満月の夜は君の隣で笑っていられますように。
1章 過去と日常
リビングから罵声が聞こえてくる。またか。
怒鳴り散らす大声と、泣きじゃくりながら助けを乞う弱々しい声。
いつからだろう。父が仕事から帰ってくるなり喧嘩するようになったのは。
仲の良かった両親の姿なんてもう思い出せないくらい、ずっと前から二人は喧嘩をしていた。
一方的に罵声と暴力を浴びせる父と、逃げもせず反論もせずただやられ続けるだけの母。
なぜ母は父と離婚をしないのだろう。なぜ抵抗もせずやられっぱなしでいられるのだろう。
私は力で押さえつけようとする父も抵抗しない弱い母も嫌いだった。
一階から聞こえてくる声を無視するように、頭から布団をかぶって眠りについた。
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を覚ます。洗面所に行くために階段を降りていくと廊下で母とすれ違った。
「あら、おはよう。沙雪」
乱れた髪を手で整えながら母が挨拶してくる。
もう何年も碌に整えていない髪の毛はところどころ白髪が目立ち、目の下には大きな隈がくっきりと浮かんでいた。
頬に絆創膏が貼られている。血の滲み具合からして昨日父につけられた傷だろう。
頬の痩けた骸骨のような顔の上で困ったように眉が下がる。
「どうしたの?」
様子を伺うようにこちらを見つめる母に怒りが込み上げてくる。
「なんでもない」
人の顔色ばっか窺ってオドオドしてるから。だからなめられて父に暴力を振るわれているのに。なぜ母はいつも弱々しい顔をしているの? そんなんだからいらない傷跡ばかり体に刻まれていくのに。
背中に感じる母の視線を断ち切るように洗面所のドアを閉める。
バンっと思ったより大きな音がして、まるで私の気持ちを代弁するように辺りに木霊した。
「沙雪ー! おはよー」
背後から明るい声がしたかと思うと同時に、背中に鈍痛が走った。
「美織は普通に挨拶することできないの?」
声をかけてきたのは同じクラスで幼馴染でもある美織。美織は毎朝私を見掛けると背中を叩いて声をかけてくる。
「だって沙雪、朝弱いって言ってたからびっくりさせたら目覚めるかなって思って」
「それいつの話よ」
確かに小さい頃の私は朝に弱かった。それは、リビングから聞こえてくる両親の罵声に怯えて寝られない夜を過ごしていたからだ。
それも何年も続けば慣れてしまう。今はむしろ不意に何も物音がしなくなると不安になってしまうほどだ。
「沙雪は今日もかわいいね。本当に自慢の幼馴染だよー」
私の顔を覗き込む美織。肩の位置で切り揃えられた髪の毛が優しく風に揺れる。
ニコニコと人当たりの良さそうな笑みを浮かべる美織は知らない。私の家での両親のことを。
話す必要がないから話してないだけ。仲の悪い両親のことなんて知らないなら知らないままでいい。
ふわふわとして何も考えていないように思われがちな美織だが、実はその笑顔の下で誰よりも周りを見ていて、目に見えない傷を何度も負ってきた。
今でも思い出す。あの日、あんなことがなければ、今頃美織は私以外の誰かと当たり前のように学校生活を送っていただろう。
私はあのとき、美織を救うと同時に私という存在のもとに縛り付けてしまった。
それは6年前。小学5年生の、もうすぐ夏休みを迎えるとある雨の日のこと。
私と美織は同じクラスだった。
私たちのクラスにははっきりとしたスクールカーストが存在していた。一軍は親が大手企業の社長で文武両道な一人の女子とその取り巻きたち。二軍は勉強も運動も平均程度にできる陽キャで顔の整った人たち。それ以外が三軍だ。
美織は二軍だった。
明るく誰とでも分け隔てなく接する美織。その中には私もいた。
他の二軍の子たちは一軍女子、優香の圧が怖いからと三軍の人たちのことは視界にすら入れようとしていなかった。三軍に話しかけるのは美織だけだった。
そうなると優香の反感を買うのは当然で。
ある日の放課後、美織は「優香たちに屋上に呼ばれたから先帰ってて」とだけ告げて屋上へ向かっていった。
嫌な予感のした私は、先回りして屋上のペントハウスの上から美織たちの様子を見ることにした。
雨音に掻き消されそうな声に必死に耳を澄ます。
「ねぇ、美織? どうしてあんた三軍の奴に話しかけてんの?」
「沙雪は私の友達だもん」
「友達とか関係ねぇよ。美織とあいつは住む世界が違うの。もうあいつに話しかけるのはやめろ。わかった?」
「どうして? 私と沙雪は幼馴染だよ? 同じ時間を生きてきたの。住む世界が違うなんてことないよ」
「めんどくせぇ。もういいや」
そう言ったかと思うと、優香は屋上から美織を突き落とした。
「素直に言うこと聞いてれば痛い思いしなくてよかったのに。バカなやつ」
そう残して優香たちは屋上から去っていった。
私は今見た光景が信じられず、震える足でなんとかペントハウスの階段を降りて、ついさっき美織の立っていた場所に向かった。
そっと下を覗き込む。
そこには美織がいた。優香が突き落としたように見えたのは見間違いではなかった。
ピクリとも動かない美織の体を雨が冷たく打ちつける。
その後、私の呼んだ救急車に乗って美織は病院に運ばれた。すぐに集中治療室に連れて行かれた美織。
幸い、落下した場所には植木があり、枝葉がクッションになって美織は生きていた。
でも瀕死の状態だった。クッションとなった枝葉は命を救ったが、その鋭さが美織の体を貫いていたのだ。美織は肺の一部を負傷した。
今すぐにでも移植しないと助からない。そう聞いた私はその場で美織に自分の肺を移植するよう頼んだ。
今の美織の肺の一部は私のもの。看護師の立ち話から偶然そのことを知ってしまった美織は、退院すると今まで以上に私と一緒に過ごすようになった。
いつか何かの本で読んだ。サイコロジカル・デット。心理的負債感。返しきれないほどの恩を着てしまうと、なんとしてでも返さないとと思いすぎてしまうこと。
私の肺移植によって一命を取り留めた美織は、その恩を返すために一層私と過ごすようになった。
私はただ美織を救いたいだけだった。私と話していたせいで優香に突き落とされてしまった美織。それが申し訳なくて、ただ美織に生きていてほしかっただけ。恩返しなんて望んでいない。
何度そう言っても美織は「私が沙雪と一緒にいたいから隣にいるの」と聞く耳を持たない。
私は美織の命を救うと同時に、美織の未来を私の隣に縛りつけた。
「沙雪? さっきからずっと上の空だけど、どしたの?」
美織の声に我に返る。
「なんでもない」
いつの間にか学校に着いていた。ローファーを脱いで上履きに履き替える。
「今日は私……」
上履きの中には画鋲が入っていた。
なんの偶然か、私立中学を受験した優香と学校が離れたと思ったら、再び高校で再会してしまったのだ。しかも同じクラス。
優香は良くも悪くも、あの日のまま何も変わっていなかった。美織を見るや否やいじめ始めた。
あのときと違うのはターゲットが二人になったこと。優香は、私と美織を交互にいじめる。何を考えているのか、決して同じ日に二人をいじめることはない。今日は私がターゲット。
上履きの中の画鋲を近くの壁に刺して、教室へ向かった。
美織は何も言わず、私の刺した画鋲を一瞥して静かに私と並んで歩き始めた。
今日も1日が始まる。


