終電で生まれる恋
第1話 終電ホームの出会い
夜のホームに、電車の金属音と案内アナウンスが静かに響く。
春川優奈は、肩にかけた薄いコートをぎゅっと握りしめ、息を整えながら足早に階段を駆け上がった。
「ま、間に合う…?」
文字通り息も絶え絶えの体で、改札を抜け、ホームに飛び出す。残業で疲れた心も体も、もう限界に近かった。
目の前に見えるのは、最後の電車が静かに待つプラットフォーム。すぐに扉が閉まりそうで、胸がどきりと跳ねる。
「やばい…!」
慌てて書類の入ったバッグを押さえながら走った瞬間、足元の書類が一枚、ひらりと舞い落ちる。
止めようとしても、もう手が届かない。書類は線路の端まで転がり、まるで夜の闇に吸い込まれるかのようだった。
「うっ…!」
焦りと疲労が入り混じり、優奈は軽くしゃがみ込む。
その時、背後から低く落ち着いた声がした。
「それ、落としましたよね?」
振り返ると、そこに立っていたのはスーツ姿の男性。30歳前後だろうか、髪はきちんと整えられ、表情は穏やかで、しかしどこか鋭い視線を持っていた。
目が合った瞬間、優奈は思わず息を呑む。
「えっ…あ、あの、はい…」
彼は素早く手を伸ばし、散らばった書類を拾い集める。
彼の手際の良さと、落ち着いた佇まいに、優奈はしばらく言葉を失った。
「大丈夫ですか?」
「え…はい…あ、ありがとうございます…」
一言一言がぎこちなく、彼の静かな声に優奈の心は少しだけ安らぐ。
その瞬間、プラットフォームの灯りが二人を柔らかく照らした。
「こんな時間まで残業ですか?」
「はい…まあ…たまに…」
言葉を探すように、優奈は答える。彼は微笑むことなく、しかし優しく頷いた。
「そうですか…。無理はしないほうがいいですよ」
その言葉に、なぜか優奈の肩の力が抜けた。
仕事で疲れ切った体に、その一言が小さな温もりとして染み渡る。
しかし、電車はまだ来ない。終電遅延のアナウンスがホームに流れる。
二人は自然と隣に立ち、沈黙を共有する。
疲れた空気、冷たい夜風、そして遠くに見える終電の明かり。
どこか映画のワンシーンのようで、優奈は自分の心臓の鼓動を強く感じた。
「…よかったら、座りますか? 少し待つだけでも」
突然の提案に、優奈は戸惑った。
しかしその声は強引でもなく、自然で、まるで前からそこにあったかのような安心感があった。
小さく頷くと、二人はホームの端にあるベンチに並んで腰を下ろした。
書類を片手に、優奈はふと自分の心を覗き込む。
――なぜか、この人にだけ弱音を見せてもいい気がする。
不思議な感覚だった。
「仕事、大変なんですね…」
「…はい、まあ…」
口にするたび、優奈の声は小さくなり、言葉が途切れる。
それを不思議そうに見つめる彼。
彼は何も言わず、ただ静かにうなずく。否定も、指摘も、励ましもせず、ただ受け止める。
優奈の中の強がりが、少しずつゆるむ。
「…あの…電車、いつ来るんでしょう」
「もうすぐです。少しだけ、ゆっくりしていてください」
その声に、優奈はまた安心する。
夜の冷たさ、疲れ、孤独。すべてが一瞬だけ消えた気がした。
電車の光が少しずつ近づく。
優奈は心の中で、言葉にならない感情を抱えながら、彼をちらりと見た。
その目は、ただの偶然の出会いにしては、不思議なほど温かく、確かに彼女を見つめていた。
電車の扉がホームに滑り込む音が響く。
「そろそろですね」
彼がそっと告げる。
優奈は立ち上がり、バッグを肩にかける。
ドアの前に立つ二人。自然と距離が近い。
「今日は…ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
一瞬、言葉が詰まる。
互いに何か言いたい気持ちがありながら、何も言えない。
「…困ったら頼ってください」
彼が差し出したのは名刺だった。
見慣れない出版社の名刺に、彼の名前が印刷されている。
その指先が、ほんのわずか震えていたことに、優奈は気づく。
「……はい」
受け取り、思わず手にぎゅっと握る。
その瞬間、胸が高鳴る。
ただの一夜の出会いだったはずが、心に小さな灯りがともった。
電車の扉が閉まり、二人は視線を交わしたまま少しの間立ち尽くす。
夜の空気の中で、何かが動いたことを二人だけが知っている。
「…また…会えるかな」
優奈は心の中で、そう呟く。
電車が走り出す音と、プラットフォームに残る二人の影。
互いに微笑み合うでもなく、ただ静かに見つめ合うだけ。
その余韻が、何もかもを意味するようで、優奈は思わず胸を押さえた。
「…次は、偶然じゃなくても…会えたらいいな」
言葉にしようか迷った瞬間、電車は闇の向こうへ消えていく。
優奈は名刺を握りしめ、深く息を吸った。
心の中で、小さな決意が芽生える。
――終電のホームで、たった一度の出会いが、私の夜を変えた。
――あの人と、もう一度会えるなら…
ふと、視線の奥に彼の影が残っているような気がした。
それは確かに偶然ではなく、運命の予感――
そして、この夜の出来事が、まだ始まりに過ぎないことを、優奈はまだ知らなかった。
春川優奈は、肩にかけた薄いコートをぎゅっと握りしめ、息を整えながら足早に階段を駆け上がった。
「ま、間に合う…?」
文字通り息も絶え絶えの体で、改札を抜け、ホームに飛び出す。残業で疲れた心も体も、もう限界に近かった。
目の前に見えるのは、最後の電車が静かに待つプラットフォーム。すぐに扉が閉まりそうで、胸がどきりと跳ねる。
「やばい…!」
慌てて書類の入ったバッグを押さえながら走った瞬間、足元の書類が一枚、ひらりと舞い落ちる。
止めようとしても、もう手が届かない。書類は線路の端まで転がり、まるで夜の闇に吸い込まれるかのようだった。
「うっ…!」
焦りと疲労が入り混じり、優奈は軽くしゃがみ込む。
その時、背後から低く落ち着いた声がした。
「それ、落としましたよね?」
振り返ると、そこに立っていたのはスーツ姿の男性。30歳前後だろうか、髪はきちんと整えられ、表情は穏やかで、しかしどこか鋭い視線を持っていた。
目が合った瞬間、優奈は思わず息を呑む。
「えっ…あ、あの、はい…」
彼は素早く手を伸ばし、散らばった書類を拾い集める。
彼の手際の良さと、落ち着いた佇まいに、優奈はしばらく言葉を失った。
「大丈夫ですか?」
「え…はい…あ、ありがとうございます…」
一言一言がぎこちなく、彼の静かな声に優奈の心は少しだけ安らぐ。
その瞬間、プラットフォームの灯りが二人を柔らかく照らした。
「こんな時間まで残業ですか?」
「はい…まあ…たまに…」
言葉を探すように、優奈は答える。彼は微笑むことなく、しかし優しく頷いた。
「そうですか…。無理はしないほうがいいですよ」
その言葉に、なぜか優奈の肩の力が抜けた。
仕事で疲れ切った体に、その一言が小さな温もりとして染み渡る。
しかし、電車はまだ来ない。終電遅延のアナウンスがホームに流れる。
二人は自然と隣に立ち、沈黙を共有する。
疲れた空気、冷たい夜風、そして遠くに見える終電の明かり。
どこか映画のワンシーンのようで、優奈は自分の心臓の鼓動を強く感じた。
「…よかったら、座りますか? 少し待つだけでも」
突然の提案に、優奈は戸惑った。
しかしその声は強引でもなく、自然で、まるで前からそこにあったかのような安心感があった。
小さく頷くと、二人はホームの端にあるベンチに並んで腰を下ろした。
書類を片手に、優奈はふと自分の心を覗き込む。
――なぜか、この人にだけ弱音を見せてもいい気がする。
不思議な感覚だった。
「仕事、大変なんですね…」
「…はい、まあ…」
口にするたび、優奈の声は小さくなり、言葉が途切れる。
それを不思議そうに見つめる彼。
彼は何も言わず、ただ静かにうなずく。否定も、指摘も、励ましもせず、ただ受け止める。
優奈の中の強がりが、少しずつゆるむ。
「…あの…電車、いつ来るんでしょう」
「もうすぐです。少しだけ、ゆっくりしていてください」
その声に、優奈はまた安心する。
夜の冷たさ、疲れ、孤独。すべてが一瞬だけ消えた気がした。
電車の光が少しずつ近づく。
優奈は心の中で、言葉にならない感情を抱えながら、彼をちらりと見た。
その目は、ただの偶然の出会いにしては、不思議なほど温かく、確かに彼女を見つめていた。
電車の扉がホームに滑り込む音が響く。
「そろそろですね」
彼がそっと告げる。
優奈は立ち上がり、バッグを肩にかける。
ドアの前に立つ二人。自然と距離が近い。
「今日は…ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
一瞬、言葉が詰まる。
互いに何か言いたい気持ちがありながら、何も言えない。
「…困ったら頼ってください」
彼が差し出したのは名刺だった。
見慣れない出版社の名刺に、彼の名前が印刷されている。
その指先が、ほんのわずか震えていたことに、優奈は気づく。
「……はい」
受け取り、思わず手にぎゅっと握る。
その瞬間、胸が高鳴る。
ただの一夜の出会いだったはずが、心に小さな灯りがともった。
電車の扉が閉まり、二人は視線を交わしたまま少しの間立ち尽くす。
夜の空気の中で、何かが動いたことを二人だけが知っている。
「…また…会えるかな」
優奈は心の中で、そう呟く。
電車が走り出す音と、プラットフォームに残る二人の影。
互いに微笑み合うでもなく、ただ静かに見つめ合うだけ。
その余韻が、何もかもを意味するようで、優奈は思わず胸を押さえた。
「…次は、偶然じゃなくても…会えたらいいな」
言葉にしようか迷った瞬間、電車は闇の向こうへ消えていく。
優奈は名刺を握りしめ、深く息を吸った。
心の中で、小さな決意が芽生える。
――終電のホームで、たった一度の出会いが、私の夜を変えた。
――あの人と、もう一度会えるなら…
ふと、視線の奥に彼の影が残っているような気がした。
それは確かに偶然ではなく、運命の予感――
そして、この夜の出来事が、まだ始まりに過ぎないことを、優奈はまだ知らなかった。