隣の彼はステイができない
* * *

 午後五時。
「あっちー」とハンカチで汗を拭きながら外回りから帰ってきたのは歩の同期の石橋だ。
 あちらこちらから「おかえり」と声がかかってる。
 歩も彼に「お疲れ」と声をかけた。
 日に日に暑くなり、外は危険な暑さだ。この時期の外回りは本当にお疲れだ。
 隣の席で報告書を打ち込んでいた一華は画面から目を外して、立ち上がった。そして、歩の前の席にカバンを置いた一橋に向かって、丁寧に頭を下げた。
「石橋さん、ありがとうございました。助かりました」
 石橋が少し驚いたように目を開き、照れたように笑った。
「このくらいは、全然。事務員さんも飲み込みの早い人だったし。報告書はさっき共有フォルダの一橋事務所のところに送っておいたので、確認よろしく」
 一橋事務所は、一華の担当クライアントだ。
 そこの事務員からコールセンターに電話が入ったのが二時間前。初めてやる操作のやり方がわからないというものだった。
 本来なら一華が訪問してレクチャーする案件だ。だがちょうど石橋が同じ駅にいたため代わりに彼が対応した。
「急ぎで送りたい資料があったのでとても助かりました。暑いのに遠回りになったので申し訳ないなと思ったんですが」
「いやいやいつもは加藤さんが助けてくれるじゃん。お返しできて嬉しかったくらいだよ。またいつでも言って。俺もお願いすると思うし」
「はい。ありがとうございます」
 そう言って彼女は、にっこりと笑みを浮かべる。
 仕事を肩代わりしてもらったお礼として儀礼的なものでもあるけれど、こうやって同僚とやりとりできたのが嬉しいという気持ちも滲んでいる。
 途端に石橋がそわそわとして落ち着かない感じになる。
 咳払いを何回もして「こちらこそ、いつもありがと。ほんとなんでも言ってなんでもするし」といきなりカタコトになった。
 新規の問い合わせメールに返信を打っていた歩は、面白くない気持ちでこっそり石橋を睨んだ。
 一華の笑顔に動揺するのはわかるけれど、なんでもするしは違うくないか?
 一方で席に座った一華はモニターに隠れて、ほっと胸を撫で下ろしている。他の社員ならそれほど難しくないやりとりも彼女にとっては、チャレンジだったのだ。
 二時間前にコールセンターから連絡を受けた際、一華は迷ってるようだった。現地へ行けば、相当なタイムロスだ。報告書の作成が確実に遅れる。他の営業のスケジュールは社内ネットワークで見られるから、歩はすぐに確認して「石橋が同じ駅にいるかもよ」とおしえた。
 それでも以前の彼女なら迷いなく「いえ自分で行きます」と答えただろう。けれど今日は一瞬考えた後、石橋に連絡を入れていた。そして代わりの対応を依頼したのだ。
 博物館へ行った日から、彼女は変わろうとしている。
 人に何かを頼むこと、頼ることについて過剰に申し訳ないと思うのではなく、敬意を払ってお礼を言い、周りといい関係を築こうと頑張っている。
『そのくらい、大したことじゃない』と言う人もいるだろう。
 実際歩にとっては、それほど難しいと思わないコミュニケーションだ。けれどそんなことくらいとは思わない。育った環境が人格形成に大きく影響するのは、歩も実体験として知っている。
 素直な彼女なら尚更だろう。
 あの日の歩のアドバイスがよかったというよりは、自分の根本にある気持ちの元になる部分がなにかということに気づき整理できたのがよかったのだろう。
 アシスタントの河西との関係はずいぶんよくなっている。ふたりとも表情が明るくなり、業務に関する報連相がしっかりとできている。
 河西は、すっかり一華を憧れの先輩認定したようだ。
 優秀だけど不器用で周りに誤解されがちな優しい先輩を、自分がしっかりサポートすると決意して、空き時間があれば一華のデスクに来てあれこれ質問している。
 一華もそれが嬉しいようで、丁寧に答えている。心許せる相手になったのか笑顔も増えた。
 そうなると現金なもので、彼女を取り巻く周囲の人間も変わりはじめた。
 今まではどこか遠巻きにされているという空気だったが、彼女と関わることを喜ぶ社員が増えたのだ。
 その筆頭が石橋だ。
 その気持ちはよくわかる。
 彼女が誰よりも努力していることは同じ営業社員ならわかるはず。ひがむ気になれないほど、彼女の仕事に対する姿勢はひたむきだ。その彼女から「助かりました、ありがとう」と言われたら、嬉しいに決まっている。
 しかもあの可愛い笑顔つきで。
 メールを打ち終えて隣を見ると、一華がこちらを見ている。どうやら、作業をしている歩を気遣って話かけるタイミングを探していたようだ。
 なに?という合図で、ニコッと笑って首を傾げると、嬉しそうに口を開いた。
「石橋さんのこと、おしえてくれてありがとう」
「いや、たまたま気がついただけだから」
「今度からは、自分で確認するね」
 彼女のこの素直なところがいいと思う。
 お高く止まっているなんていったい誰が言い出したんだと怒りを覚えるくらいだ。
 自然と業務外で彼女に話しかける者もではじめた。彼女はそれにやや戸惑いながらも丁寧に答えている。
 つんとしているという誤解が溶けて、本当の彼女が知られ受け入れられつつある——オフィスの空気もよくなり、とても喜ばしい状況だ。
 ……わからないのは、なぜかそれを、自分が面白くないと感じていることだった。
 一華がいい子だということを周りに知ってもらい彼女が周囲に打ち解けることは、自分が望んでいたことのはずなのに。
 もちろん嬉しい気持ちもある。河西と話をしているのを見ると心の底からよかったなと感じる。
 けれどさっきの石橋とのやり取りには、もやもやとして苛立ちのようなものを感じている。
 ——いったいどういう感情なんだ?
 それがわからなくて、歩はここのところ悩まされ続けている。
 そもそも歩は、人間関係において苛立つことがあまりない。心の中に大きなトランポリンがあって誰かの悪意や汚い部分を目撃した時は、そこでふんわりと受け止める。そのままふわっと打ち返して心の外へやってしまう。
 そうするといつも気持ちはフラットでいられるのだ。円滑な人間関係を保つための秘訣だ。
 けれどどうしてか、今はそれができなかった。石橋のにやついた笑顔がどうにも頭から離れずにイライラする。
 もやもやしながら、隣の席の一華の横顔を盗み見た。
 背筋を伸ばして真剣な眼差しでモニターを見つめる姿に、歩の鼓動がスピードを上げた。
 ——結局、手遅れだったんだよな。
 心の中でため息をついた。
 博物館へ行く前に、これ以上彼女に惹かれまいと決意したことだ。
 踏みとどまろうなんて、無駄な決意、はじめから無理な話だったのだ。
 そしてそれは博物館へ行ったあの日、早々に気がついた。
『気を遣わない、歩くんなら大丈夫』
 おそらく深い意味などない彼女の言葉と、少し赤くなった頬を見た瞬間、自分は彼女に完全に落ちているのだと自覚した。
 その後は目を輝かせて展示を見る一華が可愛くて、ひとりでいることを楽しめる彼女の大切な時間に、そばにいられることがただ嬉しくて時間を忘れて展示を楽しんだ。
 もちろん、後ろめたさあったけれど、それでも一緒にいられる時間が嬉しくて。
 だからこそ彼女の悩みには、真剣にアドバイスをした。自分にとっては簡単でも彼女にとってはそうではない。できそうなことを考えて。それを素直に受け止めて、彼女は実行にうつして変わろうとしている。
 その姿を見た歩は、とりあえず今は自分の気持ちは後回しにして頑張る彼女を応援しようと心に決めた。
 それなのに、その変化を心から喜べない自分がいる……。
 まったく意味がわからなかった。
 彼女を好きならば、いい変化を喜びこそすれ苛立つ理由なんてどこにもないはずなのに。
 原因不明のもやもやを抱えながら、一心不乱に仕事に打ち込んでいるうちに、終業時間を迎える。
 繁忙期ではないこの時期は皆だいたい定時で帰る。人が少なくなったフロアにて、PCの電源を落として帰る支度をしていると石橋が話しかけてきた。
「歩、『昴』寄っていこうぜ。近藤も行くよな」
 昴は男だけの時によく行く居酒屋だ。
 すでに帰り支度を終えてスマホを触っていた後輩の近藤が「うす」と答えた。
「遅くなる前に帰るけどそれでいいなら。明日から俺出張だし」
 歩がそう答えた時、隣の一華が鞄を手に立ち上がる。帰るのだ。それを見て石橋が、お、という表情になった。
 なんとなく嫌な予感がして、さっさと行こうと立ち上がるが、それより早く石橋が口を開いた。
「加藤さんも行こうよ。営業で飲も」
「え?」
 一華が戸惑うように動きを止めた。
 視線を彷徨わせて逡巡しているのは、行く行かないの迷いではなくどう言えばいいのかわからないのだろう。それでも以前のようにスパッと断らないのは、社内での自分を取り巻く空気が変わっているのに気がついているからだ。
 ここで断ってしまえば、また元の気まずい関係になるかもしれないと心配している。
 彼女のことだから、自分のことのみを考えているわけではないはずだ。それによって、石橋が働きにくくならないかと心配しているのだろう。
 ——それなのに、気楽に誘うなよな。
 石橋とて、本気で一華が来るとは思っていないはず。ワンチャン来てくれたらラッキー、くらいの軽い気持ちなのだ。だからこそ歩は腹が立った。
 そんな気持ちで彼女を悩ませるなよ。
 歩は軽い苛立ちを覚えながら助け舟を出す。
「いや、男ばっかだし来にくいでしょ。昴は女性は微妙だよ。一華ちゃん、また今度誘うからね」
 一華が、ほっとしたように頷いた。
「また今度にします」
「ザンネーン!」
 それほど残念でもなく大袈裟に言う石橋に、一華が頭を下げた。
「誘ってくれてありがとうございます。気持ちは嬉しいです。楽しんで来てください」
 彼女に挨拶をして男三人は会社を出る。
 昴は、大通り公園に面した通りの大衆居酒屋だ。
 席が狭く、やや清潔感に欠けるため、女性は嫌がるけれど、メニューは量が多くて何よりうまい。
 たわいもない話をしながら、まずは腹ごしらえだ。アルコールが入ると石橋がやや下世話な話をしたがるのはいつものことだ。今日の話題はやはり一華のことだった。
「やっぱりいいよな、加藤さん。清楚だし、丁寧だし。いや、前々から俺はいいとは思ってたけどね?」 
「え? 石橋さん、そんなこと言ってました?」
 この手の話は好きじゃない。
 とはいえ、いつもなら、またはじまったくらいにしか思わない。自分としては興味がなくても合わせるくらいは簡単なのに、今日はどうにもそれができない。
 歩は苦々しい気持ちで、豚の角煮を突いた。
「思ってたのよ、内心で! だってあの見た目だよ? どう見てもいい子じゃん」
「見た目関係あるんすか」
「あるよ。そう思わん?」
「いや確かに美人だなーとは思いますけど。接点なさすぎて」
「いや、接点なくてもあの天使のような中身には気づくって」
 嘘つけ、と毒づきながら日本酒を煽る。
『見た目が冷たい』『言葉がきつい』と夏木と文句を言っていたくせに。
 一華が変った途端に態度を変えて……ともやもやしながら、さらにそれ自体にもやもやする。
 まただ。
 またこの謎の苛立ち。
 石橋が調子がいいのはいつものことだ。一華が陰口を言われているよりいいじゃないか。
 頭ではわかっているのに、気持ちは真逆の反応をする。今までしてきた恋愛の中で、相手にこんな気持ちを抱いたのははじめてだった。
 なんだこれ?
 カップを握り締めながら、考える歩の肩を石橋が組む。
「なあ、歩。加藤さんって彼氏いるのかな? お前なにか知ってる?」
「……知らないよ、なんで俺に聞くの」
「だってお前だけ下の名前で呼んでるじゃん」
「いや、それとこれとはべつだろ」
 突き放すような言い方になってしまったのは言いたくないと思ったからだ。いや、個人的な話を勝手にバラすわけにいかないのは事実だけど、言えないのではなく言いたくないとはっきり思った。
 普段は人にこんな言い方はしないのに、本当に今日はどうしてしまったのだろう。
 石橋がおや?っと言う表情になった。
「なに、歩疲れてんの?」
 いつもにこにこしている歩がそっけない言い方をしたことを不思議に思ったようだ。
 歩は慌てて笑みを浮かべた。
「いや、べつに。……や、ちょっと疲れてるのかも、ごめん。明日からの出張が気になって」
 それらしい理由をつけて取り繕う。
「ああ、福岡出張か。一週間だっけ?」
 石橋が疑うことなく納得した。
 担当している大手法律事務所が福岡に新事務所を構えることになったので、そのサポートとして歩は明日福岡へたつ。福岡にもキュレルの支店はあるから、一週間はそこで勤務することになる。
 近藤が目を輝かせた。
「めっちゃでかい事務所ですよね。さすがは歩さん。あんな大きなクライアントを任されるなんて」
「いやいや、やることは普通の事務所と一緒だから」
「福岡支店に知り合いいるの?」
「先輩がひとり、かな。他の人は多分現地採用だから……研修で会ったことがある人がいるくらいじゃないかな」
「げ、めっちゃアウェイってことか」
 キュレルは基本支店ごとに社員を採用する。転勤に伴う離職を防ぐためだ。だから同じ会社でも支店が変わればまるで別の会社のようになる。
 その中で一週間勤務するのだから、やりにくいのは確かだ。
「でもま、歩さんなら大丈夫ですよ。二日目には、勤務十年目ですって顔してそうです」
 後輩の言葉に、歩は笑って頷いた。
 はじめての人間の中でもコミュニケーションをとって円滑に仕事を進めるのは歩の得意分野だ。なんなら、好きな部分でもあるから、普段なら楽しみだと思うくらいだ。
 実際福岡出張が決まった一ヶ月前はまた新しい人と知り合えると、嬉しく思っていた。
 ……それなのに、出発を控えた今、どちらかというと憂うつな気分だった。
 原因は、探るまでもなく一華だ。情けないけど、認めないわけにはいかない。
 顔を見られないのがつまらないというのもあるが、それだけではなく、さっきのようなことが起こるのではないかという心配もある。
 石橋のような社員からの声かけがあったら、対処できるだろうか。いや俺が心配することじゃないんだけど……。
 またこれだ、と苦々しく思う。
 なんなんだ、この情緒の不安定さは。
 基本いつも気持ちを、機嫌のいいラインでキープしているのに、まったく自分らしくない。
「きっと歩くんのことだから、福岡支店でも人気者になっちゃうんだろーなー。そしたら夏木はまたご立腹だな」
 意味深な目でこちらを見る石橋に、歩は「なんでそこで夏木ちゃんが出てくるんだ」とツッコミを入れた。
 理由はわかるけれど、わからないふりをするしかない。
 石橋が「わかってるくせにー」と言って肘でわき腹を突いてくる。
「いや、本当にわかんねーし」
「わかってやれよー、それでなくても最近あいつかりかりしてるから、やりにくくてしょうがない。近藤もそう思うよな?」
「自分の口からはなにも言えないっす」
「あいつ、めっちゃ嫉妬深いからなー、歩くんを取られるのは嫌なのよ」
 石橋の言葉に内心でうんざりする。特別な関係でもないのに嫉妬されるのも意味不明だけれど、下世話な話として面白いおかしく話すのも苦手だ。
 いつものように心のトランポリンでふんわりと受け止めて飛ばしてしまおうと思いかけて、まてよ?と今の会話について考える。
 好きな相手が人気者になるのが面白くなくて、嫉妬して、かりかりする? 
 ——て、今の俺じゃないか?
 一華が周りに受け入れられて、好意を持たれはじめている。それを自分は面白くないと感じている。
 ——まじか。
 気がついたと同時にこれまでのもやもやに対する疑問が晴れていく。
 ——でも、本当に?
「夏木は本当、歩に執着してるからなー」
「え、でも付き合ってないんですよね」
「ないよ、社外でふたりで会ったこともないし」
 平静を装い答えるが、内心で動揺しまくりだった。
 これが世に言う"嫉妬"というやつか。
 もちろん知識としては知っている。けれど歩にとっては知らない感情だった。今までの彼女にも、感じたことは一度もない。
 友情と愛情は常に等しく成立し、どちらを優先させるものでもないと思っていたからだ。彼女が男友達と仲良くしている場面を見ても、とくになにも思わなかった。
「付き合ってもないのに、独占欲発揮されていい迷惑だよな。人気者はつらいね、歩くん」
 石橋が歩の肩をポンポンと叩く。
 夏木に対するその言葉に、胸をぐさぐさと刺されるのを感じながら、歩は曖昧に笑った。
< 16 / 24 >

この作品をシェア

pagetop