑って言った。
「隼人さん、夫婦ケンカですか?」
隼人の表情が一瞬で硬くなった。
もう一人の社員が続ける。
「奥さん泣かせちゃダメですよ〜。
昨日、外で見たって人もいましたよ」
隼人の胸がひりつく。
(……由奈……
あんなところで……)
誰にも気づかれず泣いていた姿。
心細く、怯えていた姿。
祐真が言っていた“泣いていた”という言葉が
再び胸に刺さった。
(俺が……由奈を守れなかった)
隼人は無言のまま通り過ぎようとしたが、
背後でまた声がした。
「そういえば麗華さんが、
相談に乗ってあげてるって聞いたけど」
(……麗華……何を……)
胸がざわつく。
そんな隼人の表情を、麗華は見逃さない。
(動揺してる。
やっぱり、弱いところは“由奈”ね)
麗華は隼人に近づき、
同情を装った声で言う。
「大変ね、隼人。
奥さん……かなり参ってるみたいよ?」
隼人の眉が、ぎゅっと寄った。
「麗華……
何を由奈に言った?」
「何も。
ただ……あなたの代わりに
相談に乗ってあげただけ」
(嘘だ)
麗華の笑顔の奥にある意図を、
隼人は薄々感じ始めていた。
そのころ由奈は――
休憩室でひとり、
コップの水を持ったまま動けずにいた。
噂が耳に刺さる。
(……私、迷惑ばかり……
隼人さんにも……
職場の人にも……)
スマホに手を伸ばしかけ、
すぐに引っ込めた。
(隼人さん……
迷惑だと思うかな……
また泣いたって思われたら……)
胸が苦しい。
息が詰まる。
そのときだった。
ピッ。
通知。
画面には、知らない番号からのメッセージ。
《奥さん、旦那さんのことしっかり見たほうがいいですよ》
胸がざわつく。
震える指で開く。
《隼人さん、最近ずっと女性と一緒に帰ってます》
《気をつけて》
由奈の心臓が止まりかけた。
(女の人?
誰……?)
一人の顔が浮かぶ。
――麗華さん……?
そのとき、背後で
同僚たちの声がまた聞こえた。
「隼人さん、今日も麗華さんと打ち合わせだってさ」
「仲良いよね、あの二人」
「奥さんは大変だね……」
由奈の手が震える。
(……隼人さん……
本当に、麗華さんと……?)
胸が押しつぶされるように痛む。
頭の中で、昨夜の隼人の声がかすれていく。
——離れないでくれ。
——俺のそばにいてくれ。
その温度が、
噂という冷たい刃で切り裂かれようとしていた。
そして、
由奈の胸には
ある“ひとつの結論”が生まれ始めていた。
(……私……
隼人さんの負担になってる……)
(……迷惑なんだ……)
(……私が離れたほうが……
隼人さんは……楽なんじゃ……)
その瞬間。
麗華が休憩室の扉を静かに開け、
柔らかい笑みを浮かべて入ってきた。
「由奈さん……
少し、話せる?」
微笑みの裏に、
鋭い意図が隠れていることを
由奈はまだ知らない。
影の噂は、
ついに“引き離す力”を持ち始めていた。