隣の彼はステイができない
博物館の外へ出ると、もう午後の三時を過ぎていた。
二時間近く中にいたことになる。
前の広場にはワゴン車が出ていて、軽食との飲み物が販売されている。熱さをしのげるようにターフが張られている。
「あっちーな」
隣の歩の呟きに一瞬躊躇するけれど、思い切って一華は「あそこに行けば涼しそうだし、何か食べない?」と聞いてみる。
それに歩が「お、いいね」と同意してランチの場所はあっさり決まる。
ワゴン車では展示にちなみ、メキシコ料理を販売している。
タコスかコルネ・コン・パパスというメキシコ風ステーキとポテトペーストのBOXどちらにしようかとしばし悩む。食べ慣れているのはタコスだけど……。
「一華ちゃんどれにする?」
「タコスと、このBOXで悩み中」
「んじゃ、ふたつ頼んで半分こしよ」
フードと一緒に飲み物のコーラも調達してターフの下の席についた。
いただきますをして、食べ始める。まずは、コーラで喉を潤す。博物館の中は飲食禁止だったし、ワゴン車に並んだだけでカラカラになっている。喉にシュワシュワの炭酸が美味しい。
「くー」
「おいしっ」
声が重なり目を見合わせてふふっと笑う。
「染み渡るね」
「ね」
「俺、タコス好き。一華ちゃんは?」
「私も好き」
「まじ? 大通り公園の向こうにさメキシコ料理店あるじゃん? あそこ行ったりする?」
「行ってみたいけど、ハードルが高くて。量が多いし、ひとりではちょっと」
「そっか、じゃあさ、今度行きたくなったら呼んでよ。一華ちゃんのひとり時間は邪魔しない。食べるときだけ現れて、食べたらささっと帰るから。もちろんお口はチャックです」
一華はふふっと笑ってしまう。
「ありがたいけど、それはさすがに勝手すぎるような」
「お互い納得してたらいいでしょ。てか、タコスうまっ。この肉もなんかちょっと不思議な味がするけどクセになりそう」
彼の言う通り、タコスは美味しいし、ステーキもスパイスが面白い風味だ。
「てかいつの間にか、めっちゃ時間経ってたね。面白かったからそんなに時間経ってると思わなかった」
「見応えあったね」
そこで歩がベンチにおいていた自分の鞄を近くに寄せて、テーブルの上のおしぼりをこちらに寄せた。その視線の先を追って、一華はピンとくる。フードコートの空きを探していると思しき年配の夫婦が盆を持って座るところを探している。
目でいい?と尋ねられて、頷くと彼は彼らに見やすいように手を上げた。
「よかったら、ここどうそ」
テーブルは六人がけくらいの大きさだから、ふたり組同士なら相席しても全く問題ない。
「ありがとうございます」
「やーよかったよかった」
にこにこして座るふたりににっこり微笑んで、歩がこちらを見た。
「1ポイント?」
「だね」
「やった! 本当これ楽しいよね。俺完全にハマッてる。てかさっき、一華ちゃん大丈夫だった。俺うるさくなかった?」
「全然、話しながら見るのすごく楽しかった」
きっとそれは歩だったからだ。
展示には興味がなかったと思えないほど、楽しんでいるように思えた。
『あの器かっこよくない? 俺もほしいんだけど』
『これ、儀式に使ってたんだって。うーゾクゾクする』
その口から出る言葉は、ひたすら素直で裏がない。
それに答えたり感想を言い合ったりしているうちに、あっという間に時間が過ぎたのだ。
「ひとりで見るのもいいけど、人と来るの楽しいんだって発見した。歩くんのおかげ」
歩がタコスを持ったままフリーズする。一旦置いて、コーラを飲む。そして少し迷うような素振りを見せてから思い切ったように口を開いた。
「……一華ちゃんのさ」
一華は首を傾げた。
「そういうところ、皆にも知ってもらえたらいいのにね」
「……え?」
「なんていうか。すごくいい子だし。会社の皆が知らないの、なんかもったいないって思ってさ。……って余計なお世話だな」
会社で一華が一部の社員から遠巻きに見られていることを言っているのだろう。優しい彼は心配してくれているのだ。
プラスチックカップの水滴を見つめて、なんと答えようかと考える。
それを悪い反応ととったのか、歩が少し慌てた。
「ごめん、ほんと余計なことだよね」
「それは全然。会社での私の態度があまりよくないのはその通りだし」
「そんなことはないよ。ただ、誤解してる人がいるのは本当に残念」
場合によってはおせっかいな言葉かもしれない。けれどそうは思わなかった。歩は本当に心配してくれている。
「歩くんもわかってると思うけど、私、話すのがちょっと苦手っていうか……えーっと話すのにエネルギーを使うんだよね」
「エネルギーを使う?」
「そう。考えながら話すから。だって思ってること全部言ったら、ダメじゃない? 自分が気がつかない間に人を傷つけたりすることもあるだろうし」
コーラを一口飲んで歩を見る。彼は優しい眼差しで一華の言葉を待っている。
こういう話を人に話すのははじめてだ。
家族にだって言ったことはない。しっかりしなさい、人に迷惑かけない人でありなさいと常に言われてきたから。苦手なことを話すとか弱音を吐くのはあまり喜ばれなかった。
「何を言ったら相手が嫌な思いをするかとか、はっきりとわかるわけじゃないし。そんなことを考えながら話すから、疲れるんだと思う。歩くんがポンポンと感じよく話すの私からしたら魔法みたいに思える。平日は外回りでそのエネルギー全部使っちゃって、もうくたくた。だからひとりが好きなんだと思う。要するに、わがままなんだよね」
歩と親しく話をするようになって改めてそう思うようになった。
息をするように人と仲良くなる彼を、以前の一華はどこかでイージーモードだと思っていた。自然とそれができるラッキーな人だと。
けれど話をしてみると、そうではないということに気がついた。
彼は人と楽しく話をするために、細やかに気を遣っている。相手のことをよく見て、何をいうべきか何を言わないでおくべきかをよく考えているのだ。だから彼の言葉は軽く聞こえても、決して嫌な気持ちにならない。
そしてそれをめんどくさがっている自分はわがままで自己中心的なのだ。
「え、逆じゃない?」
けれど歩にそう言われて、首を傾げる。
「……逆?」
「うん、わがままじゃなくて、俺にはすごく優しいように思えるけど」
思いがけない言葉に、一華の頭がはてなでいっぱいになる。
歩がコーラをひと口飲んでカップを置いた。
「だってそれってすごく相手のこと考えてるからだよね。嫌な思いをさせたくないっていつも思っているなんて、すごく優しいと思う」
「だけど皆そう思ってるでしょ?」
「まぁ、基本的にはね。でも遠慮ないなーって人も結構いるよ」
歩が苦笑いをした。
「その言い方、相手は絶対嫌でしょってつっこみたくなることもあるし。一華ちゃんみたいにしっかり考えてる人もそりゃいるだろうけど、皆そうってわけじゃないと思う。だから一華ちゃんは優しいんだよ」
さすがは歩だ。なんでもいいふうに捉える。
「……でもそれで、めんどくさがるなら、意味なくない? 結局は逃げてるわけだから」
「いや、それだけ気を使ってたらそりゃ面倒だし逃げたくなるよ。べつに仕事はちゃんとしてるし逃げたっていいと思うし。でもさ、話すのが疲れるって自覚してるんだったらどうして営業を希望したの?」
そう思うのは当然だ。営業なんて、話すのが仕事みたいなものなのだから。
「昔から、弁護士さんに憧れてたの。かっこいいじゃない? 困ってる人を助ける職業の代表っていうか。本当は、法律事務所の職員もいいなって思ってたんだけど、私、理系だし。就活の時に業務支援ソフトの会社があるのを知って絶対にやりたいって思ったの。単純ではずかしいんだけど」
話しているうちに、熱くなってしまったのが恥ずかしくてストローに口をつけてうつむいた。
歩が目を細めた。
「だから、いつも仕事熱心なんだ」
「うん、仕事は楽しい。ただその分、外回りで疲れてしまって社内で態度が悪くなってしまってるかも。それは本当、申し訳ないと思ってる。なんとかしなきゃって思っているけど……」
「態度が悪いってことはないよ」
少し強く遮られて、一華は驚いて口を閉じた。
「普通だと思う。受け答えは丁寧だし、相手が後輩でも敬語だし」
「そう、かな」
お世辞も入っていそうとは思うけれど、そんなふうに言ってもらえると安心する。
「現にクライアントからはすごく信頼されてるよね。態度が悪いって誰が言ったか知らないけど、それは本当に気にしないでいいよ」
「あ、ありがとう。そんな風に言ってもらえるのありがたい。ちょっと気にしてるから」
「うん、でも、慰めるために言ってるわけじゃないからね。事実だから。もちろん一華ちゃんが笑顔を見せられたら皆の印象は変わるんだろうなとは思う。さっきは俺もそう言ったけど、でも無理することはないよ。普段から笑ってろなんて、言われる筋合いないでしょ。会社は友達作りの場所じゃないんだし」
それは一華も同感だ。今まではそれで問題なかった。
「でも、それだと嫌な思いをする人がいるかも。今はペア制になったし」
思い切って一華は、自分が今悩んでいる、河西とのことを口にした。
深夜喫茶に行った夜、ハウツー本を見られた時は恥ずかしいと思ったけれど、今はそうは思わなかった。むしろ彼からのアドバイスがほしいと思う。
たったひとりの後輩ともうまくやれないなんて、恥ずかしいのは相変わらず。でも河西のことを考えたら、そんなことは言ってられない。
「河西さんのことだよね」
歩からの問いかけに、こくんと頷いた。
「苦手でも彼女とはコミュニケーションとっていかなきゃって思ってる。でもなかなか上手くいかなくて。そもそもコミュニケーション以前に業務もちゃんと振り分けられていない気がする……」
彼女との関係は相変わらずだった。
彼女には、一華とは関係ないアシスタントチーム独自の仕事もあり、それらを一華がすべて把握しているわけではないから、何をどのくらい任せていいかがわからない。つい躊躇してしまい、少なめになっているという自覚がある。
ポツポツ話す一華の話を歩は黙って聞いていた。
そして自分の分を食べ終えて、しばらく考えた後口を開いた。
「それもさっきの話に通じるものがありそうだね」
「え?」
「つまり一華ちゃんは優しいんだよ。ちょっと優しすぎるっていうか……なんていうかな……人に迷惑をかけるのをすごく怖がってるように見える。だから、仕事を割り振るのが苦手なんじゃない?」
「……そうかも」
誰かに何かをお願いするイコール迷惑をかけるとまでは言わないが、迷惑をかけるかもしれないなら、自分でやりたいと思う。
「それ自体はダメなことじゃないけど、仕事はさ、多少の迷惑はお互い様って考える方がうまくいくかもね。河西さんだって仕事をしにきてるんだから、できないならできないって言うだろうし。俺は基本、この精神でやるようにしてる。できないって言いやすい空気は保つようにして、自分も気にかけていれば大丈夫だよ。難しそう?」
押し付けがましくない適格なアドバイスだ。
けれど一華は頷けない。
頭ではわかっていても、心がなぜか拒否をする。自分の中のこだわりが、邪魔をする。
「……そうするのがいいとは思う……それはわかってるんだけど。なんか……抵抗あるっていうか。自分でもよくわからないんだけど」
少しぬるくなったコーラを飲んで考える。
そう、さっき歩から指摘された通り自分は人に迷惑をかけるのが嫌だ。怖いとすら思う。
でもなぜそこまで強く思うのだろう?
初めて一華はこの気持ちがどこからくるのかを考えた。
どうして人に頼ることに抵抗を感じるのだろう……。
「……実家が、厳しくて」
出てきたのはその言葉だった。
「地元ではちょっと大きなお寺なんだけど」
「ああ、言ってたね。昨日も手伝いに行ってたって」
「人の迷惑にならないようにしなさいっていうのが両親の口癖で。檀家さんからの目もあるから、たぶん他の家より厳しかったと思う」
大切に育ててもらったけれど、あまり両親に甘えたという記憶はない。甘えるのはあまり歓迎されなくて、逆にしっかりしているところを見せれば褒められた。
「だから、誰かに何かをしてもらうのはちょっと罪悪感を覚えるっていうか」
口に出してみるとそうだな、と改めて思う。
よくない教育方針だったとは思わないが、それが今の自分を足踏みさせているのは確かだった。
「なるほどね」
歩が腕組みをして黙り込む。
もう言うことはなくなって、一華は自分の分のタコスとステーキを食べ終えた。
しばらくして歩が口を開いた。
「迷惑をかけるって思うなら、確かに頼みにくいか。でも一華ちゃんだって他の人の仕事を手伝うことはあるよね。例えば、他の営業のクライアントの対応することなんてよくあるでしょ。その時どう思ってる? 迷惑かけられたなって思う?」
一華は首を横に振った。そんな風には思わない。
「仕事だし私にできることがあるならやりますって感じ。役に立てるのは嬉しいし。それはお互いさまだし」
「それ!」
突然大きな声を出されてビクッとする。
「お互いさま! 一華ちゃんがそう思うように周りの皆もそう考えてると思うよ、俺は」
「お互いさま……」
当たり前と言えば当たり前の話だ、でもまるではじめて知った事実のように感じた。
「うん。それにさ、人の役に立てたらさ、嬉しいんだよ。一華ちゃんだって知ってるでしょ。徳積みしたら気持ちがいいって。だから相手は迷惑と感じないんじゃないかな」
「徳積みと、……同じ?」
「そりゃ雑に頼まれたり押し付けられたら迷惑だけど一華ちゃんの場合は大丈夫だよ。一華ちゃんって頼む時すごく丁寧に頼んでるし、説明もわかりやすい。相手に対する敬意がちゃんとある」
それはあたりまえのことだし、気をつけているところだ。
「一華ちゃんの睡眠不足解消をさ、俺が手伝ってるこの状況って、一華ちゃん式にいけば、俺は迷惑かけられてる立場だよね?」
「それは、そう……ごめん」
トモを失ったという非常事態でなければ絶対にお願いしなかった。
「謝らないで。でもさ、俺はむしろラッキーだったって思ってるんだよ。だって一華ちゃんが元気になって、俺は嬉しい。笑顔を見せてくれるのも、こうやって一緒に博物館に来られたのも、昨日一華ちゃんが『ありがとう』って言ってくれたのも」
にっこりと笑う彼は、一華のために無理をしてる様子はない。本心からの言葉なのだと素直に感じられる。
「迷惑をかけるって悪いことばかりじゃなくてさ、相手に敬意を払えれば、新しい関係を築くきっかけにもなる」
「新しい関係を……?」
迷惑をかけたことでいい関係が築けるなんて一華にはない発想だ。また歩のなぞなぞ理論に巻き込まれているような気がしなくもない。けれど言われてみればそうかもしれないとも思う。
あの時睡眠不足解消の手伝いを断固として断っていれば、こうやって歩と話をすることはなかった。
この楽しい一日は存在しなかったのだ。
「でもまぁ、いきなり考えを変えるのは難しいよね。だけど、そうだな……。これは一意見として聞いてほしいんだけど、言い方を変えてみたらどうかな?」
「言い方?」
「そう。一華ちゃん誰かに頼んだ仕事を返してもらった時、無意識だろうと思うんだけど、高確率で『すみませんでした』って謝ってるんだよ」
その言葉は一華にとっては意外だった。
「そう、かな……?」
「うん、俺が見てる限りはね。もちろんお礼も言ってるけど、謝ってる時の方が多いかな。なんでだろ?って不思議だったんだけど、今の話をきくと納得だな」
相手になにかをさせてしまって申し訳ないという気持ちが口から出ていたのだろうか?
「それをさ、『ありがとう』に変えてみなよ。それだけでも相手の気持ちは変わると思うよ」
それだけで?と思う。
言葉を変えたとしても、負担をかけた事実は変わらないのに。
「ちょっとしたことだけどね。言われた方は全然違うと思うよ。一華ちゃんの『ありがとう』の効果は絶大。うん、昨日言われた俺が言うんだから間違いない。俺、マジで、なんでもやりますって気分になったもん」
冗談めかしてそう言って、歩は少し照れ臭そうに笑った。
仕事中、クライアント先での光景が頭に浮かぶ。
ソフトの不具合の対応でクライアント先を訪れた時は、不満や苛立ちをぶつけられることもなくはない。業務の手を止めてしまうのだから仕方がないし当然だと思っているけれど、それでも中には『助かった。すぐに来てくれてありがとう』と言われることもある。
同じ仕事をしていても、そういう時はやはりまた頑張ろうという気持ちになる。
いきなり考え方を変えるのは難しい。それはこれまでの経験からわかっている。けれど、行動を変えることはできそうだ。
「……そう、かもしれないね。うん、私やってみる。ありがとう」
心に決めてそう言うと、視線の先で、歩がにっこりと笑った。
二時間近く中にいたことになる。
前の広場にはワゴン車が出ていて、軽食との飲み物が販売されている。熱さをしのげるようにターフが張られている。
「あっちーな」
隣の歩の呟きに一瞬躊躇するけれど、思い切って一華は「あそこに行けば涼しそうだし、何か食べない?」と聞いてみる。
それに歩が「お、いいね」と同意してランチの場所はあっさり決まる。
ワゴン車では展示にちなみ、メキシコ料理を販売している。
タコスかコルネ・コン・パパスというメキシコ風ステーキとポテトペーストのBOXどちらにしようかとしばし悩む。食べ慣れているのはタコスだけど……。
「一華ちゃんどれにする?」
「タコスと、このBOXで悩み中」
「んじゃ、ふたつ頼んで半分こしよ」
フードと一緒に飲み物のコーラも調達してターフの下の席についた。
いただきますをして、食べ始める。まずは、コーラで喉を潤す。博物館の中は飲食禁止だったし、ワゴン車に並んだだけでカラカラになっている。喉にシュワシュワの炭酸が美味しい。
「くー」
「おいしっ」
声が重なり目を見合わせてふふっと笑う。
「染み渡るね」
「ね」
「俺、タコス好き。一華ちゃんは?」
「私も好き」
「まじ? 大通り公園の向こうにさメキシコ料理店あるじゃん? あそこ行ったりする?」
「行ってみたいけど、ハードルが高くて。量が多いし、ひとりではちょっと」
「そっか、じゃあさ、今度行きたくなったら呼んでよ。一華ちゃんのひとり時間は邪魔しない。食べるときだけ現れて、食べたらささっと帰るから。もちろんお口はチャックです」
一華はふふっと笑ってしまう。
「ありがたいけど、それはさすがに勝手すぎるような」
「お互い納得してたらいいでしょ。てか、タコスうまっ。この肉もなんかちょっと不思議な味がするけどクセになりそう」
彼の言う通り、タコスは美味しいし、ステーキもスパイスが面白い風味だ。
「てかいつの間にか、めっちゃ時間経ってたね。面白かったからそんなに時間経ってると思わなかった」
「見応えあったね」
そこで歩がベンチにおいていた自分の鞄を近くに寄せて、テーブルの上のおしぼりをこちらに寄せた。その視線の先を追って、一華はピンとくる。フードコートの空きを探していると思しき年配の夫婦が盆を持って座るところを探している。
目でいい?と尋ねられて、頷くと彼は彼らに見やすいように手を上げた。
「よかったら、ここどうそ」
テーブルは六人がけくらいの大きさだから、ふたり組同士なら相席しても全く問題ない。
「ありがとうございます」
「やーよかったよかった」
にこにこして座るふたりににっこり微笑んで、歩がこちらを見た。
「1ポイント?」
「だね」
「やった! 本当これ楽しいよね。俺完全にハマッてる。てかさっき、一華ちゃん大丈夫だった。俺うるさくなかった?」
「全然、話しながら見るのすごく楽しかった」
きっとそれは歩だったからだ。
展示には興味がなかったと思えないほど、楽しんでいるように思えた。
『あの器かっこよくない? 俺もほしいんだけど』
『これ、儀式に使ってたんだって。うーゾクゾクする』
その口から出る言葉は、ひたすら素直で裏がない。
それに答えたり感想を言い合ったりしているうちに、あっという間に時間が過ぎたのだ。
「ひとりで見るのもいいけど、人と来るの楽しいんだって発見した。歩くんのおかげ」
歩がタコスを持ったままフリーズする。一旦置いて、コーラを飲む。そして少し迷うような素振りを見せてから思い切ったように口を開いた。
「……一華ちゃんのさ」
一華は首を傾げた。
「そういうところ、皆にも知ってもらえたらいいのにね」
「……え?」
「なんていうか。すごくいい子だし。会社の皆が知らないの、なんかもったいないって思ってさ。……って余計なお世話だな」
会社で一華が一部の社員から遠巻きに見られていることを言っているのだろう。優しい彼は心配してくれているのだ。
プラスチックカップの水滴を見つめて、なんと答えようかと考える。
それを悪い反応ととったのか、歩が少し慌てた。
「ごめん、ほんと余計なことだよね」
「それは全然。会社での私の態度があまりよくないのはその通りだし」
「そんなことはないよ。ただ、誤解してる人がいるのは本当に残念」
場合によってはおせっかいな言葉かもしれない。けれどそうは思わなかった。歩は本当に心配してくれている。
「歩くんもわかってると思うけど、私、話すのがちょっと苦手っていうか……えーっと話すのにエネルギーを使うんだよね」
「エネルギーを使う?」
「そう。考えながら話すから。だって思ってること全部言ったら、ダメじゃない? 自分が気がつかない間に人を傷つけたりすることもあるだろうし」
コーラを一口飲んで歩を見る。彼は優しい眼差しで一華の言葉を待っている。
こういう話を人に話すのははじめてだ。
家族にだって言ったことはない。しっかりしなさい、人に迷惑かけない人でありなさいと常に言われてきたから。苦手なことを話すとか弱音を吐くのはあまり喜ばれなかった。
「何を言ったら相手が嫌な思いをするかとか、はっきりとわかるわけじゃないし。そんなことを考えながら話すから、疲れるんだと思う。歩くんがポンポンと感じよく話すの私からしたら魔法みたいに思える。平日は外回りでそのエネルギー全部使っちゃって、もうくたくた。だからひとりが好きなんだと思う。要するに、わがままなんだよね」
歩と親しく話をするようになって改めてそう思うようになった。
息をするように人と仲良くなる彼を、以前の一華はどこかでイージーモードだと思っていた。自然とそれができるラッキーな人だと。
けれど話をしてみると、そうではないということに気がついた。
彼は人と楽しく話をするために、細やかに気を遣っている。相手のことをよく見て、何をいうべきか何を言わないでおくべきかをよく考えているのだ。だから彼の言葉は軽く聞こえても、決して嫌な気持ちにならない。
そしてそれをめんどくさがっている自分はわがままで自己中心的なのだ。
「え、逆じゃない?」
けれど歩にそう言われて、首を傾げる。
「……逆?」
「うん、わがままじゃなくて、俺にはすごく優しいように思えるけど」
思いがけない言葉に、一華の頭がはてなでいっぱいになる。
歩がコーラをひと口飲んでカップを置いた。
「だってそれってすごく相手のこと考えてるからだよね。嫌な思いをさせたくないっていつも思っているなんて、すごく優しいと思う」
「だけど皆そう思ってるでしょ?」
「まぁ、基本的にはね。でも遠慮ないなーって人も結構いるよ」
歩が苦笑いをした。
「その言い方、相手は絶対嫌でしょってつっこみたくなることもあるし。一華ちゃんみたいにしっかり考えてる人もそりゃいるだろうけど、皆そうってわけじゃないと思う。だから一華ちゃんは優しいんだよ」
さすがは歩だ。なんでもいいふうに捉える。
「……でもそれで、めんどくさがるなら、意味なくない? 結局は逃げてるわけだから」
「いや、それだけ気を使ってたらそりゃ面倒だし逃げたくなるよ。べつに仕事はちゃんとしてるし逃げたっていいと思うし。でもさ、話すのが疲れるって自覚してるんだったらどうして営業を希望したの?」
そう思うのは当然だ。営業なんて、話すのが仕事みたいなものなのだから。
「昔から、弁護士さんに憧れてたの。かっこいいじゃない? 困ってる人を助ける職業の代表っていうか。本当は、法律事務所の職員もいいなって思ってたんだけど、私、理系だし。就活の時に業務支援ソフトの会社があるのを知って絶対にやりたいって思ったの。単純ではずかしいんだけど」
話しているうちに、熱くなってしまったのが恥ずかしくてストローに口をつけてうつむいた。
歩が目を細めた。
「だから、いつも仕事熱心なんだ」
「うん、仕事は楽しい。ただその分、外回りで疲れてしまって社内で態度が悪くなってしまってるかも。それは本当、申し訳ないと思ってる。なんとかしなきゃって思っているけど……」
「態度が悪いってことはないよ」
少し強く遮られて、一華は驚いて口を閉じた。
「普通だと思う。受け答えは丁寧だし、相手が後輩でも敬語だし」
「そう、かな」
お世辞も入っていそうとは思うけれど、そんなふうに言ってもらえると安心する。
「現にクライアントからはすごく信頼されてるよね。態度が悪いって誰が言ったか知らないけど、それは本当に気にしないでいいよ」
「あ、ありがとう。そんな風に言ってもらえるのありがたい。ちょっと気にしてるから」
「うん、でも、慰めるために言ってるわけじゃないからね。事実だから。もちろん一華ちゃんが笑顔を見せられたら皆の印象は変わるんだろうなとは思う。さっきは俺もそう言ったけど、でも無理することはないよ。普段から笑ってろなんて、言われる筋合いないでしょ。会社は友達作りの場所じゃないんだし」
それは一華も同感だ。今まではそれで問題なかった。
「でも、それだと嫌な思いをする人がいるかも。今はペア制になったし」
思い切って一華は、自分が今悩んでいる、河西とのことを口にした。
深夜喫茶に行った夜、ハウツー本を見られた時は恥ずかしいと思ったけれど、今はそうは思わなかった。むしろ彼からのアドバイスがほしいと思う。
たったひとりの後輩ともうまくやれないなんて、恥ずかしいのは相変わらず。でも河西のことを考えたら、そんなことは言ってられない。
「河西さんのことだよね」
歩からの問いかけに、こくんと頷いた。
「苦手でも彼女とはコミュニケーションとっていかなきゃって思ってる。でもなかなか上手くいかなくて。そもそもコミュニケーション以前に業務もちゃんと振り分けられていない気がする……」
彼女との関係は相変わらずだった。
彼女には、一華とは関係ないアシスタントチーム独自の仕事もあり、それらを一華がすべて把握しているわけではないから、何をどのくらい任せていいかがわからない。つい躊躇してしまい、少なめになっているという自覚がある。
ポツポツ話す一華の話を歩は黙って聞いていた。
そして自分の分を食べ終えて、しばらく考えた後口を開いた。
「それもさっきの話に通じるものがありそうだね」
「え?」
「つまり一華ちゃんは優しいんだよ。ちょっと優しすぎるっていうか……なんていうかな……人に迷惑をかけるのをすごく怖がってるように見える。だから、仕事を割り振るのが苦手なんじゃない?」
「……そうかも」
誰かに何かをお願いするイコール迷惑をかけるとまでは言わないが、迷惑をかけるかもしれないなら、自分でやりたいと思う。
「それ自体はダメなことじゃないけど、仕事はさ、多少の迷惑はお互い様って考える方がうまくいくかもね。河西さんだって仕事をしにきてるんだから、できないならできないって言うだろうし。俺は基本、この精神でやるようにしてる。できないって言いやすい空気は保つようにして、自分も気にかけていれば大丈夫だよ。難しそう?」
押し付けがましくない適格なアドバイスだ。
けれど一華は頷けない。
頭ではわかっていても、心がなぜか拒否をする。自分の中のこだわりが、邪魔をする。
「……そうするのがいいとは思う……それはわかってるんだけど。なんか……抵抗あるっていうか。自分でもよくわからないんだけど」
少しぬるくなったコーラを飲んで考える。
そう、さっき歩から指摘された通り自分は人に迷惑をかけるのが嫌だ。怖いとすら思う。
でもなぜそこまで強く思うのだろう?
初めて一華はこの気持ちがどこからくるのかを考えた。
どうして人に頼ることに抵抗を感じるのだろう……。
「……実家が、厳しくて」
出てきたのはその言葉だった。
「地元ではちょっと大きなお寺なんだけど」
「ああ、言ってたね。昨日も手伝いに行ってたって」
「人の迷惑にならないようにしなさいっていうのが両親の口癖で。檀家さんからの目もあるから、たぶん他の家より厳しかったと思う」
大切に育ててもらったけれど、あまり両親に甘えたという記憶はない。甘えるのはあまり歓迎されなくて、逆にしっかりしているところを見せれば褒められた。
「だから、誰かに何かをしてもらうのはちょっと罪悪感を覚えるっていうか」
口に出してみるとそうだな、と改めて思う。
よくない教育方針だったとは思わないが、それが今の自分を足踏みさせているのは確かだった。
「なるほどね」
歩が腕組みをして黙り込む。
もう言うことはなくなって、一華は自分の分のタコスとステーキを食べ終えた。
しばらくして歩が口を開いた。
「迷惑をかけるって思うなら、確かに頼みにくいか。でも一華ちゃんだって他の人の仕事を手伝うことはあるよね。例えば、他の営業のクライアントの対応することなんてよくあるでしょ。その時どう思ってる? 迷惑かけられたなって思う?」
一華は首を横に振った。そんな風には思わない。
「仕事だし私にできることがあるならやりますって感じ。役に立てるのは嬉しいし。それはお互いさまだし」
「それ!」
突然大きな声を出されてビクッとする。
「お互いさま! 一華ちゃんがそう思うように周りの皆もそう考えてると思うよ、俺は」
「お互いさま……」
当たり前と言えば当たり前の話だ、でもまるではじめて知った事実のように感じた。
「うん。それにさ、人の役に立てたらさ、嬉しいんだよ。一華ちゃんだって知ってるでしょ。徳積みしたら気持ちがいいって。だから相手は迷惑と感じないんじゃないかな」
「徳積みと、……同じ?」
「そりゃ雑に頼まれたり押し付けられたら迷惑だけど一華ちゃんの場合は大丈夫だよ。一華ちゃんって頼む時すごく丁寧に頼んでるし、説明もわかりやすい。相手に対する敬意がちゃんとある」
それはあたりまえのことだし、気をつけているところだ。
「一華ちゃんの睡眠不足解消をさ、俺が手伝ってるこの状況って、一華ちゃん式にいけば、俺は迷惑かけられてる立場だよね?」
「それは、そう……ごめん」
トモを失ったという非常事態でなければ絶対にお願いしなかった。
「謝らないで。でもさ、俺はむしろラッキーだったって思ってるんだよ。だって一華ちゃんが元気になって、俺は嬉しい。笑顔を見せてくれるのも、こうやって一緒に博物館に来られたのも、昨日一華ちゃんが『ありがとう』って言ってくれたのも」
にっこりと笑う彼は、一華のために無理をしてる様子はない。本心からの言葉なのだと素直に感じられる。
「迷惑をかけるって悪いことばかりじゃなくてさ、相手に敬意を払えれば、新しい関係を築くきっかけにもなる」
「新しい関係を……?」
迷惑をかけたことでいい関係が築けるなんて一華にはない発想だ。また歩のなぞなぞ理論に巻き込まれているような気がしなくもない。けれど言われてみればそうかもしれないとも思う。
あの時睡眠不足解消の手伝いを断固として断っていれば、こうやって歩と話をすることはなかった。
この楽しい一日は存在しなかったのだ。
「でもまぁ、いきなり考えを変えるのは難しいよね。だけど、そうだな……。これは一意見として聞いてほしいんだけど、言い方を変えてみたらどうかな?」
「言い方?」
「そう。一華ちゃん誰かに頼んだ仕事を返してもらった時、無意識だろうと思うんだけど、高確率で『すみませんでした』って謝ってるんだよ」
その言葉は一華にとっては意外だった。
「そう、かな……?」
「うん、俺が見てる限りはね。もちろんお礼も言ってるけど、謝ってる時の方が多いかな。なんでだろ?って不思議だったんだけど、今の話をきくと納得だな」
相手になにかをさせてしまって申し訳ないという気持ちが口から出ていたのだろうか?
「それをさ、『ありがとう』に変えてみなよ。それだけでも相手の気持ちは変わると思うよ」
それだけで?と思う。
言葉を変えたとしても、負担をかけた事実は変わらないのに。
「ちょっとしたことだけどね。言われた方は全然違うと思うよ。一華ちゃんの『ありがとう』の効果は絶大。うん、昨日言われた俺が言うんだから間違いない。俺、マジで、なんでもやりますって気分になったもん」
冗談めかしてそう言って、歩は少し照れ臭そうに笑った。
仕事中、クライアント先での光景が頭に浮かぶ。
ソフトの不具合の対応でクライアント先を訪れた時は、不満や苛立ちをぶつけられることもなくはない。業務の手を止めてしまうのだから仕方がないし当然だと思っているけれど、それでも中には『助かった。すぐに来てくれてありがとう』と言われることもある。
同じ仕事をしていても、そういう時はやはりまた頑張ろうという気持ちになる。
いきなり考え方を変えるのは難しい。それはこれまでの経験からわかっている。けれど、行動を変えることはできそうだ。
「……そう、かもしれないね。うん、私やってみる。ありがとう」
心に決めてそう言うと、視線の先で、歩がにっこりと笑った。