隣の彼はステイができない
この気持ちの正体は?
二両編成の赤い電車に乗り込むと、乗客は一華だけだった。
車窓から見えるのは、田園の中にポツポツと住宅が点在しているのんびりとした田舎町。一華が生まれた育った街だ。
適当な座席に腰を下ろすとベルが鳴って電車はゆっくりと動きだす。タタンタタンと一定のリズムを身体に感じながら一華はふうと息を吐いた。
土曜日の今日実家に帰っていたのは、母親からの要請である。
実家の寺は、兄夫婦が継ぐ予定で、すでに同居し両親を手伝っている。だが檀家が多く手が回りきらないこともあり、そういう時は連絡が入るのだ。
今日は家族みんなに用事があり、午前中から昼過ぎまで家が無人になるから留守番をしてほしいと頼まれた。檀家の人がいつ訪ねてくるかもわからない寺を留守にするわけにはいかない。
人影のない田舎町はどこか物悲しい。
実家からひとり暮らしのマンションに戻る時に、ほっとするようになったのはいつからだろう。
昔から、早く自立するようにと言われ続けて、その通り就職を機にひとり暮らしをはじめた。その頃から、実家をあまり自分の家だとは感じなくなった。
昨年から兄夫婦が同居するようになったから尚更だ。
何不自由なく育ててもらったことは、ありがたいと思うけれど、帰るとどこか疲れてしまう。
最近は帰るたびに、いい人はできたのか、そろそろ結婚したらどうだと圧をかけられるのがしんどかった。
『都会にいるんだから、いい出会いもいっぱいあるでしょうに』
母の言葉は、娘の幸せを願っているのもあるだろうが、近所の手前、いつまでも娘が独身でいることを外聞が悪いと思っているのも透けてみえる。
現に今日も両親の留守中に、お茶を飲みにやってきた檀家の女性に説教をされた。
『都会で働いてるからって、いつまでもひとりなんてダメよ、一華ちゃん。女はね、嫁いで子供を産んで一人前なのよ。早くいい人見つけてお父さんとお母さんを安心させてやりなさいね』
所詮ただの雑談だ。この辺りでは挨拶みたいなものだけれど、モヤモヤするのを止められない。
小さな頃から、人に迷惑をかけないように、自立しようと努力してきた。
結果ちゃんと独立して、ひとりで生きている。
それなのに、なぜ結婚していないというだけで、半人前だと言われなくてはならないのか……。
加えて今回の帰省は、トモの姿がなかったということも一華の気持ちを暗くした。トモが使っていたお皿やゲージが綺麗に片付けられていて、改めて彼がいなくなったことを実感する一日だった。
トモがいなくなった今、今日のように用事がなかったら、もう実家に帰ることは減るかも。
ゆったりと走る電車に揺られて、流れる景色を見つめながら気持ちが落ちていく。
——せっかくここのところ寝られるようになったのにな。
歩との時間と、ぬいぐるみのちびトモのおかげで、睡眠不足は随分と解消した。もちろんまだ寂しいけれど、あのどうしようもない喪失感からは抜け出したと感じている。
だからこそここで憂うつな方に気持ちに引っ張られるのは嫌なのに……。
このままではダメだ、気分を立て直そうと、無理やりにでも楽しいことを考える。
そうだ明日は日曜日なのだから、久しぶりにお気に入りのブックカフェに行こう。買ったまままだ読めていない話題のミステリーに手をつけよう。
それか、博物館で前々から見たいと思っていた企画展に足を運ぼうか。
と、そこでカバンの中のスマホが震える。確認するとメッセージアプリからの通知だった。
ポップアップに表示された"加藤歩"の文字に、沈みかけていた一華の心がふわっとなる。すぐにメッセージをタップした。
《一華ちゃん、帰省お疲れ。もう戻ってくる頃かな? 昨日はよく眠れた?》
一華の中でもはや彼のマイキャラとなりつつあるゴールデンリトリバーが『こんにちワン』と言っているスタンプ付きだ。
歩が一華の今日の予定を知っているのは、金曜日の夜に会わないかと誘われて断ったからだ。朝一から留守番だったから、金曜日の夜に実家に戻らなくてはならなかった。
《今実家からの戻り。大丈夫、寝られた》
うさぎのキャラが『ありがとう』と言っているスタンプを添えて返信する。社外で会う回数を重ね、ようやく敬語を外して話ができるようになった。
《よかったー。ちょっと心配してたんだ》
その言葉に、一華はふっと笑みを浮かべた。
本当に優しい人だ。
忙しいはずなのに、こうして気にかけてくれるのだから。
そこでふと一華は、自分がペットロスから立ち直りつつあることを伝えた方がいいだろうかと考える
長く心配をかけるのは申し訳ないし、いつまでも迷惑をかけ続けるわけにはいかないのだから。
そうだそうしようと、メッセージを打ちかけて、けれどその指は止まってしまう。
一華がペットロスから立ち直ったら、もうこうやって彼とやり取りすることはなくなるのだ。そのことが頭に浮かび、どうしてかメッセージを打つのを躊躇した。
どうしてだろう?
彼とのやり取りが、一華が元気になるまでの暫定的なものだということはわかっていたはず。
彼と会わなくなったら、またプライベートのすべての時間をおひとりさま時間に使えるのに。
やっぱりまだ、完全に傷が治っていないということだろうか?
考えているうちに時間がたち、歩の方から重ねてメッセージが届く。
《大丈夫だったらいいけど。でも一華ちゃんのことだから、無理してそうではあるなー》
今度は疑わしそうに、こちらをじーっとみるリトリバー。
一華は思わずふふっと笑って、それに対する答えを打つ。
《ちびトモを連れていったから。そしたらちゃんと寝られたよ》
《おー! やるじゃんちびとも。ちっちゃいのにいい仕事する》
《とっても優秀。癒し効果は絶大》
《いやでもあいつは俺の弟子だからね? 本家の癒し効果は全然違うから!》
本家の癒し効果の方が絶大というのはその通りだ。直接会って、話をしなくてもメッセージのやり取りだけで、心がほぐれている。
実家で感じた憂うつな気持ちはすっかり晴れた。
《本家の方がいいってなってない? なってるでしょ?》
今度は、しゅんとするリトリバーのスタンプ。
それが、一華が忙しい時に遊んでもらえなかった時のトモと重なる。さらには歩を思い出して、またふふっと笑ってしまう。
ふと思い立って、一華は、今自分が感じている素直な気持ちをメッセージとして打ってみる。
《うん、ちょっと足りないかも。今週会えなかったのは残念だった》
じっと見つめて、やっぱりそうだよね、と確認する。もちろん送信ボタンは押せないが、そう思っているのは確かだった。ただ、なぜそう思うのか?についてはわからなかった。
ペットロスから立ち直りつつあるなら、一華にとってひとりで静かに過ごす時間に勝るものはないはずなのに、彼との時間がなかったことを残念に思っている。
これからもその時間を持ちたいと望んでいる。
やっぱりまだ傷は癒えていないということだろうか?
なんだろうこの気持ちは、と疑問に思いながらメッセージを消そうとした時。
ルルルルルと、電車の発車音が鳴る。ハッとして顔を上げると、いつの間にか電車は、地下に潜り込んでいる。しかも乗り換えの駅だった。
急いで立ち上がり、慌てて電車を降りる。
プシューと後ろでドアが閉まる音を聞きながら、危なかったと胸を撫で下ろした。あと少しで乗り過ごすところだった。
車内放送が耳に入らないくらい歩とのメッセージのやり取りに夢中になっていたなんて、自分でも驚きだがとにかく気がついてよかった。
そして手にしていたスマホの画面を見て、血の気が引く。
さっきためしに打った送るつもりのないメッセージを送信してしまっている。慌てて降りた時に指が当たってしまったのだろう。
しかもすでに既読の文字がついている。
どうしよう⁉︎
走り去る電車の風圧を感じながら、一華はその場に立ち尽くす。頭の中はプチパニック状態だ。
今自分の中にある素直な気持ちではあるけれど、伝えるべきではない言葉だ。
やり取りの流れ的には、《トモちびちゃんで十分だよと冗談で返すのが正解だったのではないだろうか。
それなのにいきなりマジモードのメッセージを送ってしまった。しかもちょっと内容重め……。
間違いで送ったのだと伝えなければと慌てながら画面を見つめる。けれどどう入れればわざとらしくなく冗談にできるのかまったく文面が浮かばなかった。
降りたホームの脇に避けて画面を見つめて考えていると、そのスマホがブルッと震える。
歩からの着信だ。
え⁉︎ なんで着信?と、さらにパニックになるけれど、出ないわけにはいかない。
「も、もしもし……」
『一華ちゃん?』
「は、はい」
『今、通話しても大丈夫?』
「大丈夫。今乗り継ぎの駅なので……」
『そう、いきなり電話してごめんね? べつに用事があるわけじゃないんだけど、なんか、脊髄反射で通話ボタン押しちゃった。嬉しくてもう今すぐに直接話さないとーって』
いつもの軽くて明るい声に一華はホッと肩の力を抜く。
『あ、もしかしてこの次の電車の時間が迫ってたり?』
駅のアナウンスに気がついての問いかけに、一華は慌てて「大丈夫、ここからは本数あるし」と答えた。
とっさに頭に浮かんだのは、ここで電話が終わってほしくないということ。思いがけず彼と話ができることを嬉しく思っている自分がいる。
もう少しこのまま話をしていたい。
『そう? ならいいけど』
スマホの向こうで歩が笑った気配がした。きっといつもの優しい笑顔を浮かべているのだろう。
『いやー、いくら嬉しかったとはいえ、いきなり通話とか、さすがに迷惑だったかなと反省してます』
冗談ぽくそう言う彼に、一華は胸をキュッと絞られるような心地がした。
迷惑だなんてとんでもない話だ。声が聞けて、少し話をしただけで気持ちがとても明るくなった。
実家で感じた憂うつな気分を持ち帰ることなく帰宅できそうだ。
『なんかごめんね、戸惑うよね』
うまく答えられない一華に、彼はいつもの通り明るく話している。
唐突に一華は謝らないでほしいと強く思った。
思ったことを言葉にするのは少し苦手で、いつも口にする前にあれこれ考えてしまう癖がある。
けれど今は伝えたい。ポジティブな思いをそのまま口にする彼を見習って。
「謝らないで。迷惑なんて思わない」
『……そう?』
勢い込んだ一華の言葉は、少し不自然だったのか、歩がやや不思議そうに答えた。
「歩くんと話をすると元気になれるから。私、本当に今週会えなかったの残念だった。今日、実家に帰って、トモがいないのを実感して、ちょっと寂しくなってたけど、電話してくれて元気になった。ありがとう」
言いながら頬が熱くなるのを感じた。
こんなふうに率直に自分の思いを口にするのは、いつぶりだろう。
恥ずかしいし慣れないけれど、キチンとお礼が言いたかった。
きっとすぐに明るい声が返ってくる。けれど予想に反して歩の方は無音になる。
「……歩くん?」
『うん、いや、なんだろ』
ちょっと掠れたような声がした。
『うん、なんか、めっちゃ嬉しい』
いつものハイテンションではなく、どこか照れたような低い声だ。
『なんていうか、……うん。そうやって真剣にお礼を言ってくれるのがさ。新鮮で、なんか……嬉しい。や、こっちがお礼を言いたいくらい』
「変なこと言ってごめん」
『いや、謝らないで。マジで嬉しいから。てかさ、足りないなら、やっぱり会お! 明日はどう? 一華ちゃんもうこっちに帰ってきてるんでしょ』
「え? うん。だけど、あの、あまり気にしないで? 歩くん忙しいだろうし」
『いや、気にしてるってわけじゃないけど、そう言われたら俺も会いたいし。あ、でもあれか、今日実家に行ってたってことは、ひとり時間が足りてない? なら会うのはちょっとしんどい感じ?』
「そんなことはないっ」
思わずそう遮って、一華は自分で自分に目を丸くする。
さっきまでブックカフェに行こうと思っていたはずなのに、そっちはまた今度でいいという気分だった。
彼と一緒に過ごしたい、そう思っている自分がいる。
「あ……め、迷惑じゃなかったら、の話だけど」
『迷惑だったら誘わないよ。じゃさ、せっかくだし昼間に会おうよ。もちろん一華ちゃんが疲れてきたら、いつでも解散していいから。俺はトモだからね、そこは遠慮なく言ってください。行先も、一華ちゃんが行きたいところに行きましょう』
昼間からという話に驚くけれどすぐに、太陽の日差しのもと彼と過ごす一日も楽しそうだと思った。
「いいの?」
『もちろん。じゃあ、十時待ち合わせで』
彼はふたりのマンションがある駅の中間にある大きな駅名を告げる。
『じゃ、明日』
明るい声に頷くと、しばらくして通話が切れ、再びメッセージのやり取りの画面に戻る。
一華は少し信じられない気持ちで見ていた。だって、間違えて送ったメッセージから、こんな展開になるなんて。
明日は久しぶりに外出してのひとり時間を楽しもうと思っていた。その計画がなくなったことをちっとも残念に思っていない。それどころかついさっきまで憂うつな気分で電車に揺られていたのが信じられないくらいうきうきとしている。
メッセージアプリを見つめていたらぽんと鳴って再びスタンプが現れる。
『楽しみだワン』と言っているゴールデンリトリバーのスタンプだ。
目を輝かせるリトリバーに、一華はふふっと笑みを浮かべた。
車窓から見えるのは、田園の中にポツポツと住宅が点在しているのんびりとした田舎町。一華が生まれた育った街だ。
適当な座席に腰を下ろすとベルが鳴って電車はゆっくりと動きだす。タタンタタンと一定のリズムを身体に感じながら一華はふうと息を吐いた。
土曜日の今日実家に帰っていたのは、母親からの要請である。
実家の寺は、兄夫婦が継ぐ予定で、すでに同居し両親を手伝っている。だが檀家が多く手が回りきらないこともあり、そういう時は連絡が入るのだ。
今日は家族みんなに用事があり、午前中から昼過ぎまで家が無人になるから留守番をしてほしいと頼まれた。檀家の人がいつ訪ねてくるかもわからない寺を留守にするわけにはいかない。
人影のない田舎町はどこか物悲しい。
実家からひとり暮らしのマンションに戻る時に、ほっとするようになったのはいつからだろう。
昔から、早く自立するようにと言われ続けて、その通り就職を機にひとり暮らしをはじめた。その頃から、実家をあまり自分の家だとは感じなくなった。
昨年から兄夫婦が同居するようになったから尚更だ。
何不自由なく育ててもらったことは、ありがたいと思うけれど、帰るとどこか疲れてしまう。
最近は帰るたびに、いい人はできたのか、そろそろ結婚したらどうだと圧をかけられるのがしんどかった。
『都会にいるんだから、いい出会いもいっぱいあるでしょうに』
母の言葉は、娘の幸せを願っているのもあるだろうが、近所の手前、いつまでも娘が独身でいることを外聞が悪いと思っているのも透けてみえる。
現に今日も両親の留守中に、お茶を飲みにやってきた檀家の女性に説教をされた。
『都会で働いてるからって、いつまでもひとりなんてダメよ、一華ちゃん。女はね、嫁いで子供を産んで一人前なのよ。早くいい人見つけてお父さんとお母さんを安心させてやりなさいね』
所詮ただの雑談だ。この辺りでは挨拶みたいなものだけれど、モヤモヤするのを止められない。
小さな頃から、人に迷惑をかけないように、自立しようと努力してきた。
結果ちゃんと独立して、ひとりで生きている。
それなのに、なぜ結婚していないというだけで、半人前だと言われなくてはならないのか……。
加えて今回の帰省は、トモの姿がなかったということも一華の気持ちを暗くした。トモが使っていたお皿やゲージが綺麗に片付けられていて、改めて彼がいなくなったことを実感する一日だった。
トモがいなくなった今、今日のように用事がなかったら、もう実家に帰ることは減るかも。
ゆったりと走る電車に揺られて、流れる景色を見つめながら気持ちが落ちていく。
——せっかくここのところ寝られるようになったのにな。
歩との時間と、ぬいぐるみのちびトモのおかげで、睡眠不足は随分と解消した。もちろんまだ寂しいけれど、あのどうしようもない喪失感からは抜け出したと感じている。
だからこそここで憂うつな方に気持ちに引っ張られるのは嫌なのに……。
このままではダメだ、気分を立て直そうと、無理やりにでも楽しいことを考える。
そうだ明日は日曜日なのだから、久しぶりにお気に入りのブックカフェに行こう。買ったまままだ読めていない話題のミステリーに手をつけよう。
それか、博物館で前々から見たいと思っていた企画展に足を運ぼうか。
と、そこでカバンの中のスマホが震える。確認するとメッセージアプリからの通知だった。
ポップアップに表示された"加藤歩"の文字に、沈みかけていた一華の心がふわっとなる。すぐにメッセージをタップした。
《一華ちゃん、帰省お疲れ。もう戻ってくる頃かな? 昨日はよく眠れた?》
一華の中でもはや彼のマイキャラとなりつつあるゴールデンリトリバーが『こんにちワン』と言っているスタンプ付きだ。
歩が一華の今日の予定を知っているのは、金曜日の夜に会わないかと誘われて断ったからだ。朝一から留守番だったから、金曜日の夜に実家に戻らなくてはならなかった。
《今実家からの戻り。大丈夫、寝られた》
うさぎのキャラが『ありがとう』と言っているスタンプを添えて返信する。社外で会う回数を重ね、ようやく敬語を外して話ができるようになった。
《よかったー。ちょっと心配してたんだ》
その言葉に、一華はふっと笑みを浮かべた。
本当に優しい人だ。
忙しいはずなのに、こうして気にかけてくれるのだから。
そこでふと一華は、自分がペットロスから立ち直りつつあることを伝えた方がいいだろうかと考える
長く心配をかけるのは申し訳ないし、いつまでも迷惑をかけ続けるわけにはいかないのだから。
そうだそうしようと、メッセージを打ちかけて、けれどその指は止まってしまう。
一華がペットロスから立ち直ったら、もうこうやって彼とやり取りすることはなくなるのだ。そのことが頭に浮かび、どうしてかメッセージを打つのを躊躇した。
どうしてだろう?
彼とのやり取りが、一華が元気になるまでの暫定的なものだということはわかっていたはず。
彼と会わなくなったら、またプライベートのすべての時間をおひとりさま時間に使えるのに。
やっぱりまだ、完全に傷が治っていないということだろうか?
考えているうちに時間がたち、歩の方から重ねてメッセージが届く。
《大丈夫だったらいいけど。でも一華ちゃんのことだから、無理してそうではあるなー》
今度は疑わしそうに、こちらをじーっとみるリトリバー。
一華は思わずふふっと笑って、それに対する答えを打つ。
《ちびトモを連れていったから。そしたらちゃんと寝られたよ》
《おー! やるじゃんちびとも。ちっちゃいのにいい仕事する》
《とっても優秀。癒し効果は絶大》
《いやでもあいつは俺の弟子だからね? 本家の癒し効果は全然違うから!》
本家の癒し効果の方が絶大というのはその通りだ。直接会って、話をしなくてもメッセージのやり取りだけで、心がほぐれている。
実家で感じた憂うつな気持ちはすっかり晴れた。
《本家の方がいいってなってない? なってるでしょ?》
今度は、しゅんとするリトリバーのスタンプ。
それが、一華が忙しい時に遊んでもらえなかった時のトモと重なる。さらには歩を思い出して、またふふっと笑ってしまう。
ふと思い立って、一華は、今自分が感じている素直な気持ちをメッセージとして打ってみる。
《うん、ちょっと足りないかも。今週会えなかったのは残念だった》
じっと見つめて、やっぱりそうだよね、と確認する。もちろん送信ボタンは押せないが、そう思っているのは確かだった。ただ、なぜそう思うのか?についてはわからなかった。
ペットロスから立ち直りつつあるなら、一華にとってひとりで静かに過ごす時間に勝るものはないはずなのに、彼との時間がなかったことを残念に思っている。
これからもその時間を持ちたいと望んでいる。
やっぱりまだ傷は癒えていないということだろうか?
なんだろうこの気持ちは、と疑問に思いながらメッセージを消そうとした時。
ルルルルルと、電車の発車音が鳴る。ハッとして顔を上げると、いつの間にか電車は、地下に潜り込んでいる。しかも乗り換えの駅だった。
急いで立ち上がり、慌てて電車を降りる。
プシューと後ろでドアが閉まる音を聞きながら、危なかったと胸を撫で下ろした。あと少しで乗り過ごすところだった。
車内放送が耳に入らないくらい歩とのメッセージのやり取りに夢中になっていたなんて、自分でも驚きだがとにかく気がついてよかった。
そして手にしていたスマホの画面を見て、血の気が引く。
さっきためしに打った送るつもりのないメッセージを送信してしまっている。慌てて降りた時に指が当たってしまったのだろう。
しかもすでに既読の文字がついている。
どうしよう⁉︎
走り去る電車の風圧を感じながら、一華はその場に立ち尽くす。頭の中はプチパニック状態だ。
今自分の中にある素直な気持ちではあるけれど、伝えるべきではない言葉だ。
やり取りの流れ的には、《トモちびちゃんで十分だよと冗談で返すのが正解だったのではないだろうか。
それなのにいきなりマジモードのメッセージを送ってしまった。しかもちょっと内容重め……。
間違いで送ったのだと伝えなければと慌てながら画面を見つめる。けれどどう入れればわざとらしくなく冗談にできるのかまったく文面が浮かばなかった。
降りたホームの脇に避けて画面を見つめて考えていると、そのスマホがブルッと震える。
歩からの着信だ。
え⁉︎ なんで着信?と、さらにパニックになるけれど、出ないわけにはいかない。
「も、もしもし……」
『一華ちゃん?』
「は、はい」
『今、通話しても大丈夫?』
「大丈夫。今乗り継ぎの駅なので……」
『そう、いきなり電話してごめんね? べつに用事があるわけじゃないんだけど、なんか、脊髄反射で通話ボタン押しちゃった。嬉しくてもう今すぐに直接話さないとーって』
いつもの軽くて明るい声に一華はホッと肩の力を抜く。
『あ、もしかしてこの次の電車の時間が迫ってたり?』
駅のアナウンスに気がついての問いかけに、一華は慌てて「大丈夫、ここからは本数あるし」と答えた。
とっさに頭に浮かんだのは、ここで電話が終わってほしくないということ。思いがけず彼と話ができることを嬉しく思っている自分がいる。
もう少しこのまま話をしていたい。
『そう? ならいいけど』
スマホの向こうで歩が笑った気配がした。きっといつもの優しい笑顔を浮かべているのだろう。
『いやー、いくら嬉しかったとはいえ、いきなり通話とか、さすがに迷惑だったかなと反省してます』
冗談ぽくそう言う彼に、一華は胸をキュッと絞られるような心地がした。
迷惑だなんてとんでもない話だ。声が聞けて、少し話をしただけで気持ちがとても明るくなった。
実家で感じた憂うつな気分を持ち帰ることなく帰宅できそうだ。
『なんかごめんね、戸惑うよね』
うまく答えられない一華に、彼はいつもの通り明るく話している。
唐突に一華は謝らないでほしいと強く思った。
思ったことを言葉にするのは少し苦手で、いつも口にする前にあれこれ考えてしまう癖がある。
けれど今は伝えたい。ポジティブな思いをそのまま口にする彼を見習って。
「謝らないで。迷惑なんて思わない」
『……そう?』
勢い込んだ一華の言葉は、少し不自然だったのか、歩がやや不思議そうに答えた。
「歩くんと話をすると元気になれるから。私、本当に今週会えなかったの残念だった。今日、実家に帰って、トモがいないのを実感して、ちょっと寂しくなってたけど、電話してくれて元気になった。ありがとう」
言いながら頬が熱くなるのを感じた。
こんなふうに率直に自分の思いを口にするのは、いつぶりだろう。
恥ずかしいし慣れないけれど、キチンとお礼が言いたかった。
きっとすぐに明るい声が返ってくる。けれど予想に反して歩の方は無音になる。
「……歩くん?」
『うん、いや、なんだろ』
ちょっと掠れたような声がした。
『うん、なんか、めっちゃ嬉しい』
いつものハイテンションではなく、どこか照れたような低い声だ。
『なんていうか、……うん。そうやって真剣にお礼を言ってくれるのがさ。新鮮で、なんか……嬉しい。や、こっちがお礼を言いたいくらい』
「変なこと言ってごめん」
『いや、謝らないで。マジで嬉しいから。てかさ、足りないなら、やっぱり会お! 明日はどう? 一華ちゃんもうこっちに帰ってきてるんでしょ』
「え? うん。だけど、あの、あまり気にしないで? 歩くん忙しいだろうし」
『いや、気にしてるってわけじゃないけど、そう言われたら俺も会いたいし。あ、でもあれか、今日実家に行ってたってことは、ひとり時間が足りてない? なら会うのはちょっとしんどい感じ?』
「そんなことはないっ」
思わずそう遮って、一華は自分で自分に目を丸くする。
さっきまでブックカフェに行こうと思っていたはずなのに、そっちはまた今度でいいという気分だった。
彼と一緒に過ごしたい、そう思っている自分がいる。
「あ……め、迷惑じゃなかったら、の話だけど」
『迷惑だったら誘わないよ。じゃさ、せっかくだし昼間に会おうよ。もちろん一華ちゃんが疲れてきたら、いつでも解散していいから。俺はトモだからね、そこは遠慮なく言ってください。行先も、一華ちゃんが行きたいところに行きましょう』
昼間からという話に驚くけれどすぐに、太陽の日差しのもと彼と過ごす一日も楽しそうだと思った。
「いいの?」
『もちろん。じゃあ、十時待ち合わせで』
彼はふたりのマンションがある駅の中間にある大きな駅名を告げる。
『じゃ、明日』
明るい声に頷くと、しばらくして通話が切れ、再びメッセージのやり取りの画面に戻る。
一華は少し信じられない気持ちで見ていた。だって、間違えて送ったメッセージから、こんな展開になるなんて。
明日は久しぶりに外出してのひとり時間を楽しもうと思っていた。その計画がなくなったことをちっとも残念に思っていない。それどころかついさっきまで憂うつな気分で電車に揺られていたのが信じられないくらいうきうきとしている。
メッセージアプリを見つめていたらぽんと鳴って再びスタンプが現れる。
『楽しみだワン』と言っているゴールデンリトリバーのスタンプだ。
目を輝かせるリトリバーに、一華はふふっと笑みを浮かべた。