隣の彼はステイができない
* * *
「お疲れさまでーす」
歩がフロアに向かって声をかけると、「お疲れさまです」という声が次々に返ってくる。
何人かの社員は顔を上げてにっこりと笑ってくれている。
彼らにもう一度挨拶をして、歩は福岡支社を出た。
勤務開始から三日目、金曜日の夜である。
業務自体は順調に進んでいて、月曜日にすべてのシステムが問題なく動いたのを確認したら、戻ることになっている。
当初の予想通り福岡支店の社員は、かつての先輩を除いてははじめて見る顔ばかりだったが、それもとくに問題ない。
石橋が言っていたようなアウェイ感もまったく感じなかった。
泊まっているシティホテルの方向へ向かって歩き出そうとした時。
「あれ、歩、もう帰るの?」
聞き覚えのある声に呼びかけられて足を止めた。
福岡支店で唯一の顔見知りの先輩だ。外回りから帰社したところのようだ。
「はい、今日必要な部分は問題なく稼働しましたので。あとは週明けに始動させるだけです」
答えると、肩を抱かれる。
「いやいや、それを言ってるんじゃないって。飲みにも行かないで帰っちゃうの?ってことだよ。歩くんともあろう者が金曜日の夜にひとりなんてあり得ないでしょ」
「え、どういうキャラっすか」
わざとおどけて歩は返す。とはいえ、彼の言うことはあながち間違いではない。繁忙期ならともかく、ほとんど定時で帰るのに、金曜の夜に自分がひとりで会社を後にすることはあまりない。
「なにそれ、俺がいない間に枯れちゃった?」
「いやいやいや、俺こっちに知り合いいないですし」
とはいえここは福岡支社だ。べつに不自然ではない。
「そんなこと言ってー俺は無視かよ。それに歩くんと個人的にお話ししたい子はフロアにたくさんいましたよ? そこのカフェで待ってろよ。今からメンバー集めてくるから」
いつもなら二つ返事で頷くところだ。けれど今はそうできなかった。本当のことを言うと、日中の他の社員との会話でもそういう話になりかけた。
何人かの社員と雑談をしている際に、美味しいもつ鍋の店を知ってると言われたのだ。
いつもの歩なら「じゃあ連れていってくださいよ」と迷いなく言っただろう。相手の社員たちがどういう人たちかは不明だが、知らないからこそ行く意味がある。
けれどどうしてか、そんな気になれずそのまま会話を流した。そして仕事が終わり次第オフィスを出て来たのである。
いつもの自分らしくない行動だ。
そして今もこの先輩の提案に頷けないでいる。
「——や、すみません。これから、ちょっと行きたいところがあるので」
「マジかよ、付き合いわりいな。歩がいたら、女いっぱい来るのに」
「すみません」
もう一度謝って歩は再び歩き出した。
そして見知らぬネオンの看板を見つめて通りをひとり歩きながら、自分の気持ちの変化について考えた。
さっきの先輩は、もとは同じ支店だったが男女トラブルで転勤していった人物だ。『女が来るのに』という言葉から、歩を餌に人を集めようという考えが透けて見えた。
とはいえ、いつもならそれはそれと心のトランポリンでふんわり受け止め、飲み会に参加してたはず……。
今まで、なにより大切にしてきたはじめましての人と知り合うチャンスを嬉しいとは思えず、人の輪を広げていくことがどうしてかつまらないことのように思える。
同じ会社の社員なのだから円滑な人間関係は築くべきだとは思うけれど、今ある以上の交流が今の自分に必要だとは思えなかった。
鞄からスマホを出して画面を開く。
ここのところスマホを開くと一番に一華とのメッセージのやり取りを確認する癖がついている。
福岡に来てからは、一華の様子が心配であれこれと尋ねてしまっている。終業後は石橋に捕まらずに帰れたかを毎日それとなく尋ねているのが自分でもおかしいくらいだった。
今日の夕方送った長文のメッセージに、短いメッセージが返ってきている。
《大丈夫です。お疲れ様です》
それが普段よりも素っ気なく感じて、途端に歩は落ち着かない気持ちになる。過保護な歩に嫌気がさしたのだろうか。
なにかフォローをした方がいいのでは、と思い、じっと画面を見つめる。
そしてそんな自分に、中学生かよと自嘲的な笑いが漏れた。
相手の言葉の裏を読んでネガティブな解釈をしてしまう。こんなことも、今までの恋愛ではあまりないことだった。
一華と話すようになって、彼女を好きになり、どうも気持ちが安定しない。彼女に対してもそうだが、それ以外のことに関しても。
スマホを閉じて、それがいったいなぜなのかと考えを巡らせた。
ひとりでいるのが嫌だった。
ひとりになるのが怖かった。
そうなりたくなくて、人との関わりを大切にした。
けれどそれは同時に、相手の見たくないところから目を背けることでもあった。
人間には必ず嫌なところがある。だからこそ歩は、広く付き合いながらも、相手の深いところまでは手をのばさず、浅い付き合いしかしてこなかった。そこに触れることは円滑な人間関係の邪魔になるから。
博物館へ行ったあの日、自分自身の悩みや弱いところを口にする彼女は、人との会話が苦手だと言いつつ、周りの人の心を真剣に考えているように思えた。
誰にも嫌な思いをしてほしくないと考えるのは、他人を自分と同じ心がある個人として捉えている証だ。
その姿勢に、新鮮な思いを抱いたと同時に、自分はどうだろう?とこれまでの自分に疑問を感じたのだ。
その場の空気を大切にして、嫌なことから目を背けて、言うべきことに蓋をして。
そんな上辺だけの付き合いに、いったいなんの意味があるのだろう?
真剣に悩み、時に失敗しながら、河西との信頼関係を築いていった一華の姿勢を目の当たりにした今、それに大きな疑問を感じている……。
ため息をついてスマホを閉じる。
コンビニに寄って適当な食料を調達してホテルに帰る。
窓の外に広がるネオンの街を見ていると、ひとり時間を楽しむ時、自分自身と会話すると言っていた一華の言葉が頭に浮かんだ。
考えてみれば自分は、こうやって自分自身の内面と向き合ってこなかったかもしれない。
いつも楽しい加藤歩。
穏やかでノリのいい人気者。
周囲からの言葉を、そのまま本当の自分だと信じて疑わなかったから……。
ふと歩はこの街が昔住んでいた場所に近いのを思い出す。幼少期に何度も繰り返した引越しで暮らした街はたくさんある。そのひとつひとつに思い入れはあまりない。もう記憶も曖昧な場所もあるくらいだ。
たくさんの街とたくさんの友達が通り過ぎていった自分の人生を振り返ることも今までなかったけれど、あの街は自分にとって少し特別な場所で……。
再び歩はスマホを出して、地図アプリを起動した。
「お疲れさまでーす」
歩がフロアに向かって声をかけると、「お疲れさまです」という声が次々に返ってくる。
何人かの社員は顔を上げてにっこりと笑ってくれている。
彼らにもう一度挨拶をして、歩は福岡支社を出た。
勤務開始から三日目、金曜日の夜である。
業務自体は順調に進んでいて、月曜日にすべてのシステムが問題なく動いたのを確認したら、戻ることになっている。
当初の予想通り福岡支店の社員は、かつての先輩を除いてははじめて見る顔ばかりだったが、それもとくに問題ない。
石橋が言っていたようなアウェイ感もまったく感じなかった。
泊まっているシティホテルの方向へ向かって歩き出そうとした時。
「あれ、歩、もう帰るの?」
聞き覚えのある声に呼びかけられて足を止めた。
福岡支店で唯一の顔見知りの先輩だ。外回りから帰社したところのようだ。
「はい、今日必要な部分は問題なく稼働しましたので。あとは週明けに始動させるだけです」
答えると、肩を抱かれる。
「いやいや、それを言ってるんじゃないって。飲みにも行かないで帰っちゃうの?ってことだよ。歩くんともあろう者が金曜日の夜にひとりなんてあり得ないでしょ」
「え、どういうキャラっすか」
わざとおどけて歩は返す。とはいえ、彼の言うことはあながち間違いではない。繁忙期ならともかく、ほとんど定時で帰るのに、金曜の夜に自分がひとりで会社を後にすることはあまりない。
「なにそれ、俺がいない間に枯れちゃった?」
「いやいやいや、俺こっちに知り合いいないですし」
とはいえここは福岡支社だ。べつに不自然ではない。
「そんなこと言ってー俺は無視かよ。それに歩くんと個人的にお話ししたい子はフロアにたくさんいましたよ? そこのカフェで待ってろよ。今からメンバー集めてくるから」
いつもなら二つ返事で頷くところだ。けれど今はそうできなかった。本当のことを言うと、日中の他の社員との会話でもそういう話になりかけた。
何人かの社員と雑談をしている際に、美味しいもつ鍋の店を知ってると言われたのだ。
いつもの歩なら「じゃあ連れていってくださいよ」と迷いなく言っただろう。相手の社員たちがどういう人たちかは不明だが、知らないからこそ行く意味がある。
けれどどうしてか、そんな気になれずそのまま会話を流した。そして仕事が終わり次第オフィスを出て来たのである。
いつもの自分らしくない行動だ。
そして今もこの先輩の提案に頷けないでいる。
「——や、すみません。これから、ちょっと行きたいところがあるので」
「マジかよ、付き合いわりいな。歩がいたら、女いっぱい来るのに」
「すみません」
もう一度謝って歩は再び歩き出した。
そして見知らぬネオンの看板を見つめて通りをひとり歩きながら、自分の気持ちの変化について考えた。
さっきの先輩は、もとは同じ支店だったが男女トラブルで転勤していった人物だ。『女が来るのに』という言葉から、歩を餌に人を集めようという考えが透けて見えた。
とはいえ、いつもならそれはそれと心のトランポリンでふんわり受け止め、飲み会に参加してたはず……。
今まで、なにより大切にしてきたはじめましての人と知り合うチャンスを嬉しいとは思えず、人の輪を広げていくことがどうしてかつまらないことのように思える。
同じ会社の社員なのだから円滑な人間関係は築くべきだとは思うけれど、今ある以上の交流が今の自分に必要だとは思えなかった。
鞄からスマホを出して画面を開く。
ここのところスマホを開くと一番に一華とのメッセージのやり取りを確認する癖がついている。
福岡に来てからは、一華の様子が心配であれこれと尋ねてしまっている。終業後は石橋に捕まらずに帰れたかを毎日それとなく尋ねているのが自分でもおかしいくらいだった。
今日の夕方送った長文のメッセージに、短いメッセージが返ってきている。
《大丈夫です。お疲れ様です》
それが普段よりも素っ気なく感じて、途端に歩は落ち着かない気持ちになる。過保護な歩に嫌気がさしたのだろうか。
なにかフォローをした方がいいのでは、と思い、じっと画面を見つめる。
そしてそんな自分に、中学生かよと自嘲的な笑いが漏れた。
相手の言葉の裏を読んでネガティブな解釈をしてしまう。こんなことも、今までの恋愛ではあまりないことだった。
一華と話すようになって、彼女を好きになり、どうも気持ちが安定しない。彼女に対してもそうだが、それ以外のことに関しても。
スマホを閉じて、それがいったいなぜなのかと考えを巡らせた。
ひとりでいるのが嫌だった。
ひとりになるのが怖かった。
そうなりたくなくて、人との関わりを大切にした。
けれどそれは同時に、相手の見たくないところから目を背けることでもあった。
人間には必ず嫌なところがある。だからこそ歩は、広く付き合いながらも、相手の深いところまでは手をのばさず、浅い付き合いしかしてこなかった。そこに触れることは円滑な人間関係の邪魔になるから。
博物館へ行ったあの日、自分自身の悩みや弱いところを口にする彼女は、人との会話が苦手だと言いつつ、周りの人の心を真剣に考えているように思えた。
誰にも嫌な思いをしてほしくないと考えるのは、他人を自分と同じ心がある個人として捉えている証だ。
その姿勢に、新鮮な思いを抱いたと同時に、自分はどうだろう?とこれまでの自分に疑問を感じたのだ。
その場の空気を大切にして、嫌なことから目を背けて、言うべきことに蓋をして。
そんな上辺だけの付き合いに、いったいなんの意味があるのだろう?
真剣に悩み、時に失敗しながら、河西との信頼関係を築いていった一華の姿勢を目の当たりにした今、それに大きな疑問を感じている……。
ため息をついてスマホを閉じる。
コンビニに寄って適当な食料を調達してホテルに帰る。
窓の外に広がるネオンの街を見ていると、ひとり時間を楽しむ時、自分自身と会話すると言っていた一華の言葉が頭に浮かんだ。
考えてみれば自分は、こうやって自分自身の内面と向き合ってこなかったかもしれない。
いつも楽しい加藤歩。
穏やかでノリのいい人気者。
周囲からの言葉を、そのまま本当の自分だと信じて疑わなかったから……。
ふと歩はこの街が昔住んでいた場所に近いのを思い出す。幼少期に何度も繰り返した引越しで暮らした街はたくさんある。そのひとつひとつに思い入れはあまりない。もう記憶も曖昧な場所もあるくらいだ。
たくさんの街とたくさんの友達が通り過ぎていった自分の人生を振り返ることも今までなかったけれど、あの街は自分にとって少し特別な場所で……。
再び歩はスマホを出して、地図アプリを起動した。