ことわざ男子に囲まれて〜私と彼らの七転び八起きな日々〜
第1話
小学校低学年の頃。私は、おばあちゃんの膝の上で絵本を読んでもらうのが大好きだった。
「ことはちゃん、『猫の手も借りたい』ってどういう意味だと思う?」
「えっとね、猫さんの手が欲しいってこと!ふわふわで可愛いから」
おばあちゃんは穏やかに微笑んで、私の頭を撫でた。
「言葉はね、心を運ぶのよ。だから、大切にね」
あのときの私は、その意味が分かっていなかった。だけど、今なら──少しだけ分かる気がする。
◇
あれから6年。私、花咲ことはは、中学2年生になっていた。
ある日、おばあちゃんの形見である赤い表紙の辞典を開いたとき、ページの端に小さな文字を見つけた。
『言葉を大切にする者よ、いつかことわざの守り人に会うだろう』
そのときは、おばあちゃんが書いたメモだと思っていた。でも、まさかそれが本当になるなんて──。
◇
10月のある日の放課後。文化祭実行委員会で、顧問の田中先生が資料を配る。
「今年の各クラス代表の、スピーチ発表者を発表します」
私が通う中学校では、秋の文化祭で生徒が選ばれたテーマでスピーチをする。全校生徒の前で話す大役だ。
「誰が選ばれるんだろうね〜、ドキドキ!」
隣の席の親友・咲良が、わくわくした表情でこちらを見てくる。その陽気さに比べ、私の心臓はうるさく脈打っていた。
人前で話すのがとにかく苦手な私。どうか選ばれませんように……そう、神様に何度も祈ったのに。
「2年B組は……花咲さん」
「えっ」
教室中の視線が、一斉に私に突き刺さる。頭が真っ白になり、動けない。
「ことは、やったじゃん!」
咲良は、満面の笑みで私の肩を力強く叩いた。田中先生が続ける。
「テーマは『私たちが使う日本語〜ことわざの魅力〜』。3つのことわざを紹介してもらいます」
ことわざの魅力……。おばあちゃんとの、あの日の約束。もし私がことわざをきちんと理解できたら、今度こそ言葉を大切にできるかもしれない。
だけど──実は私、ことわざがものすごく苦手。この大役が、喜びよりも大きな不安となって、胃がキューッとなった。
◇
実行委員会のあと、私は咲良と廊下を歩いていた。
「そういえば、ことはってことわざ苦手だったよね?この前も、『二束三文』を『二足三文』って書いてたし」
「もう、それは言わないで」
頬が熱くなり、思わず早足になった。咲良はカラカラと笑いながら手を振る。
「まあ、せっかく選ばれたんだから。スピーチ頑張ってね」
咲良と別れ、私は重い足取りで図書室へ向かった。
◇
図書室に着いた私は、赤い表紙の『ことわざ・慣用句辞典』を鞄から取り出し、窓際の席に座る。
おばあちゃんの形見の辞典。ページをめくると、おばあちゃんが鉛筆で書いた小さなメモが所々に残っている。
「えっと、まずは有名なことわざから……」
ページをめくる。
『石橋を叩いて渡る』
『犬も歩けば棒に当たる』
「うーん。似ているものが多くて、頭が混乱する」
気づけば、17時を過ぎていた。オレンジ色だった空は、藍色へと変わり始めている。
「やばい、もうこんな時間!まだ全然、覚えられてないのに」
慌てて荷物を鞄に詰め込みながら、思わずため息をついた。
「あー、もう!誰でもいいから助けて。猫の手も借りたい!」
私はスマホで、近隣の『猫カフェ』を検索し始める。可愛い猫ちゃんの手に、癒やされたい一心だった。
図書室を出て、誰もいない廊下を歩いていると──突然、目の前に星屑のような光の粒が現れた。
「え……何、これ?」
光はキラキラと輝き、どんどん大きくなる。蛍の光が集まっていくみたいに。やがて、光は人の形になった。
「えええ!?」
思わず、大きな声が出てしまう。目の前には、黒い猫耳としっぽがついた学ラン姿の男の子が立っている。しかも、見るからに不機嫌そう。
「おい、お前……本気で猫の手が欲しいのか?」
呆れたような、でもどこか優しい声。黒い髪から覗く猫耳はふわふわ、しっぽがゆらゆらと揺れている。琥珀色の瞳が、本物の猫のように細くなったり丸くなったりする。
「ちょっとあなた、どこから出てきたの?もしかして幻覚⁉」
猫耳の男の子は、深いため息をつく。
「幻覚じゃない。俺は『猫の手も借りたい』だ」
「は?」
『猫の手も借りたい』って、ことわざの?頭が混乱して、目の前の現実が理解できない。
『ねこて』と名乗った彼が、私の手から辞典を取り上げる。
「あのなあ。さっきお前が俺の意味を間違って使ったから、俺はここに現れたんだよ」
彼が辞典を開くと、そこに載っていたはずの『猫の手も借りたい』の文字が消えていた。
「ていうか、正確には俺は『慣用句』なんだけどな」
「嘘!?」
「まあ、ことわざと似たようなもんだ」
ねこては続ける。
「俺たちは、長い間人々に使われてきた『言霊』だ」
言霊って、言葉に宿る霊的な力のことだっけ。
「誰かが俺たちの意味を間違えると、辞典から引っ張り出されて、正しい意味を教えなきゃいけない。特に、お前みたいに言葉を大切にしたいと思っている人間には、俺たちが見えるんだ」
『言葉は心を運ぶ』おばあちゃんの言葉が蘇る。
「私が間違えたから?」
震える声で尋ねると彼は頷いた。
ねこては呆れ顔で、私のスマホの画面を覗き込む。そこには、猫カフェの検索画面が。
「お前、本気で猫カフェ探してたよな?」
「だって、猫の手が欲しくて」
「はぁっ!?」
ねこては鼻で笑い、プイッと顔を横に背けた。
「俺の意味は『すごく忙しくて、どんな助けでも欲しい状況』だ。本物の猫の手が欲しいわけじゃない。猫カフェに行ってる暇があったら、さっさとスピーチの原稿を書け」
彼の黒い猫耳が、いらいらしたようにピクピクと動いている。
へえ……本物の猫の手を借りたいって意味じゃないんだ。
そのとき、廊下の窓の外を、一羽の鳥が夕闇の中へ飛んでいくのが見えた。
ねこての目がキラリと光り、気づくと彼は驚くほど軽やかに窓枠に飛び乗っていた。
「本当に猫みたい……可愛い」
私が呟くと、ねこての耳がピクンと反応した。
「か、可愛いとか言うな!」
彼の顔が、耳の先まで一気に真っ赤になる。その恥ずかしそうな姿が、また一段と可愛くて、私の胸がキュンとなった。
「っと、まずい。誰か来る」
廊下の奥から先生らしき足音が聞こえ、ねこては慌てて窓枠から飛び降り、私の背中に隠れた。
「ちょっと!?」
「静かにしろ!俺がいるって、バレたらまずい」
小さく囁くねこて。背中越しに、彼の体温がじんわりと伝わってくる。その距離の近さに、私の心臓はまた激しく鳴り始めた。
足音は近づいて──そのまま通り過ぎていく。
「……行ったな」
ねこてがホッとした顔で、私の背中から離れた。その瞬間、ねこては淡い銀色の光に包まれる。
「お前が正しい意味を理解したから、一旦消える。でも……また間違えたら来るからな」
光の中で、ねこては少しだけ頬を緩めた。
「お前、一人で頑張りすぎるなよ」
「あ、待って!」
ねこては私の言葉を聞かず、銀色の光の粒になって消えてしまった。
辞典を見ると、消えていたはずの『猫の手も借りたい』の文字が、元通りに戻っていた。
まさか、本当にこんなことが……。私は廊下に立ち尽くした。
これが、ことわざ男子……。
◇
翌日の放課後。咲良と下校していると、商店街の角で、大きな買い物袋を両手に抱えたおばあさんが困ったように立ち止まっていた。
咲良が私の袖をキュッと引く。
「ねえ、ことは。手伝ってあげようよ」
私は一瞬、ためらった。スピーチの準備に、使える時間はすべて費やしたい。それに……。
「『情けは人のためならず』って言うし。甘やかすのは良くないんじゃ」
「え?」
咲良が首を傾げた、その瞬間──背後の道端から、温かい陽だまりのような光の粒が現れた。
「ま、また僕が誤解されちゃった……」
光の中から、柔らかな銀髪に天使の輪っかをつけた、穏やかな表情の男の子が出現した。輪っかは淡い金色に光っていて、まるで本物の天使みたい。
彼は出現した瞬間から、しょんぼりとした顔で涙目になっている
「え、うそ!また、違う人が!?」
私は内心パニックになる。もしかして、この子もねこてと同じ……?
「ことは、どうしたの?顔色悪いよ?」
咲良が心配そうに、私の顔を覗き込んでくる。
「な、なんでもないよ!ちょっとお腹が痛くて……先に帰っててくれる?」
咲良は不安そうだったけれど、「気をつけてね」と言って、こちらを何度も振り返りながら歩いていった。
「僕は『情けは人のためならず』」
なさけと名乗った彼は、悲しそうに肩を落とす。
「僕の本当の意味は……『人に親切にすれば、巡り巡って、その良い行いが自分に返ってくる』なんだ」
「えっ、逆だったの!?」
てっきり、「甘やかしは相手のためにならない」と思い込んでいた。
「うん、みんな『甘やかすのは良くない』って意味だと勘違いするんだ。僕、本当は優しさを伝えたいのに……誤解されて、悲しい」
なさけの瞳に、大粒の涙が浮かんでいる。彼の純粋な悲しみに触れて、私の胸も痛くなった。
「ご、ごめんなさい!私、間違った意味で使っちゃってた」
なさけは、小さな子どものように震える声で言った。
「いいんだ。君が、本当の意味を知ってくれて嬉しい……あっ」
そのとき、なさけが道端に落ちていた小さなゴミに気づいて、しゃがみ込んだ。彼はそっとゴミを拾い上げ、近くのゴミ箱に捨てた。
「誰も見ていないのに……」
なさけが振り返って、優しく目を細めた。
「優しさは、誰も見ていなくてもするものだよ。見返りを求めず、自然と親切にできる。それが本当の優しさだと、僕は思うんだ」
その言葉が、温かい光のように私の胸に沁み渡った。この子は、本当に優しさの塊なんだ。
なさけが私の手を優しく握る。彼の手は、春の陽だまりみたいに温かい。
「さあ、行こう。おばあさんの荷物、一緒に運んであげて」
「うん!」
それから、私はおばあさんに声をかけ、荷物を家まで運んだ。
「ありがとう。本当に助かったわ。これ、良かったら」
おばあさんが感謝の気持ちだと言って、玄関先で手作りのクッキーをくれた。
「あなたにお礼よ」
紙袋に入ったクッキーは、まだ温かかった。優しさが、そのまま形になったみたい。
なさけが、にこやかに微笑む。
「ほら、優しさは自分に返ってきたでしょ?温かい気持ちとクッキーで。これが『情けは人のためならず』なんだよ」
そして、彼は陽だまりが薄れていくように、淡い金色の光に包まれて消えていく。
「また会えるといいね、ことはちゃん」
「うん。ありがとう、なさけくん」
光が消えると、私はクッキーをそっと抱きしめた。
◇
夜。私は自分の部屋の机に向かい、スピーチの原稿を書いていた。だけど、ことわざの難しさに、何度も書き直してしまう。
「うーん、この書き方で合ってるのかな?」
机の上には、くしゃくしゃに丸めた紙の山ができていた。時計を見ると、もう22時を過ぎている。
「うう、全然うまく書けない。やっぱり、私には無理なのかな……」
不安と焦りで、涙が溢れそうになる。
「おばあちゃん、ごめんなさい……約束、果たせないかもしれない」
小さく呟いたそのとき──ノックの音がした。
「姉ちゃん、まだ起きてるの?」
「!」
弟の文哉の声だ。ドアが開き、小学6年生の文哉が顔を出す。
文哉は私と違って、いつも冷静沈着で学校の成績も良い。物事を客観的に見る観察力が鋭く、時々大人びたことを言って私を驚かせる。
国語が得意で、私が知らないような難しい言葉もよく知っているんだ。
「うわ、部屋めちゃくちゃじゃん。姉ちゃん、七転八倒だね」
「七転八倒……」
私がその言葉を口にした瞬間──また、光が現れた。
今度は一瞬の閃光とともに、赤髪短髪のスポーツマンのような爽やかな男の子が出現した。左頬には絆創膏が一枚。
「おい!俺は『七転び八起き』だ!『七転八倒』じゃない!」
彼は、ピシッと私を指差す。力強い瞳は、燃えるように輝いている。
「えっ!?」
文哉が不審そうに、私を見た。
「姉ちゃん?どうしたの?」
「な、なんでもない。ちょっと独り言!私、もう寝るから、早く部屋に戻って!」
「変な姉ちゃん……」
文哉は首を傾げたまま、部屋を出て行く。
「急がば回れって言うし。無理しないでね」
ドアが閉まる直前、そんな言葉が聞こえた気がした。
文哉が去ったあと──七転び八起きが腕組みをして、私に鋭い視線を向けた。
「危なかったな。弟には、俺の姿は見えていないようだが」
「ごめんなさい、また間違えちゃって」
七転び八起きは、フッと息を吐く。
「気にするな。それより、『七転八倒』と俺を間違えたな?七転八倒は『苦しみもがくこと』俺の意味は『何度失敗しても、その度に立ち上がること』だ」
「そうなんだ。全然意味が違う……」
私は落ち込んだ。間違えるたびにことわざ男子が現れる。自分が情けなくて、目頭が熱くなる。
「ことは……」
七転び八起きが一歩踏み出した、その瞬間……よろけた。
「わ!」
彼は、つまづいて転んでしまった。だが、すぐに体勢を立て直す。
「よっと!」
爽やかに、何事もなかったように微笑む彼。
「ほら。転んでも、こうやってすぐに立ち上がればいいんだ」
「え、もしかして今の……わざと?」
七転び八起きは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「い、いや……俺、ちょっとドジで、転びやすいんだ。この絆創膏も、さっき転んだときのやつなんだ」
「ふふっ」
緊張していた心が解け、笑みがこぼれる。
「俺の正式名称は『七転び八起き』だけど、長いから『ななころ』って呼んでくれ」
「ななころくん……可愛い名前」
「か、可愛いとか言うなよ」
ななころの顔が、りんごみたいに赤くなる。
「でもな」
ななころが真剣な顔で続ける。
「転んだ回数より、立ち上がった回数のほうが多ければ、それは成功なんだ」
彼の言葉が、私の胸に響く。
ななころは、机の上に山になった紙くずを見つめる。
「お前、その原稿、何回書き直した?」
「えっと、10回ぐらい?」
ななころが私の顔を見つめる。
「じゃあ、11回目を書けばいいだろ?転んだのは10回。でも、立ち上がるのは11回だ。その1回の差が、お前を前に進ませるんだ。さあ!」
ななころが、私を励ますように肩を強く叩いた。
「お前は、このまま諦めて逃げたいのか?」
「嫌だ。諦めたくない」
「なら、もう一回立ち上がれ。何度でもだ!お前なら、きっとできる」
私は涙を拭った。熱いものが、込み上げてくる。
「私、もう一回、頑張ってみる」
「えらいぞ。その意気だ!」
ななころが太陽みたいな笑顔になる。そして、光に包まれ消えていく前に、またしても足をもつれさせた。
「わっと!」
だけど、またすぐに立ち直る。
「ななころくん、本当に七転び八起きなんだね」
ななころが照れ笑いする。
「へへっ、まあな。何度転んでも、俺は立ち上がるぜ!」
光が燃える炎のように強く輝き、彼は姿を消した。私は新しい紙を取り出し、ペンを握りしめる。
ペンを動かしていると、不思議と怖くなかった。おばあちゃんの声が、背中を押してくれている気がする。
『ゆっくり覚えていけばいいのよ』
私はノートに、今日覚えた言葉をまとめる。
【①猫の手も借りたい=すごく忙しい時、どんな助けでも欲しい状況。
②情けは人のためならず=人に親切にすれば、巡り巡って自分に返ってくる。
③七転び八起き=何度失敗しても立ち上がること。】
それぞれの言葉に、ねこて、なさけ、ななころの顔を描いた。
ありがとう、みんな。おばあちゃん、見ててね。私、頑張るから。微笑むと、私はベッドに入った。
◇
翌朝、朝日が差し込む部屋で目が覚めた。不思議と体が軽い。
「よし、今日も頑張ろう」
スマホを見ると、文化祭実行委員会から通知が来ていた。
「ん?何だろう」
スマホの画面を開く。
『【重要】スピーチ発表の変更のお知らせ
スピーチの発表時間が、5分から10分に延長されました。
それに伴い、紹介すべきことわざ・慣用句の数を3つから10個以上に増やしてください。
また、当日は保護者の方に加え、教育委員会の方々が審査員として来校されます。
最優秀発表者は、市の広報誌に載ります。』
私はスマホを握りしめたまま、固まった。う、嘘でしょ……。
顔から血の気が引いていく。少しして、咲良からメッセージが届いた。
『ことは、大丈夫?いきなり10個なんて、ひどすぎるよ!』
「ほんと……3つでも大変だったのに、10個なんて無理!やだやだ、逃げたい!隠れたい!」
私は自分が何を言っているのかも分からないまま、無意識に叫んだ。
「猫の手も犬の手も、誰の手でも、どんな助けでも借りたいっ!」
その瞬間──部屋中に、オーロラのような七色の光の粒が現れた。
一つ、二つどころではない。キラキラと輝く光の粒が、夜空の星が降り注ぐように私の部屋を満たしていく。
「まさか、また……?」
光の粒は壮大な花火のように広がり、複数の声が重なって響いた。
「俺たちを呼んだな?」
光の中から、次々と人影が現れ始める。
「ことは。また会ったな」
ニヤリと口角を上げ、不敵に笑うねこて。
「呼ばれたからには、全力でサポートするぞ」
力強く胸を張るななころ。
「僕も来たよ。君の力になりたかったんだ」
穏やかに微笑むなさけ。
私は言葉を失った。部屋の中に、ことわざ男子が3人も。
「こ、こんなにいっぺんに来るなんて、聞いてない!」
汗だくになる私を見て、ねこてがため息をつきながらも口元を緩める。
「お前が『誰の手でも借りたい』って、強く願ったからな」
ななころが得意げな顔で言う。
「そうだぜ。俺たち全員で、お前の挑戦を受けるんだ」
なさけが、その場に座り込みそうな私を気遣うように優しく微笑む。
「僕たちが、ことはちゃんを全力でサポートするよ」
「みんな……」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「姉ちゃん、さっきから変な声が聞こえるけど……誰か来てる?」
文哉の声だ。
「やばい。弟が!」
ドアノブが回る音がする。どうしよう、このままじゃバレちゃう。
ことわざ男子たちも、一斉に慌てだす。ねこてが窓枠に飛び乗り、ななころがクローゼットに向かって走る。
「わっ!」
だけど、いつものようにつまずいた。
「ちょっとみんな、落ち着いて!」
なさけが優しく声をかける。その声で、私も冷静さを取り戻した。
「姉ちゃん、入るよー?」
「ちょっと待って文哉!今、着替えてるところだから!」
ドアが開く寸前──私は必死に叫んだ。
「そっか。わかった」
文哉の足音が遠ざかっていく。
「ふう、危なかった……」
ねこてが窓枠から降りながら、ホッと息をつく。
「ナイス判断だったぜ!」
ななころが親指を立てる。
「助かったよ、ことはちゃん」
なさけが、心底安堵したように息を吐いた。
私は力が抜けて、へなへなと座り込む。
「なあ、ことは」
ねこてが真剣な顔つきで口を開く。
「これから、俺たちが本気でお前を鍛える」
「ああ。10個のことわざ、絶対マスターさせるぞ!」
ななころが、力強く拳を振り上げる。
「僕たちが、君の先生になるよ」
なさけが優しく微笑む。
みんなが私を?
「分かった。私、頑張るよ。これからよろしくお願いします!」
ことわざ男子たちが笑顔になった。ねこてが私のノートを開く。
「まず、俺たち3人の意味はもう理解したな?」
私は頷く。
「それじゃあ、あと7個覚えればいい」
「でも、ただ覚えるだけじゃ、また間違うぞ。ちゃんと使えるようにならないと意味がない」
ななころが腕組みして言う。
「だったら、みんなで一緒にことはちゃんのそばについて教えていくのはどう?学校とか、生活の場面でさ」
なさけの提案に、私は目を丸くする。
「まあ……お前一人じゃ、正直心配だしな」
ねこてが視線を外しながら言う。
「俺たちが側にいれば、間違えたときはすぐに教えられる」
ななころが笑顔で続ける。
「ありがとう、みんな」
私は涙を拭って、笑顔で頷いた。
「いいか?俺たちは、お前がことわざの意味を間違えたときだけ現れる。でも、ことはが本気で『助けて』と強く願えば、いつでも来るから」
ねこての唇が、弧を描く。
「一人じゃないよ、ことはちゃん」
なさけも、笑顔で言ってくれる。
「ありがとう、みんな。改めてよろしくね」
ねこての耳がピクッと動いた。
「また誰か来る」
「え!?」
廊下から再び足音が聞こえる。やがて、私の部屋のドアの前で止まった。
「姉ちゃん、ちょっといい?」
ドア越しに、文哉の声が聞こえた。
「な、なに?」
まさか、戻ってくるなんて!
「さっき、男の人の声が聞こえたんだけど……」
「き、気のせいだよ」
「本当に?昨日の机の紙の山も……姉ちゃん、無理してない?」
「本当に大丈夫だよ。私、七転び八起きだから」
沈黙のあと、文哉が静かに口を開いた。
「そっか。石橋を叩いて渡るのもいいけど、叩きすぎて進めなくならないようにね」
背中がゾクッとした。ことわざ男子たちも顔を見合わせる。
「今、弟が『石橋を叩いて渡る』を使ったな」
ねこてが小さく呟く。
「ああ。しかも、自然に応用している」
ななころが、少し驚いた顔で頷く。
「もしかして……文哉くんも、ことわざに詳しいのかな?」
なさけが心配そうに眉を下げた。
「その可能性はある。特に、お前の家族なら……言葉を大切にする気持ちを、受け継いでいるのかもしれない」
ねこてが腕組みする。
「今は大丈夫そうだが、弟が俺たちの存在に気づく可能性もある。気をつけろよ」
文哉の足音が遠ざかっていく。
「みんなで一緒に、この試練を乗り越えよう、ことはちゃん」
なさけが、優しく目を細めた。
そのとき──3人の体が、再びゆっくりと光に包まれ始めた。
「そろそろ時間だ。俺たちは、一旦元の場所に戻らないといけない」
ねこてが静かに告げる。彼の周りの光は銀色の粒子となり、上へと舞い上がっていく。
「困ったときは、呼べよ。俺たちは、いつでもお前のそばにいるから」
「転んでも立ち上がれ!ことはなら、絶対できる」
ななころが、燃えるようなオレンジ色の光の中で、拳を力強く突き出した。
「ことはちゃんの優しさと、言葉を大切にする心があれば、きっとスピーチは成功するよ。頑張ってね」
なさけが、柔らかな金色の光を残して最後に微笑む。そして、3人の姿が光の粒になって消え、部屋には静寂が戻った。
「ありがとう、みんな……」
私はノートを開き、3人の顔の落書きをそっと撫でた。もう、一人じゃない。
私は窓の外を見つめる。朝焼けの空は、希望の光に満ちていた。まるでねこてたちが、おばあちゃんと一緒に私を見守ってくれているみたい。
──おばあちゃん、見ててね。私、これから頑張るから。
部屋のドアを開けると、文哉の部屋から微かな光が漏れているのが見えた。
ことわざ男子たちが辞典から出てきたときの、あの光に似ている。
私が手をドアノブにかけようとした瞬間、光は消えた。
「……気のせい?」
そのとき、私のスマホが再び鳴った。見知らぬ番号からのメッセージ。
不審に思いながらも、メッセージに目を通す。
『ことわざの力を知る者へ。
汝に試練を与える。──言の葉』
手が震える。
“言の葉”って誰?そう思ったとき……机の上の辞典が、突然パッと音を立てて開いた。
開いたページに、金色の文字がゆっくりと浮かび上がる。
『学校に着いたら、この辞典を開け。すべてが始まる』
そして、文字はゆっくりと消えていった。
「何なの、これ……」
窓の外に目をやると、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。
「この先、何が起きても……私は前に進む。みんなと一緒に」
辞典を抱きしめ、私は決意を新たにする。
私とことわざ男子たちの、七転び八起きな日々が今、始まろうとしていた。


