隣の彼はステイができない
* * *

 一昨年、ひとりでロンドンを旅行した際に、美術館で買ったミレーのオリーフィアが描かれたお気に入りのマグカップに、熱い湯をとぷとぷと注ぐと、ジンジャーのスパイシーな香りが広がった。一華は笑みを浮かべて琥珀色になるまでティーパックを揺らした。
 サイドテーブルへ持っていき、ベッドに座りひと口飲む。舌に感じるピリリとした生姜の味にほんのり甘い蜂蜜の香りが混ざり合う。一華はほうっと息を吐いた。
 時刻は午後十一時、ぴったりとカーテンを閉じた自分のマンションの寝室にて、パジャマに着替えた一華は、寝る準備万端である。
 社会人としては早めだが、一華はなるべく毎日この時間にベッドに入るようにしている。実家にいた頃の規則正しい生活が身に染み付いているからか、はたまたロングスリーパー体質なのか、これより遅い時間に寝る日が続くと体調を崩してしまうからだ。
 ベッドに入るとすぐに眠気がやってきて、あっという間に夢の中だ。
 とはいえそれはトモが亡くなるまでの話。
 トモがいなくなってからは、ベッドに入ると寂しい気持ちを思い出しよく眠れないことが続いている。
 ジンジャーティーは今日の終業後、歩と行った深夜喫茶で彼からもらったものだった。
『安眠効果があるんだって。担当の弁護士さんからおしえてもらったんだ。生姜が苦手じゃないならためしてみて』
 ゆっくりと飲み終えると、カップをサイドテーブルに置いて横になる。金色の毛並みのゴールデンリトリバーのぬいぐるみと目が合った。
 これも今日、歩からもらったものだった。
『クレーンゲームで獲れたんだよ。一華ちゃんにどうかなと思って持ってきた。手触りが俺の髪に似てる気がするから一緒に寝てたら、寂しくないんじゃないかな。ぬいぐるみセラピーって言葉もあるくらいだし』
 確かにさらふわの毛並みと真っ黒いつぶらな目は小さな頃のトモにそっくりだ。
『気まぐれにやってみたら獲れただけだから、お金もかかってないし気にしないで。ちびトモちゃんって呼んでよ』
 歩の言葉に甘えて連れて帰ってきたのだ。
 抱きしめて顔を埋めると、さっきまで抱いていた今夜も眠れなかったらどうしようという恐れにも似た気持ちがふっと解けていく。心も身体もぽかぽかとあたたかく感じるのはジンジャーティーを飲んだからだろうか。
 あれから、歩と会ったのは二回。先週の水曜日と、今日。
『しんどい時は誰かに頼っていいんだよ』
 思えば誰かからそんなふうに言われたのは、はじめてだったように思う。
 実家は地元では大きな寺で、両親は厳しい方だった。
 とりわけ、人に迷惑をかけるな、自立した人間になれということを口を酸っぱくして言われ続けた。
 おかげで自立心が育ったし、しっかりしているとよく言われる。それは今の仕事にも生かされてはいる。
 自分に課せられた責任は果たしたいし、自分の足で立っていたい。
 むやみやたらと誰かに頼りたくはない。
 それが自分なのは確かだけれど、時にはなにかに無条件に甘えたいと思う部分があるのも確かで、そんな自分でいられたのがトモの前だった。
 柔らかな感触を頬に感じるとまるでトモがそばにいるようだ。
 ぬいぐるみを自分の部屋へ置くなんて、いつぶりだろう。
 今時大人でも男性でも、ぬいぐるみを持っている人は珍しくない。
 それでもなんとなく一華が部屋に置かなくなったのは、両親に言われた言葉がきっかけだ。
 兄が中学に上がると同時に部屋を分けることになった時に、『もう小さな子じゃないからいらないよね。一華はしっかりしてるもんね』と言われて、頷いたのが最後だった。
 それ以来なんとなく抵抗があり可愛いと思っても買うことはなかった……。
 今夜の歩も、たくさん話をしていた。相変わらず表情はくるくると変わり、どんな話題も楽しそうに。
 一華と話すようになってから、彼も徳積みに励んでいるようで、その話を聞くのも楽しかった。
 やや判定が甘いのが面白くて、それは違うあれはそうだとあれこれ言い合う。競い合うものではないと思いつつ楽しくて今日はたくさん笑ってしまった。
 彼の話は、聞いていると少し心が軽くなる。
 歩が担当する法律事務所の人たちが、一華の訪問対応を喜んでいたという話も、嬉しかった。
 担当ではないクライアントの対応は難しい。どういう事件を扱っているのか、ソフトについてどのくらいの知識があるのかがわからないからだ。いつも少し緊張するけれど、役に立てたのならとても嬉しい。
 これからもがんばろう。
 ちびトモに頬ずりをしながらそんなことを考えて目を閉じると、心地のいい眠りがやってきた。
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