幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

第36章 『止めたい腕、言えない理由』


エレベーターの扉が閉まる音が、
狭い廊下に響いた。

由奈は玄関の前で立ち尽くし、
荷物を握ったまま震える。

隼人はゆっくり歩み寄り、
由奈の前に立った。

「……どこに、行くんだ」

その声は、
今にも崩れそうなほど低くて弱い。

由奈は答えられない。

(言えない……
隼人さんのために離れるなんて……
そんなの言ったら……隼人さん、傷つけちゃう)

隼人は由奈の沈黙に、
胸を強く掴まれた。

「……由奈」

一歩近づく。

「俺から……
本当に離れるつもりなのか?」

由奈の目に涙が溢れた。

隼人の手が、
由奈の腕に触れた。

その手は震えていた。

「……嫌だ。
行かないでくれ」

声がかすれている。

(そんなの……
言われたら……)

由奈の胸が痛いほど締め付けられる。

「隼人さん……
ごめんなさい……」

「謝るな」

隼人は由奈の腕を掴んで離さない。

強く。
でも必死で優しく。

「理由を言え。
話してくれ……由奈」

(言えない。
隼人さんの負担になってるなんて……
そんなこと言ったら、もっと苦しませちゃう)

「……理由なんて……ないんです」

由奈の声は震えていた。

隼人は首を振る。

「嘘だ」

由奈の涙が落ちる。

「ほんとう……です……」

隼人の顔に、
明らかな痛みが走った。

「じゃあ、なんで荷物を持ってる?」

「……」

「昨日“離れないでくれ”って言ったのは、
嘘だったのか?」

由奈は首を振った。

「ちがいます……
あれは……本当です。
私だって……隼人さんのそばにいたい……」

「じゃあ、なぜ離れる?」

その問いが
由奈の胸に深く刺さった。

(言ったら……だめ。
隼人さんは……私のせいで苦しんでるって……
麗華さんの言葉、全部……隼人さんのため……)

唇が震え、
声が掠れる。

「……私なんか……
隼人さんのそばにいたら……
だめなんです……」

隼人の瞳が大きく揺れた。

「……だめ?
俺の……大切な由奈が?」

「私は……負担なんです……
隼人さんに……」

「誰がそんなこと言った」

隼人の声が低く震える。

由奈は言えない。

麗華の名前も。
噂も。
嘘のメッセージも。

「……私が……決めたんです……
隼人さんのために……」

隼人は由奈の肩を両手で掴んだ。

強く、必死に。

「勝手に決めるな!!」

その声は、
隼人が今まで出したことのない
叫びだった。

由奈の肩が小さく震える。

隼人は続ける。

「俺の気持ちを決めるのは……
俺だ」

声は荒いのに、
瞳は泣きそうだった。

「由奈がいないほうが楽なんて……
そんなわけないだろ」

「でも……私……泣いてばかりで……」

「泣いたっていい。
震えてもいい。
弱くてもいい」

言葉が一気にあふれる。

「俺は……
由奈と一緒にいたい」

その言葉に、
由奈の胸が痛いほど軋んだ。

でも――
それでも言えない。

(隼人さんは優しいから……
私が泣いたら……無理してこう言うんだ……)

「隼人さん……
優しいだけ、です……」

隼人の表情が崩れ落ちる。

「優しさだけで……
こんなに苦しくなるかよ……」

その声には、
押し殺した感情が滲んでいた。

隼人は由奈の手を掴み、
胸のところに押し当てた。

ドクン、ドクン――
早く、強く鳴る心臓。

「聞こえるか?
これ……全部……由奈のせいだ」

「……隼人さん……?」

「離れたいなんて、思えるわけない」

声が震えた。

「俺の心を勝手に置いていくな」

その言葉で、
由奈の涙は限界を超えた。

ぽろぽろ、ぽろぽろと落ちていく。

「でも……わたし……
隼人さんを苦しめてる……」

「誰がそんなこと言った」

「……!」

隼人は由奈の頭を抱き寄せた。

強く。
壊れるほど。

「俺は……
由奈にそばにいてほしいんだよ……
ずっと……」

由奈は隼人の胸に顔を押し当て、
声を殺して泣いた。

(どうして……
こんなに苦しいのに……
こんなに、離れたくないの……)

隼人は震える腕で
由奈の背中を撫でた。

苦しそうに、
誰よりも切なく。

「行くな……お願いだ……」

その声は、
由奈の心を深く揺らした。

が――由奈の胸にはまだ、
麗華の“あの言葉”が刺さったままだ。

――あなたが離れてあげること。それが隼人のためよ。

隼人の腕のぬくもりの中で、
由奈の心は激しく揺れ続けていた。

この夜の結論は、
まだ出ない。

すれ違いは“終わり”ではなく、
むしろここから
第二の崩壊へ向かっていく。
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