声にならない、さよならを

第14章 「それでも、名前を呼びたかった」

夕方、校庭に長い影が落ちる。風が少し冷たくなってきて、季節が変わりつつあることを知らせていた。
柚李は、図書準備室の鍵を閉めながら息を吐いた。今日は委員会の仕事で帰りが遅くなった。けれど、その理由の半分は、蒼士のことが頭から離れなかったからだ。
――どうして、あんな顔するの。
昼休み。たった数分だけ交わした会話。
蒼士はふとした瞬間、言葉にできない感情を飲み込むみたいに視線を逸らした。
“優しい先輩” のままなのに、その奥に、苦しさみたいな色が確かにあった。
そして今日。
廊下の向こうから歩いてきた春斗と目が合った。
同級生の彼は、いつものように明るく笑っていたのに――どこか少しだけ、ぎこちなかった。
その理由も、柚李には痛いほどわかっていた。
ふたりとも、自分に向けられた想いを隠している。
そして自分自身も、ふたりのどちらに対しても、まっすぐ答えを出せていない。
「はぁ……」
柚李は自分の頬を軽く叩いて歩き出した。
その瞬間――
「柚李」
低い声。
振り向くと、そこに立っていたのは蒼士だった。
黒いジャケットの襟元を無造作に指で触れ、少し息を整えている。
走ってきたのがわかる。
その姿だけで胸がぎゅっと締め付けられた。
「先輩……?」
「渡したいものがあって。いや、違うな……渡さなきゃ、って思った」
彼はバッグの中を探り、小さな封筒を出す。
白いけれど、端が少し折れていて、何度も悩んだあとが残っている。
「これ、何ですか」
「お前が言ってた本。絶版で見つかりにくいって言ってただろ。たまたま古本屋で見つけた。……いや、たまたまじゃないな。探したんだ。ずっと」
声音が少しだけ震えていた。
「どうして……そこまで」
柚李の問いに、蒼士は視線を落とす。
「どうしてだろうな。……俺にも、わかってる。わからないフリしてるだけだって」
夕日の逆光で、蒼士の表情が読めない。
「柚李。俺は……」
その言葉が続く前に、背後から走ってくる足音が響いた。
「柚李!迎えにきた!」
春斗だった。
息を切らしながら近づいてくる。
蒼士は一瞬だけ、目を細めた。
春斗も、蒼士を見て、その表情が引き締まる。
「……先輩、ありがとうございます。俺が柚李を送ります」
「そうか」
蒼士はそれ以上何も言わなかった。
ただ微かに笑い、柚李に向けて小さく “またな” とだけ囁いた。
その言い方が、あまりにも優しく、あまりにも遠かった。
蒼士の背中が夕日に溶けるように遠ざかる。
柚李の胸は痛みでいっぱいになった。
「……泣きそうな顔してる」
春斗が隣で呟いた。
「泣いてないよ」
「でも、蒼士先輩のこと、気になってるでしょ」
柚李は立ち止まった。
否定しようとして、できなかった。
「春斗は……どうしてそんなこと言うの」
春斗は俯いて笑う。
「俺、自分の気持ちくらい隠すつもりだったんだよ? でも……無理だった。柚李が、あの人を見る顔が、普通じゃないの知ってるから」
その声は、蒼士よりもずっと幼くて、だけど真っ直ぐだった。
「俺だって……柚李の名前、呼びたいよ。本当はもっと呼びたいよ」
柚李の心の奥に、二つの痛みが同時に広がる。
蒼士が言えなかった “言葉の続き”。
春斗が言ってくれた “名前に込めた想い”。
どちらも大切で、どちらにも応えられない。
「……ごめん、春斗」
そう言った瞬間、風が吹いて髪が揺れた。
夜の気配が近づいていた。
届かない想いを抱えているのは、自分だけじゃない。
蒼士も、春斗も、そして自分も。
誰も悪くない。
それでも――誰かが傷つく。
柚李は空を見上げた。
曖昧な雲が、夕闇に溶けていく。
この恋は、どこへ向かうのだろう。
そして最後に立つ場所は、どちらの隣なのだろう。
答えはまだ、どこにもないまま。
< 15 / 21 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop