隣の彼はステイができない
* * *
午後七時、会社のビルのエントランスを出た一華は、ムッとした空気に包まれて、空を見上げて顔をしかめた。
今日はほとんど内勤だったから、余計にこの暑さが堪える。とはいえ、金曜日の終業後は一週間の内で一華が一番好きな時間だ。トモを亡くす前は、金曜のこの時間にエントランスを出るとわくわくと胸が弾んだ。
一週間のプチ打ち上げをどこで過ごそうかと考えを巡らせながら地下鉄の入口を目指したものだ。
トモを亡くしてからは、睡眠障害に陥るほど落ち込んで、それどころではなかった。
歩と会うようになってからは、寂しいというだけではなく、懐かしく思い出せるようになった。トモはもうこの世にはいないけれど、自分の中にいて、いつだって思い出せば会える。彼からもらったちびトモを抱きしめれば実体のない寂しさも慰められる。
もうほぼ回復したと言えるだろう。
だから歩が福岡出張に立って三日目の今日、久しぶりにおひとりさま時間を楽しもうと思っている。
それのに、どうしてかいつものように胸は弾まなかった。
大通り公園沿いの道を歩きながら、一華は不思議に思っていた。
いつもなら、あのカフェに行こうか、とかいやあのデリでお持ち帰りをしようとか、あれこれと頭に浮かぶのに、どうしてかそんな気にならなかった。
まだ、トモを失った傷が癒えていないのだろうか、と考えるけれど……。
とぼとぼと歩く一華の足は、角を曲がりあるビルの下で止まる。歩と一緒に行った深夜喫茶が入っているビルだ。
まだ日が暮れきっていない空の下、営業中であることを表す立て看板が出ている。
何度かふたりできたこの場所に自然と足が向いてしまったのは、この浮かない気分の原因が、歩と会えないことから来るものだからだ。
立て看板を見つめながら、一華は自分自身の変化に驚いていた。
いつの間に彼と過ごす時間をこんなに好きになっていたのだろう?
いや、彼と一緒にいるのが楽しいということは知っていた。いつもなら絶対にひとりで行くはずの博物館へ彼を誘ったくらいなのだから。
でもそれはあくまでも、トモを亡くし心が弱っている状況の応急措置的なものだと思っていた。トモの死から立ち直れば、またひとり時間を楽しめるはず。それに勝るものはないと思っていたのに……。
この深夜喫茶でおひとりさま時間を過ごすのもいい。はじめてここに来たあの夜に、ひとりだったらよかったのにと思ったことを実現するのだ。
……けれどどうしてか今はそれが、とてもつまらないことのように思えた。
浮かない気持ちを持て余したまま、鞄からスマホを取り出しメッセージアプリの画面を開く。歩からは、福岡に行っている間もほぼ毎日メッセージが届いていた。
内容はたわいもないことだ。
福岡は暑いとか、皆が方言を使うのが面白いとか。
その中にポツポツ仕事に関する心配のメッセージが混じっている。
業務に関して不安を漏らした一華を気にかけてくれているのだろう。とりわけ、今日の夕方に来たメッセージは珍しく長文だった。
《石橋ちゃんには、無理に飲み会に誘うなよって言っておいたけど、大丈夫そう? もし誘われたら多少強く断っても大丈夫だから。変な空気になっても、俺が帰ったらフォローするから。安心して》
金曜日は帰りに連れだって飲みに行く人が多いから、気にかけてくれたのだろう。
なんか保護者みたい、とくすりと笑ってしまう。彼からのメッセージをスクロールして読み返すと、今の浮かない気持ちが少し慰められる。
けれど同時に、そこはかとない不安に襲われる。
彼の不在がこんなにも心細いなんて、いつの間に自分はこんなに彼に頼ってしまっていたのだろう?
弱っている時は誰かに頼っていいとおしえられそれはそうだと思うけれど、ずっと頼りっぱなしでいるわけにいかないのに……。
——やっぱり今日は帰ろう。
そう思い再び歩き出そうとした時。
「加藤さん?」
名前を呼ばれて振り返る。見知った顔がそこにいた。
夏木だ。友人と思しき数人の女性たちと一緒にいる。だが、一華は知らない顔だった。同じ会社の社員ではない。
「あ、お疲れさまです」
一華が挨拶をすると、彼女はそれには答えずに友達に「ちょっと先に言ってて」と告げる。すると彼らは、深夜喫茶があるビルの階段を上っていく。どうやら、二階の深夜喫茶に行くところだったようだ。
だとしても、なぜ先に行かせたのだろう?
驚く一華の視線の先で夏木がこちらに向き直る。
「加藤さんも、この店に入るつもりだった?」
「……いえ、通りかかっただけです」
戸惑いながら首を横に振る。
どこか不穏な雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。
一瞬、業務のことでなにかあるのだろうかと身構える。
ここのところ、彼女の一華に対する態度は前にも増して冷淡だ。
今までの河西へのフォローを改めてお礼を言った際も、ちらりとこちらを見ただけで返事もしてもらえなかった。
とはいえ具体的な心当たりはない。そもそも彼女と業務で関わることがないからだ。
「そう? それにしては入るかどうか迷ってたみたいだけど。福岡出張の歩に会えなくて寂しくて彼と会ってた喫茶店に来ちゃった……みたいな感じじゃないの?」
唐突に出た名前に、一華は目を見開いた。
今の今まで考えていたことを言い当てられて、動揺しすぐには答えられない。
けれどそれでは、ほとんど答えを言っているようなものだ。夏木がふふっと笑った。
「やっぱり」
思っていたことを言い当てられたのも驚きだが、彼女が一華と歩がここへ来ていることを知っているのも意外だった。
はっきりと言葉にして確認していたわけではないけれど、歩と一華がふたりで会っていることは、なんとなく会社では内緒にしようという暗黙の了解があると思っていたからだ。
思わず口から疑問が漏れる。
「どうして……それ……」
「どうしてって、歩に聞いたに決まってるじゃない。なに? もしかしてふたりだけの秘密だとでも思ってた?」
その言葉にどうしてか胸をぐさっと刺されたような痛みが走る。そんな風に思っているつもりはなかったけれど、今傷ついているということはそうなのだろう。
なにも答えられない一華に、夏木がくすくすと笑う。そして、大袈裟にため息をついた。
「しょーがないやつ。だから気をつけなって、いつも言ってるのに」
それはひとり言のようでありながら、明らかに一華に聞かせようと呟いた言葉だった。
思わず一華は眉を寄せる。
ただでさえテンポよく会話するのは苦手なのに、今日の夏木はなにを言いたいのか意図がまったく見えない。どんどん不安になっていく。
そんな一華を夏木がバカにしたように見た。
「あいつ、優しいでしょ」
「……え?」
「優しいから放っておけないのよ、ぼっちのこと」
ぼっちとは自分のことだろうか?
「どうしても気になるんだって、で、話しかけにいって皆んなの輪の中に入れたがる。根っからのムードメーカーなんだよね。大学でもしょっちゅうそういうことしてた、あれはもう趣味みたいなもんだよね。可哀想って思うのかな? ……私にはまったく理解できないけど」
うっすらと笑って一華を見る。
その言葉に、一華は自分の心が急速に冷えていくのを感じた。
"ぼっちを可哀想に思って皆んなの輪の中に入れたがる"
まさしく歩が一華に対してしたことだ。
彼女は自分を揶揄しているのだろう。そしてそれはまったくなにも間違っていない。
一華としてもわかっていた。ほかでもない彼の口から聞いたではないか。
"飲み会に来ない一華が心配だった"と。
それなのにどうしてこんなに胸が痛いのだろう?
「それはまぁべつにいいと思うんだけどね。ボランティアみたいなもんなんだから。でもときどきいるんだよねー。あいつを恋愛的な意味で本気で好きなっちゃう子が」
一華の背中を汗が伝う。夏の夜の路上は、まったく気温が下がらずに相変わらず蒸し暑い。それなのに身体が冷えて指先が冷たくなっていく。
「わからないでもないけどね? 昨日までぼっちだったのに、いきなり人気者のイケメンに優しくされるんだから。勘違いしちゃうのも無理はない。大学の頃は、勘違い女製造機って呼ばれてたんだから。だからほどほどにしなっていっつも言ってるのに、どうしても可哀想な子を見ると気になって仕方がないみたい。バカだよね、自分がそこそこイケてるってこと忘れちゃうのかな」
夏木が、肩をすくめた。
そして一段声を低くした。
「期待しちゃダメだよ、あいつの方はそんなつもり全然ないから。彼女はいらないって公言してるし。優しくしてくれるのは本当にただのボ・ラ・ン・ティ・ア」
わかった?というように彼女は小さく首を傾げた。
そしてくるりとこちらに背を向けてビルの階段を上っていった。
一華はその場で立ち尽くす。
足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚に、怖くてそこから動けない。
"あなたこそ勘違いしている、自分は歩にそんな気持ちは抱いていない"と彼女の言葉を笑い飛ばすことができない。
言われた言葉に胸を切りつけられて、そこが痛くてたまらない。
歩がボランティア精神から一華に近づいたことは知っていた。終電を逃したあの夜に、彼は下心はないとはっきり言っていたし、今までの言動でもそんな素振りはまったくなかった。
だから夏木の言うことは一部間違いで、彼にはまったく落ち度はない。
でもそれ以外の部分は……?
『ときどきいるんだよねー。あいつを恋愛的な意味で本気で好きなっちゃう子が』
歩には一華以外の友達が大勢いることも、オフィスで浮いている一華を心配して話をするようになったのも、ふたりで会うのは睡眠障害解消するまでだということも、すでに知っていることなのに、今ここで改めて口にされて、こんなにも傷ついているのは自分が彼を好きになってしまったから……?
まさかそんな、と自分の気持ちに愕然とする。けれどそうだとすれば、この胸の痛みと沈んだまま一向に浮上しないこの気持ちは、腑に落ちた。
——なんで? 全然そんなつもりじゃなかったのに……。
そう、一華だってはじめは確実にそんな気持ちは全然なかった。彼の提案を受け入れたのは、トモを失った寂しさから立ち直るために必要だと思ったから。
それなのに、自分でも気が付かないうちに、彼のことを特別に想うようになっていたなんて。
頭の中でいつからこんな風に思うようになったのか、どうしてそうなったのか原因を探ろうとするけれどただ混乱するばかりだった。
『昨日までぼっちだったのに、いきなり人気者のイケメンに優しくされるんだから』
自分を揶揄する屈辱的な言葉が胸の中をぐるぐる回る。悔しいけれど、その通りなのだろうか。
最悪なのは、この気持ちの先に未来はないということが、はっきりとわかっていることだ。
夏木の言う通り、歩の方は一華にそんな気はまったくない。
一華が歩を好きになってしまったと知ったら、困惑するだろう。優しい彼のことだから、態度には出さないかもしれない。でも同じことだ。
彼のおかげでトモを失った悲しみから立ち直れて仕事もうまくいきつつある。今のこの状況は間違いなく彼のおかげなのに……。
煩わしい気持ちにさせてしまうなんて、そんなの、恩を仇で返すようなものだ。
どうしよう?
どうすればいい?
行き交う人の流れを見つめながら、今からでも後戻りできるだろうか、と考える。
彼を好きになってしまったこの気持ちをなかったことにする。そして以前のようにただの同僚として付き合っていく。
そのためにできることはなんだろう?
日が暮れていく街の喧騒を見つめながら一華は考えていた。
午後七時、会社のビルのエントランスを出た一華は、ムッとした空気に包まれて、空を見上げて顔をしかめた。
今日はほとんど内勤だったから、余計にこの暑さが堪える。とはいえ、金曜日の終業後は一週間の内で一華が一番好きな時間だ。トモを亡くす前は、金曜のこの時間にエントランスを出るとわくわくと胸が弾んだ。
一週間のプチ打ち上げをどこで過ごそうかと考えを巡らせながら地下鉄の入口を目指したものだ。
トモを亡くしてからは、睡眠障害に陥るほど落ち込んで、それどころではなかった。
歩と会うようになってからは、寂しいというだけではなく、懐かしく思い出せるようになった。トモはもうこの世にはいないけれど、自分の中にいて、いつだって思い出せば会える。彼からもらったちびトモを抱きしめれば実体のない寂しさも慰められる。
もうほぼ回復したと言えるだろう。
だから歩が福岡出張に立って三日目の今日、久しぶりにおひとりさま時間を楽しもうと思っている。
それのに、どうしてかいつものように胸は弾まなかった。
大通り公園沿いの道を歩きながら、一華は不思議に思っていた。
いつもなら、あのカフェに行こうか、とかいやあのデリでお持ち帰りをしようとか、あれこれと頭に浮かぶのに、どうしてかそんな気にならなかった。
まだ、トモを失った傷が癒えていないのだろうか、と考えるけれど……。
とぼとぼと歩く一華の足は、角を曲がりあるビルの下で止まる。歩と一緒に行った深夜喫茶が入っているビルだ。
まだ日が暮れきっていない空の下、営業中であることを表す立て看板が出ている。
何度かふたりできたこの場所に自然と足が向いてしまったのは、この浮かない気分の原因が、歩と会えないことから来るものだからだ。
立て看板を見つめながら、一華は自分自身の変化に驚いていた。
いつの間に彼と過ごす時間をこんなに好きになっていたのだろう?
いや、彼と一緒にいるのが楽しいということは知っていた。いつもなら絶対にひとりで行くはずの博物館へ彼を誘ったくらいなのだから。
でもそれはあくまでも、トモを亡くし心が弱っている状況の応急措置的なものだと思っていた。トモの死から立ち直れば、またひとり時間を楽しめるはず。それに勝るものはないと思っていたのに……。
この深夜喫茶でおひとりさま時間を過ごすのもいい。はじめてここに来たあの夜に、ひとりだったらよかったのにと思ったことを実現するのだ。
……けれどどうしてか今はそれが、とてもつまらないことのように思えた。
浮かない気持ちを持て余したまま、鞄からスマホを取り出しメッセージアプリの画面を開く。歩からは、福岡に行っている間もほぼ毎日メッセージが届いていた。
内容はたわいもないことだ。
福岡は暑いとか、皆が方言を使うのが面白いとか。
その中にポツポツ仕事に関する心配のメッセージが混じっている。
業務に関して不安を漏らした一華を気にかけてくれているのだろう。とりわけ、今日の夕方に来たメッセージは珍しく長文だった。
《石橋ちゃんには、無理に飲み会に誘うなよって言っておいたけど、大丈夫そう? もし誘われたら多少強く断っても大丈夫だから。変な空気になっても、俺が帰ったらフォローするから。安心して》
金曜日は帰りに連れだって飲みに行く人が多いから、気にかけてくれたのだろう。
なんか保護者みたい、とくすりと笑ってしまう。彼からのメッセージをスクロールして読み返すと、今の浮かない気持ちが少し慰められる。
けれど同時に、そこはかとない不安に襲われる。
彼の不在がこんなにも心細いなんて、いつの間に自分はこんなに彼に頼ってしまっていたのだろう?
弱っている時は誰かに頼っていいとおしえられそれはそうだと思うけれど、ずっと頼りっぱなしでいるわけにいかないのに……。
——やっぱり今日は帰ろう。
そう思い再び歩き出そうとした時。
「加藤さん?」
名前を呼ばれて振り返る。見知った顔がそこにいた。
夏木だ。友人と思しき数人の女性たちと一緒にいる。だが、一華は知らない顔だった。同じ会社の社員ではない。
「あ、お疲れさまです」
一華が挨拶をすると、彼女はそれには答えずに友達に「ちょっと先に言ってて」と告げる。すると彼らは、深夜喫茶があるビルの階段を上っていく。どうやら、二階の深夜喫茶に行くところだったようだ。
だとしても、なぜ先に行かせたのだろう?
驚く一華の視線の先で夏木がこちらに向き直る。
「加藤さんも、この店に入るつもりだった?」
「……いえ、通りかかっただけです」
戸惑いながら首を横に振る。
どこか不穏な雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。
一瞬、業務のことでなにかあるのだろうかと身構える。
ここのところ、彼女の一華に対する態度は前にも増して冷淡だ。
今までの河西へのフォローを改めてお礼を言った際も、ちらりとこちらを見ただけで返事もしてもらえなかった。
とはいえ具体的な心当たりはない。そもそも彼女と業務で関わることがないからだ。
「そう? それにしては入るかどうか迷ってたみたいだけど。福岡出張の歩に会えなくて寂しくて彼と会ってた喫茶店に来ちゃった……みたいな感じじゃないの?」
唐突に出た名前に、一華は目を見開いた。
今の今まで考えていたことを言い当てられて、動揺しすぐには答えられない。
けれどそれでは、ほとんど答えを言っているようなものだ。夏木がふふっと笑った。
「やっぱり」
思っていたことを言い当てられたのも驚きだが、彼女が一華と歩がここへ来ていることを知っているのも意外だった。
はっきりと言葉にして確認していたわけではないけれど、歩と一華がふたりで会っていることは、なんとなく会社では内緒にしようという暗黙の了解があると思っていたからだ。
思わず口から疑問が漏れる。
「どうして……それ……」
「どうしてって、歩に聞いたに決まってるじゃない。なに? もしかしてふたりだけの秘密だとでも思ってた?」
その言葉にどうしてか胸をぐさっと刺されたような痛みが走る。そんな風に思っているつもりはなかったけれど、今傷ついているということはそうなのだろう。
なにも答えられない一華に、夏木がくすくすと笑う。そして、大袈裟にため息をついた。
「しょーがないやつ。だから気をつけなって、いつも言ってるのに」
それはひとり言のようでありながら、明らかに一華に聞かせようと呟いた言葉だった。
思わず一華は眉を寄せる。
ただでさえテンポよく会話するのは苦手なのに、今日の夏木はなにを言いたいのか意図がまったく見えない。どんどん不安になっていく。
そんな一華を夏木がバカにしたように見た。
「あいつ、優しいでしょ」
「……え?」
「優しいから放っておけないのよ、ぼっちのこと」
ぼっちとは自分のことだろうか?
「どうしても気になるんだって、で、話しかけにいって皆んなの輪の中に入れたがる。根っからのムードメーカーなんだよね。大学でもしょっちゅうそういうことしてた、あれはもう趣味みたいなもんだよね。可哀想って思うのかな? ……私にはまったく理解できないけど」
うっすらと笑って一華を見る。
その言葉に、一華は自分の心が急速に冷えていくのを感じた。
"ぼっちを可哀想に思って皆んなの輪の中に入れたがる"
まさしく歩が一華に対してしたことだ。
彼女は自分を揶揄しているのだろう。そしてそれはまったくなにも間違っていない。
一華としてもわかっていた。ほかでもない彼の口から聞いたではないか。
"飲み会に来ない一華が心配だった"と。
それなのにどうしてこんなに胸が痛いのだろう?
「それはまぁべつにいいと思うんだけどね。ボランティアみたいなもんなんだから。でもときどきいるんだよねー。あいつを恋愛的な意味で本気で好きなっちゃう子が」
一華の背中を汗が伝う。夏の夜の路上は、まったく気温が下がらずに相変わらず蒸し暑い。それなのに身体が冷えて指先が冷たくなっていく。
「わからないでもないけどね? 昨日までぼっちだったのに、いきなり人気者のイケメンに優しくされるんだから。勘違いしちゃうのも無理はない。大学の頃は、勘違い女製造機って呼ばれてたんだから。だからほどほどにしなっていっつも言ってるのに、どうしても可哀想な子を見ると気になって仕方がないみたい。バカだよね、自分がそこそこイケてるってこと忘れちゃうのかな」
夏木が、肩をすくめた。
そして一段声を低くした。
「期待しちゃダメだよ、あいつの方はそんなつもり全然ないから。彼女はいらないって公言してるし。優しくしてくれるのは本当にただのボ・ラ・ン・ティ・ア」
わかった?というように彼女は小さく首を傾げた。
そしてくるりとこちらに背を向けてビルの階段を上っていった。
一華はその場で立ち尽くす。
足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚に、怖くてそこから動けない。
"あなたこそ勘違いしている、自分は歩にそんな気持ちは抱いていない"と彼女の言葉を笑い飛ばすことができない。
言われた言葉に胸を切りつけられて、そこが痛くてたまらない。
歩がボランティア精神から一華に近づいたことは知っていた。終電を逃したあの夜に、彼は下心はないとはっきり言っていたし、今までの言動でもそんな素振りはまったくなかった。
だから夏木の言うことは一部間違いで、彼にはまったく落ち度はない。
でもそれ以外の部分は……?
『ときどきいるんだよねー。あいつを恋愛的な意味で本気で好きなっちゃう子が』
歩には一華以外の友達が大勢いることも、オフィスで浮いている一華を心配して話をするようになったのも、ふたりで会うのは睡眠障害解消するまでだということも、すでに知っていることなのに、今ここで改めて口にされて、こんなにも傷ついているのは自分が彼を好きになってしまったから……?
まさかそんな、と自分の気持ちに愕然とする。けれどそうだとすれば、この胸の痛みと沈んだまま一向に浮上しないこの気持ちは、腑に落ちた。
——なんで? 全然そんなつもりじゃなかったのに……。
そう、一華だってはじめは確実にそんな気持ちは全然なかった。彼の提案を受け入れたのは、トモを失った寂しさから立ち直るために必要だと思ったから。
それなのに、自分でも気が付かないうちに、彼のことを特別に想うようになっていたなんて。
頭の中でいつからこんな風に思うようになったのか、どうしてそうなったのか原因を探ろうとするけれどただ混乱するばかりだった。
『昨日までぼっちだったのに、いきなり人気者のイケメンに優しくされるんだから』
自分を揶揄する屈辱的な言葉が胸の中をぐるぐる回る。悔しいけれど、その通りなのだろうか。
最悪なのは、この気持ちの先に未来はないということが、はっきりとわかっていることだ。
夏木の言う通り、歩の方は一華にそんな気はまったくない。
一華が歩を好きになってしまったと知ったら、困惑するだろう。優しい彼のことだから、態度には出さないかもしれない。でも同じことだ。
彼のおかげでトモを失った悲しみから立ち直れて仕事もうまくいきつつある。今のこの状況は間違いなく彼のおかげなのに……。
煩わしい気持ちにさせてしまうなんて、そんなの、恩を仇で返すようなものだ。
どうしよう?
どうすればいい?
行き交う人の流れを見つめながら、今からでも後戻りできるだろうか、と考える。
彼を好きになってしまったこの気持ちをなかったことにする。そして以前のようにただの同僚として付き合っていく。
そのためにできることはなんだろう?
日が暮れていく街の喧騒を見つめながら一華は考えていた。