貴方と奏でる夜想曲 貴女に奏でる小夜曲
“かわいい”は正義
結婚式のお呼ばれも、もう何度目になるだろう?
でも、今日のお式は特別。
だって、新婦の平井真秀は、私のかけがえのない親友だから。
既に入籍しているので、正式にはもう平井ではなく松尾だけど、そこはそれ。
お相手は32歳で精神科が専門のお医者様。
二人の馴れ初めは、まあ語ると長くなるので置いといて……。
(いよいよなんだ……)
真秀は幼稚園からの友人で、独身組で最後の同期の桜だった。
晩婚化が叫ばれる昨今なれど、そんなものはどこ吹く風。
私の周りはあれよあれよと結婚し、残ったのは真秀と私の二人だけ。
とはいえ、松尾さんとずっと結婚前提のお付き合いをして愛を温めてきた真秀と、恋愛下手で拗らせ女子の私ではぜんぜん違う。
四月、新緑の輝くこの良き日、真秀は皆の祝福を受けて嫁ぎゆく――。
(私、ついにほんとにひとりぼっちだ……)
私こと白石瑞樹は28歳。
といっても、今月中には29歳になってしまう、なんとも儚い28歳。
そして、親友の幸せが心から嬉しいのに、淋しさに途方にくれる、もうすぐ29の28歳。
結婚披露宴は、それは格調高い豪華なものだった。
だって、余興にクラシック(弦楽四重奏)の生演奏だなんて!
しかも、演奏するのは新郎の医学部時代のご友人というからこれまたすごい。
《さて、演奏していただきます曲はチャイコフスキー作曲『くるみわり人形』より『花のワルツ』です!》
楽器を携え現れた男性たちは皆、長身で、仕立ての良いスーツをきれいに着こなして、知的で上品な風格はまさにエリート医師そのもの。
そして、そのカルテットの演奏たるや――。
(うそ!? すっごい上手い!)
演奏は間違いなく誰もが認めざるを得ない素晴らしいクオリティで。
私は中でも、ビオラの演奏に心を奪われた――。
ビオラはバイオリンとチェロの間の音域を担当する楽器で、正直ちょっと地味だ。
でも、しっかりと影ながら音楽を支えるその感じに私は心惹かれてしまうのだ。
弾いているのは、涼し気な目元と眼鏡が印象的な、ちょっと神経質そうな男の人。
わりと耳がよい私は、耳敏くビオラの音ばかり追いかけながら、目では繊細かつ大胆に弓を引く手と、ビオラの弦を押さえる美しい指をうっとりと眺めた。
(ほんとう、なんて美しいのだろう……)
数少ない見せ場ではしっかりと聞かせて、その他のところでは職人よろしく丁寧な仕事をする。
華やかとか、綺羅びやかとか、そういう派手さはないけれど、誠実な奥ゆかしさが美しい。
(やっぱり好きだな、ビオラ)
クラシック好きとしては、まさに耳福至極、眼福至極。
演奏が終わると、盛大な拍手とともに「ブラボー!」と立ち上がる人までいた。
でも、私はちょっと泣いてしまった……。
『花のワルツ』はバレエの舞台のフィナーレを飾る明るく華やかな曲で、抒情的に涙を誘う感じとは違う。
もちろん、その音楽の美しさに感涙してもおかしくはない。
ただ、私の涙はそうではなくて。
(この曲は、ほんとうに真秀を想った贈り物なんだ)
真秀が愛情と情熱を持ってバレエに打ちこんでいた日々を私は知っている。
そして、バレエをあきらめた日の涙も、それでも今もバレエを愛していることも。
だからこの選曲が嬉しくて。ご両親への手紙も待たずに泣いてしまった。
二次会の会場は、小さな洋風の一軒家をまるごと店舗にしたお洒落なレストラン。
家庭のある旧友たちが家路を急ぐ中、どうしてもちゃんと今日という日に「おめでとう」を言いたくて私は残った。
なのに、なかなか新郎新婦にアプローチできないまま、いたずらに時間だけが過ぎてゆき……。
手持無沙汰の私は化粧直しにパウダールームへ行った、のだけど――。
「あーあ、新郎は医者っていうから“ご友人”に超期待してたのに」
聞こえてきたのは、先客の皆さんの女子トーク。
「既婚者多しだし、なんか思ったよりも地味?」
「それな。インテリだしイケメンはイケメンだけど。もっとこう、ねえ? 天才外科医とかクールな脳外科医とか」
「まあ、新郎本人が地味だし。類トモ的な?」
「真秀さん美人なのに、どうしてまた」
「K医卒の医者っていう割増特典あってもねぇ」
(何これ、すんごい腹立つんだけど?)
瞬間、私の脳内で何かがプツンと切れた。
「お話し中にごめんなさい。少しよろしくて?」
私はお嬢様学校で鍛え上げられたパワー全開で(?)、パウダールームの奥へ殴り込……おじゃました。
「真秀の後輩の皆さん、でよろしいかしら?」
満面の笑みと、臆することない凛としたたたずまいに、後輩女子たちがあからさまに怯む。
「そ、そうですけど……?」
「私は真秀とは幼稚園から一緒で、彼女はとっても大切なお友達なのですけど」
「あの、何か……」
「単刀直入に言わせていただきますね」
「はい?」
「天才外科医に憧れるのはどうぞご自由に」
「なっ……」
「ですが、私の親友の旦那様を馬鹿にするような言い方はやめていただけて?」
私はゆったりと微笑みながら、後輩女子らにたたみかける。
「皆さん、松尾さんとお話しされたことは? あるわけありませんわよね。だって、あの方の人となりをご存知なら決して下に見るような発言をなさるわけがないもの」
真秀のことをとっても大事にしてくれる素敵な人。
彼女のことをこれからもよろしく頼みます、と私なんかに深々と頭を下げる謙虚な人。
「私の親友が選んだお相手を侮辱するような物言いは金輪際なさらないよう、お願いできますわね?」
「す、すみませんでしたっ」
私がお嬢様スマイルで凄むと、後輩女子らは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
(ごめん、真秀。まんまとやっちまいました……)
パウダールームを出ても会場へ戻る気にはなれず、真秀に「おめでとう」も言えないまま。
(さて、どうしたものか……)
考えあぐねて会場とは逆方向へ歩いていたら、廊下のつきあたりにガラス扉がひとつ。
私は逃げ込むようにバルコニーへ出た。
(うぅ、やっぱり寒いや)
日中はともかく、この時期はまだ夜はひんやりする。
身を縮こまらせて大きなため息をついたそのとき、後ろで静かに扉が開いた。
「風邪、引きますよ?」
(あっ!)
「ビオラの人!」
指さしこそしなかったけど、不躾にもほどがある。
だけど、その人は気分を害した様子はなくて。
「はい、ビオラの人です」
くすりと笑って、ブランケットを私の肩にふわりとかけた。
「お庭に出られる際はご自由にお使い下さい、だそうですよ」
(あったかい……すごく、あったかい)
「お気遣い恐れ入ります」
「いえ、こちらこそ」
「え?」
「カッコよかったです」
「と、おっしゃいますと……?」
「僕の友人を侮辱する悪い人たちに正義の鉄槌を下してくださって恐れ入ります」
「……聞こえてました?」
「ええ、まあ……」
苦笑いしてお茶を濁すあたり、思ったより聞かれてしまっていたのかも、ああ……。
「声をかけようと思ったらこちらへ向かわれたので」
「それで、わざわざ?」
「どうしてもお礼をお伝えしたくて」
「そんな……私、なんだかほんとう無鉄砲で」
「その無鉄砲に僕は救われましたよ? 僕の友人の名誉を守ってくれたのはあなただ」
その人は穏やかに、だけどきっぱり言い切った。
「そう、言っていただけると……」
(あ、この人すごく背が高いんだ)
遠慮がちに笑顔を返しつつ、見上げるかっこうになって再認識。
それに、演奏しているときは神経質そうなんて思ったけど、その笑顔はとても柔らかくて優しくて。
だから、つい……ポロリと弱音を吐いてしまった。
「でも、真秀に合わせる顔がないです……」
「なぜ?」
「だって、会社での真秀の立場とか完全無視で、勝手に突っ走って……」
「松尾妻は怒らないと思いますよ。むしろ、嬉しすぎて泣いてしまうのでは?」
「マツオツマ……」
「上から読んでもマツオツマ」
「下から読んでも……マツオツマ!?」
(何これ、なんかじわじわくる……)
「さて、そろそろお開きの時間だ。我々も戻りましょう。天才外科医でなくて申し訳ないが、地味な眼科医でよければご一緒に」
(この人、ひょっとしてけっこう腹黒い???)
私はじわじわくる笑いをこらえながら、精一杯エレガントに振る舞って見せた。
「もちろん。喜んでご一緒させていただきますわ」
「では。あ、申し遅れましたが――」
彼は名刺入れから何やら2枚取り出すと、上品な仕草で私にすっと差し出した。
「黒川と言います。本務先は病院のほうになりますが、週一でクリニックでも診療していますので。目で何か困りごとなどありましたら」
「恐れ入ります、頂戴いたします。わたくしのほうこそ申し遅れまして。新婦の友人の白石と申します。あ、今日は素敵な演奏をありがとうございました」
「嬉しいです。そんなふうに言っていただけて」
(ほんとう、なんてきれいな人……)
物腰はやわらかく、ゆったり微笑むその表情には知性と品格が備わっていて、その姿はいかにも頼りになる優しいお医者様だった。
最後の最後、私は黒川さんに伴われカルテットの皆さんと一緒に松尾夫妻を見送ることになり、どうにか真秀に笑顔で「おめでとう」が言えた。
でも、親友の幸せが何よりも嬉しいのに、誰よりも淋しくて……。
二人をのせた車が遠ざかるほどに涙がどんどん溢れてきた。
「頑張りましたね」
黒川さんの優しい言葉に涙腺は完全崩壊。
私は差し出された真っ白なハンカチを握りしめながら、えぐえぐとみっともなく泣いた。
そして、何も言わず心のまにまに泣かせてくれる紳士たちの優しいこと。
チェロケースを背負った人が、私をやんわり気遣いつつ黒川さんを見遣る。
「明日もオペの西岡は早く帰るとして。圭介は僕の車で送るよ。で、黒川は――」
「白石さんは僕が送るから大丈夫。ごめんだけど、圭介のことよろしく。あと、ハマちゃんにもよろしく。それとあと、保坂妻(仮)にもよろしく。保坂も気をつけて帰りなね」
「はいはい」
そうして、バイオリンケースを持った一人は軽く手を上げ挨拶すると足早に去り、チェロの人は、バイオリンケースを背負った千鳥足の人をフォローしながら去っていった。
「どうですか? 少し落ち着きましたか?」
「はい……ありがとう、ございます」
「もしよければですが、少し話しませんか?」
「え?」
「一杯おごらせてください。正義の鉄槌のお礼に」
***
――んん? 私ってばいつの間に寝て……って!?
(ちょっ……待て待て待て待て!ここはいったいどこって話よっ!?)
ほんのり畳の香りがおする部屋で、フカフカのお布団にくるまっている、けれど……。
(あ、コンタクト!って……ちゃんと外してる?)
慎重に体を起こすと、服はまるっと昨日のまま。
枕元には引き出物が入った紙袋と、バッグと、腕時計と、いつも持ち歩いているコンタクトケア用品と予備の眼鏡を入れたポーチが几帳面に並んでいた。
(そっか、覚えてないけど無意識にちゃんと外してたんだ。いやぁ、習慣ってやつはほんとうに)
とりあえずポーチから眼鏡を取り出して、と。
このダサいガチガチの黒縁眼鏡は私にとってはライナスの毛布みたいなもので、掛けたら「ほっ」と落ち着いた。
そういえば、眼科でコンタクトを外してもらう夢を見たような気がするけど???
(まあ、昨夜はいろいろあったから……)
完全に二日酔いのポンコツ頭に、少しずーつ昨夜の記憶がよみがえる。
真秀にちゃんと「おめでとう」が言えて。
それから、黒川さんとちょっとだけ飲みなおす感じになって。
そうそう、それで、一杯だけのつもりがどんどん気分がよくなって――。
めっちゃ楽しかったのは間違いないんだけど……正直、記憶が断片的で、おぼろげすぎて……どうしよう。
(そうだっ、スマホ!)
あわててバッグに手を伸ばして中を探るとスマホはちゃんとあって、見ればお母さんからの着信と真秀からのメッセージが。
《黒川先生からいっくんに連絡きたから、今夜は面倒みてやってくださいってお願いしたよ。お母様には私たちの家に泊まったことにしときなね。ランチおごりと詳細報告よろ》
ちなみに「いっくん」とは旦那様の一誠さんのこと。
まったく私は新婚さんに何を迷惑かけてんだか。
しかも、初対面の男性の家にご厄介になるとかもう……。
お布団を畳んで、とりあえずおそるおそる部屋を出る。
一軒家だけれど、なんとなくご家族の気配はないみたい。
すると、どこからだろう? 美しい弦の音色が聞こえてきた。
音に導かれるようにその部屋へたどりつくと、ちょうど音階練習を終えたようで――。
(アザラシヴィリの『ノクターン』?)
曲が始まり、私は廊下に腰をおろして膝小僧を抱えて丸まった。
防音室から漏れる音は少しくぐもっていて、ドアには上部に小窓があるけど中の様子はわからない。
けれども、このビオラの音色は黒川柊に違いなかった。
穏やかであたたかく、ちょっと甘さ控えめで。
切々と歌い上げるというより、静かに語りかけるような優しい音。
(ほんとう、このままずっと聞いていたい―ー)
それなのに、曲が終わると余韻に浸る間もなくドアが開いて、中からぬっと彼が出てきた。
丸まったまま上目遣いで遠慮がちに見上げる私を、苦笑いの彼が見おろす。
「何してるの?」
「聞いていました、演奏を」
(何この不毛な会話……)
しかも私ってば、まったく立場をわきまえない超バカで。
体育座りで彼を見上げたまま一言。
「そのジャージって高校とかの?」
「そこ? もっと聞くこととか言うこととかあるんじゃない?」
「この度は多大なご迷惑をおかけいたしまして。誠に申し訳ございませんでした」
「ちょっと、やめてよ。僕がいじめているみたいじゃない」
横着して立ち上がらなかっただけで、土下座する気はなかったのだけど。
正座をして丁寧に頭を下げたら、あらら……。
「それであの、迷惑ついでといってはなんですが」
「はい?」
「よろしかったらぜひ、先ほどの曲をもう一度そばで聞かせていただけて?」
「あなたねぇ」
黒川柊は「図々しいにもほどがある」とたしなめるようなことを言いつつ、案外気前よく「ごはんの後でなら」と快諾してくれた。
「気持ち悪いとかない? 朝ごはんは食べられそう?」
「はい、おかげさまで」
「シライシはレーズンが入ったパンとか大丈夫?」
「……え?」
いや、決してレーズンのパンがダメなわけじゃなく。
てか、さっきからずっと昨日とはぜんぜん違う砕けた口調だし。
しかも、シライシって……!?
「あの、実は私ちょっと昨夜の記憶が……。あっ、レーズンのパンは大好きです」
「記憶が、って。何も覚えてないの???」
「ご厄介になったいきさつは真秀からざっくりと。でもその他は正直1ピコも」
「ミリを通り越してピコとか、ほぼゼロじゃない……」
「そうとも言う?」
「あなたねぇ……。とりあえず朝ごはん食べよ。ああ、洗面台は廊下の奥にあるからどうぞ。タオルでも何でも自由に使ってかまわないけど、あいにく女性用の化粧水だのはないのであしからず。僕はキッチンのほうにいるから適当に来て」
「何から何まで恐れ入ります」
「この家は僕ひとりなんで、気楽にどうぞ」
朝ごはんは、コーヒー、オムレツ、サラダとフルーツ、ホームベーカリーで焼いたレーズンパン。
ダイニングテーブルに向かい合って座って、それぞれに手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
ゆっくり朝食をいただきながら、私は昨夜のあれこれをダイジェストで聞かされた。
「なんだか僕のことをずいぶん気に入ってくれたみたいで。一方的に僕を友達認定したうえ、クロカワ呼びを宣言され、シライシ呼びを強要され。さんざん飲んで笑って、泣いて怒って落ち込んで。電池が切れて寝てしまいました、と」
「なんと」
「で、松尾夫妻に相談したら、それもう絶対起きないやつだから諦めろと言われ。トリセツ兼指示書を送りつけられ、託され。僕の車で我が家へお連れしたしだい」
「あらまあ」
「ちょっと、誰の話かわかってる?」
「グッジョブ!クロカワ!」
「適応すんの早すぎでしょ……」
「えへへ、それほどでもぉ」
「褒めてないから」
なんだろう? このおそろしく気楽で気安く居心地のよい感じは?
思い切り寛ぎながらちょっと不思議な心持ちで、きれいな仕草でコーヒーを飲むクロカワを観察してみる。
眼鏡は昨日のお洒落なやつではなく頑丈なだけが取り柄のような黒縁眼鏡。ダサさは私の眼鏡とどっこいくらい?
極太の白いラインが入った真緑(?)のジャージは、名前の刺繍と校章入り。
しかも、中に着ているTシャツには“手土産”という謎のプリントが!?
まったく、ネタ装備としか思えぬいでたちである。
「しかしさ、さすがの僕も初めてだったよ」
「ん? 何が?」
「だって、あんなことされても起きないなんて」
「……え?」
「外したの、ぜんぜん気づかなかったでしょ」
「ええっ」
咄嗟に「まさか!?」と胸元を見るも、そもそもちゃんとブラをつけているのは間違いなく。
そんな私の様子を見て、クロカワは呆れたように苦笑いして、人差し指でその美しい目元を指差した。
「目。コンタクトだよ」
「へ?」
「僕が外した。まったく、プライベートで何させるんだよ」
「……ああ!」
「松尾夫妻からの指示書に、コンタクトは絶対外させることって。必要なものは一式持ってるはずだから、必ず外させてって。どうせまえにトラブルとかあったんでしょ? でも、本人まったく起きないし」
「夢じゃなかったんだ……」
「何?」
「い、いえ、なんでもっ」
「管理のできない人は装着する資格ないんだからね。わかってる?」
「ごもっともでございます……」
眼科医にお小言を言われる二日酔いの朝。
後片付けすると申し出ると、クロカワは「じゃあよろしく」と言い、さらに「着替えてくるから、車で送る」と言って席を立とうとした。
「あの、ビオラはっ」
「さっきの部屋に集合で」
着替えを済ませて現れたクロカワは、昨日のフォーマルに対して今日はもちろんカジュアルで。
イケメンは何を着ても結局イケメンなのだと再認識。
そう、たとえ極太うどん線が入った真緑のジャージでも……。
「同じ曲がいいんだっけ?」
「うん。好きなの、アザラシヴィリの『ノクターン』。素敵な曲だよね。ビオラのは初めて聞いた」
「僕も好き。いい曲だよね。シライシはクラシック好きなの?」
「まあね。そんなに、詳しいわけじゃないけど……」
「ふーん」
そうして、私はとてもとても贅沢に間近でビオラの生演奏を聞いた。
温かく穏やかで、心安らぐ優しい音。
楽器はいつから? どうしてビオラを? 最初はやっぱりバイオリンを? 練習時間はどれくらい?
どうしてそんなに美しく奏でられるの?
どうしてそんなに優しい音が出せるの?
どうして、どうして、どうして――?
私、どうしてこんなにクロカワのことが知りたいんだろう???
クロカワの車で送られながら、私は彼を質問攻めにした。
だって、この時間が終わるのが淋しくて……それを誤魔化すように、かき消すように。
「お酒は強いほう?」
「シライシよりは強いんじゃない?」
「そういうことは聞いてない……。てか、昨夜は私だけごめん。クロカワは運転あるから飲めなかったのに」
「いいよ。酒は普通かな。苦手ってわけでもないけど、飲まなくても平気な感じ?」
「ふーん」
「どっちかっていうと、甘いモノのが好き」
「へぇー。では、ご趣味は? あ、音楽以外のね」
「何それ。お見合いか」
「いいから」
「そうねぇ、手芸を少々」
「うそ」
「ほんと。だって、松尾夫妻のリングピロー作ったの僕だもん」
「ええっ」
「“かわいい”は正義なので」
あの真緑のジャージを着て、大きな背中を丸めながら、チクチクと針仕事をするガチガチ黒縁眼鏡のクロカワ。
ああ、なんというモテ職業の無駄遣い。
そして、そんな妄想でキュンキュンしている私っていったい……。
「あの、絶対にお礼するから。昨日と今日のお礼とお詫び。あと、お借りしたハンカチも洗ってお返しするし。あ、なんなら新品とかプレゼントするし」
「いいよ、そんな気にしないで」
「そ、そういうわけにはいかないよ!」
ナチュラルにまた会える機会が欲しくて押し売りよろしく食い下がる。
すると、クロカワは朗らかに笑って言った。
「友達なんだから、貸し借りがどうとかいいんだけど。でもまあ、シライシの気がすまないっていうなら僕の貸し一つということで。何かお願いでも考えとけばいい?」
「うん!」
目的地である自宅近くのコンビニへ到着すると、クロカワは自分も降りて後部座席に置いてあった私の荷物を取ってくれた。
こういうところ、ほんとう紳士だと思う。
「引き出物、カタログギフトでよかったね」
「それ、ほんっとそれ」
「じゃあ、気をつけて」
「うん、ありがと」
「あと……」
「え?」
「眼鏡、いいと思うよ」
「えっ、と……」
「眼科医としてもだけど、友達からのアドバイス」
「でも、似合わ――」
「“かわいい”よ、眼鏡のシライシも」
(えっ……)
だって、“かわいい”は正義なんだよね?
「じゃあ、僕はそろそろ。家に帰るまでが結婚式だからね」
「遠足か!てか、校長先生か!」
「じゃあ、どっちも?」
「んなわけないし」
アホなやりとりに興じながらも、心の中は別の感情で大忙しだった。
(もう、どうしたらいい……!?)
私は友人クロカワの正義の鉄槌に、メロメロに打ちのめされてしまったのだった――。
でも、今日のお式は特別。
だって、新婦の平井真秀は、私のかけがえのない親友だから。
既に入籍しているので、正式にはもう平井ではなく松尾だけど、そこはそれ。
お相手は32歳で精神科が専門のお医者様。
二人の馴れ初めは、まあ語ると長くなるので置いといて……。
(いよいよなんだ……)
真秀は幼稚園からの友人で、独身組で最後の同期の桜だった。
晩婚化が叫ばれる昨今なれど、そんなものはどこ吹く風。
私の周りはあれよあれよと結婚し、残ったのは真秀と私の二人だけ。
とはいえ、松尾さんとずっと結婚前提のお付き合いをして愛を温めてきた真秀と、恋愛下手で拗らせ女子の私ではぜんぜん違う。
四月、新緑の輝くこの良き日、真秀は皆の祝福を受けて嫁ぎゆく――。
(私、ついにほんとにひとりぼっちだ……)
私こと白石瑞樹は28歳。
といっても、今月中には29歳になってしまう、なんとも儚い28歳。
そして、親友の幸せが心から嬉しいのに、淋しさに途方にくれる、もうすぐ29の28歳。
結婚披露宴は、それは格調高い豪華なものだった。
だって、余興にクラシック(弦楽四重奏)の生演奏だなんて!
しかも、演奏するのは新郎の医学部時代のご友人というからこれまたすごい。
《さて、演奏していただきます曲はチャイコフスキー作曲『くるみわり人形』より『花のワルツ』です!》
楽器を携え現れた男性たちは皆、長身で、仕立ての良いスーツをきれいに着こなして、知的で上品な風格はまさにエリート医師そのもの。
そして、そのカルテットの演奏たるや――。
(うそ!? すっごい上手い!)
演奏は間違いなく誰もが認めざるを得ない素晴らしいクオリティで。
私は中でも、ビオラの演奏に心を奪われた――。
ビオラはバイオリンとチェロの間の音域を担当する楽器で、正直ちょっと地味だ。
でも、しっかりと影ながら音楽を支えるその感じに私は心惹かれてしまうのだ。
弾いているのは、涼し気な目元と眼鏡が印象的な、ちょっと神経質そうな男の人。
わりと耳がよい私は、耳敏くビオラの音ばかり追いかけながら、目では繊細かつ大胆に弓を引く手と、ビオラの弦を押さえる美しい指をうっとりと眺めた。
(ほんとう、なんて美しいのだろう……)
数少ない見せ場ではしっかりと聞かせて、その他のところでは職人よろしく丁寧な仕事をする。
華やかとか、綺羅びやかとか、そういう派手さはないけれど、誠実な奥ゆかしさが美しい。
(やっぱり好きだな、ビオラ)
クラシック好きとしては、まさに耳福至極、眼福至極。
演奏が終わると、盛大な拍手とともに「ブラボー!」と立ち上がる人までいた。
でも、私はちょっと泣いてしまった……。
『花のワルツ』はバレエの舞台のフィナーレを飾る明るく華やかな曲で、抒情的に涙を誘う感じとは違う。
もちろん、その音楽の美しさに感涙してもおかしくはない。
ただ、私の涙はそうではなくて。
(この曲は、ほんとうに真秀を想った贈り物なんだ)
真秀が愛情と情熱を持ってバレエに打ちこんでいた日々を私は知っている。
そして、バレエをあきらめた日の涙も、それでも今もバレエを愛していることも。
だからこの選曲が嬉しくて。ご両親への手紙も待たずに泣いてしまった。
二次会の会場は、小さな洋風の一軒家をまるごと店舗にしたお洒落なレストラン。
家庭のある旧友たちが家路を急ぐ中、どうしてもちゃんと今日という日に「おめでとう」を言いたくて私は残った。
なのに、なかなか新郎新婦にアプローチできないまま、いたずらに時間だけが過ぎてゆき……。
手持無沙汰の私は化粧直しにパウダールームへ行った、のだけど――。
「あーあ、新郎は医者っていうから“ご友人”に超期待してたのに」
聞こえてきたのは、先客の皆さんの女子トーク。
「既婚者多しだし、なんか思ったよりも地味?」
「それな。インテリだしイケメンはイケメンだけど。もっとこう、ねえ? 天才外科医とかクールな脳外科医とか」
「まあ、新郎本人が地味だし。類トモ的な?」
「真秀さん美人なのに、どうしてまた」
「K医卒の医者っていう割増特典あってもねぇ」
(何これ、すんごい腹立つんだけど?)
瞬間、私の脳内で何かがプツンと切れた。
「お話し中にごめんなさい。少しよろしくて?」
私はお嬢様学校で鍛え上げられたパワー全開で(?)、パウダールームの奥へ殴り込……おじゃました。
「真秀の後輩の皆さん、でよろしいかしら?」
満面の笑みと、臆することない凛としたたたずまいに、後輩女子たちがあからさまに怯む。
「そ、そうですけど……?」
「私は真秀とは幼稚園から一緒で、彼女はとっても大切なお友達なのですけど」
「あの、何か……」
「単刀直入に言わせていただきますね」
「はい?」
「天才外科医に憧れるのはどうぞご自由に」
「なっ……」
「ですが、私の親友の旦那様を馬鹿にするような言い方はやめていただけて?」
私はゆったりと微笑みながら、後輩女子らにたたみかける。
「皆さん、松尾さんとお話しされたことは? あるわけありませんわよね。だって、あの方の人となりをご存知なら決して下に見るような発言をなさるわけがないもの」
真秀のことをとっても大事にしてくれる素敵な人。
彼女のことをこれからもよろしく頼みます、と私なんかに深々と頭を下げる謙虚な人。
「私の親友が選んだお相手を侮辱するような物言いは金輪際なさらないよう、お願いできますわね?」
「す、すみませんでしたっ」
私がお嬢様スマイルで凄むと、後輩女子らは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
(ごめん、真秀。まんまとやっちまいました……)
パウダールームを出ても会場へ戻る気にはなれず、真秀に「おめでとう」も言えないまま。
(さて、どうしたものか……)
考えあぐねて会場とは逆方向へ歩いていたら、廊下のつきあたりにガラス扉がひとつ。
私は逃げ込むようにバルコニーへ出た。
(うぅ、やっぱり寒いや)
日中はともかく、この時期はまだ夜はひんやりする。
身を縮こまらせて大きなため息をついたそのとき、後ろで静かに扉が開いた。
「風邪、引きますよ?」
(あっ!)
「ビオラの人!」
指さしこそしなかったけど、不躾にもほどがある。
だけど、その人は気分を害した様子はなくて。
「はい、ビオラの人です」
くすりと笑って、ブランケットを私の肩にふわりとかけた。
「お庭に出られる際はご自由にお使い下さい、だそうですよ」
(あったかい……すごく、あったかい)
「お気遣い恐れ入ります」
「いえ、こちらこそ」
「え?」
「カッコよかったです」
「と、おっしゃいますと……?」
「僕の友人を侮辱する悪い人たちに正義の鉄槌を下してくださって恐れ入ります」
「……聞こえてました?」
「ええ、まあ……」
苦笑いしてお茶を濁すあたり、思ったより聞かれてしまっていたのかも、ああ……。
「声をかけようと思ったらこちらへ向かわれたので」
「それで、わざわざ?」
「どうしてもお礼をお伝えしたくて」
「そんな……私、なんだかほんとう無鉄砲で」
「その無鉄砲に僕は救われましたよ? 僕の友人の名誉を守ってくれたのはあなただ」
その人は穏やかに、だけどきっぱり言い切った。
「そう、言っていただけると……」
(あ、この人すごく背が高いんだ)
遠慮がちに笑顔を返しつつ、見上げるかっこうになって再認識。
それに、演奏しているときは神経質そうなんて思ったけど、その笑顔はとても柔らかくて優しくて。
だから、つい……ポロリと弱音を吐いてしまった。
「でも、真秀に合わせる顔がないです……」
「なぜ?」
「だって、会社での真秀の立場とか完全無視で、勝手に突っ走って……」
「松尾妻は怒らないと思いますよ。むしろ、嬉しすぎて泣いてしまうのでは?」
「マツオツマ……」
「上から読んでもマツオツマ」
「下から読んでも……マツオツマ!?」
(何これ、なんかじわじわくる……)
「さて、そろそろお開きの時間だ。我々も戻りましょう。天才外科医でなくて申し訳ないが、地味な眼科医でよければご一緒に」
(この人、ひょっとしてけっこう腹黒い???)
私はじわじわくる笑いをこらえながら、精一杯エレガントに振る舞って見せた。
「もちろん。喜んでご一緒させていただきますわ」
「では。あ、申し遅れましたが――」
彼は名刺入れから何やら2枚取り出すと、上品な仕草で私にすっと差し出した。
「黒川と言います。本務先は病院のほうになりますが、週一でクリニックでも診療していますので。目で何か困りごとなどありましたら」
「恐れ入ります、頂戴いたします。わたくしのほうこそ申し遅れまして。新婦の友人の白石と申します。あ、今日は素敵な演奏をありがとうございました」
「嬉しいです。そんなふうに言っていただけて」
(ほんとう、なんてきれいな人……)
物腰はやわらかく、ゆったり微笑むその表情には知性と品格が備わっていて、その姿はいかにも頼りになる優しいお医者様だった。
最後の最後、私は黒川さんに伴われカルテットの皆さんと一緒に松尾夫妻を見送ることになり、どうにか真秀に笑顔で「おめでとう」が言えた。
でも、親友の幸せが何よりも嬉しいのに、誰よりも淋しくて……。
二人をのせた車が遠ざかるほどに涙がどんどん溢れてきた。
「頑張りましたね」
黒川さんの優しい言葉に涙腺は完全崩壊。
私は差し出された真っ白なハンカチを握りしめながら、えぐえぐとみっともなく泣いた。
そして、何も言わず心のまにまに泣かせてくれる紳士たちの優しいこと。
チェロケースを背負った人が、私をやんわり気遣いつつ黒川さんを見遣る。
「明日もオペの西岡は早く帰るとして。圭介は僕の車で送るよ。で、黒川は――」
「白石さんは僕が送るから大丈夫。ごめんだけど、圭介のことよろしく。あと、ハマちゃんにもよろしく。それとあと、保坂妻(仮)にもよろしく。保坂も気をつけて帰りなね」
「はいはい」
そうして、バイオリンケースを持った一人は軽く手を上げ挨拶すると足早に去り、チェロの人は、バイオリンケースを背負った千鳥足の人をフォローしながら去っていった。
「どうですか? 少し落ち着きましたか?」
「はい……ありがとう、ございます」
「もしよければですが、少し話しませんか?」
「え?」
「一杯おごらせてください。正義の鉄槌のお礼に」
***
――んん? 私ってばいつの間に寝て……って!?
(ちょっ……待て待て待て待て!ここはいったいどこって話よっ!?)
ほんのり畳の香りがおする部屋で、フカフカのお布団にくるまっている、けれど……。
(あ、コンタクト!って……ちゃんと外してる?)
慎重に体を起こすと、服はまるっと昨日のまま。
枕元には引き出物が入った紙袋と、バッグと、腕時計と、いつも持ち歩いているコンタクトケア用品と予備の眼鏡を入れたポーチが几帳面に並んでいた。
(そっか、覚えてないけど無意識にちゃんと外してたんだ。いやぁ、習慣ってやつはほんとうに)
とりあえずポーチから眼鏡を取り出して、と。
このダサいガチガチの黒縁眼鏡は私にとってはライナスの毛布みたいなもので、掛けたら「ほっ」と落ち着いた。
そういえば、眼科でコンタクトを外してもらう夢を見たような気がするけど???
(まあ、昨夜はいろいろあったから……)
完全に二日酔いのポンコツ頭に、少しずーつ昨夜の記憶がよみがえる。
真秀にちゃんと「おめでとう」が言えて。
それから、黒川さんとちょっとだけ飲みなおす感じになって。
そうそう、それで、一杯だけのつもりがどんどん気分がよくなって――。
めっちゃ楽しかったのは間違いないんだけど……正直、記憶が断片的で、おぼろげすぎて……どうしよう。
(そうだっ、スマホ!)
あわててバッグに手を伸ばして中を探るとスマホはちゃんとあって、見ればお母さんからの着信と真秀からのメッセージが。
《黒川先生からいっくんに連絡きたから、今夜は面倒みてやってくださいってお願いしたよ。お母様には私たちの家に泊まったことにしときなね。ランチおごりと詳細報告よろ》
ちなみに「いっくん」とは旦那様の一誠さんのこと。
まったく私は新婚さんに何を迷惑かけてんだか。
しかも、初対面の男性の家にご厄介になるとかもう……。
お布団を畳んで、とりあえずおそるおそる部屋を出る。
一軒家だけれど、なんとなくご家族の気配はないみたい。
すると、どこからだろう? 美しい弦の音色が聞こえてきた。
音に導かれるようにその部屋へたどりつくと、ちょうど音階練習を終えたようで――。
(アザラシヴィリの『ノクターン』?)
曲が始まり、私は廊下に腰をおろして膝小僧を抱えて丸まった。
防音室から漏れる音は少しくぐもっていて、ドアには上部に小窓があるけど中の様子はわからない。
けれども、このビオラの音色は黒川柊に違いなかった。
穏やかであたたかく、ちょっと甘さ控えめで。
切々と歌い上げるというより、静かに語りかけるような優しい音。
(ほんとう、このままずっと聞いていたい―ー)
それなのに、曲が終わると余韻に浸る間もなくドアが開いて、中からぬっと彼が出てきた。
丸まったまま上目遣いで遠慮がちに見上げる私を、苦笑いの彼が見おろす。
「何してるの?」
「聞いていました、演奏を」
(何この不毛な会話……)
しかも私ってば、まったく立場をわきまえない超バカで。
体育座りで彼を見上げたまま一言。
「そのジャージって高校とかの?」
「そこ? もっと聞くこととか言うこととかあるんじゃない?」
「この度は多大なご迷惑をおかけいたしまして。誠に申し訳ございませんでした」
「ちょっと、やめてよ。僕がいじめているみたいじゃない」
横着して立ち上がらなかっただけで、土下座する気はなかったのだけど。
正座をして丁寧に頭を下げたら、あらら……。
「それであの、迷惑ついでといってはなんですが」
「はい?」
「よろしかったらぜひ、先ほどの曲をもう一度そばで聞かせていただけて?」
「あなたねぇ」
黒川柊は「図々しいにもほどがある」とたしなめるようなことを言いつつ、案外気前よく「ごはんの後でなら」と快諾してくれた。
「気持ち悪いとかない? 朝ごはんは食べられそう?」
「はい、おかげさまで」
「シライシはレーズンが入ったパンとか大丈夫?」
「……え?」
いや、決してレーズンのパンがダメなわけじゃなく。
てか、さっきからずっと昨日とはぜんぜん違う砕けた口調だし。
しかも、シライシって……!?
「あの、実は私ちょっと昨夜の記憶が……。あっ、レーズンのパンは大好きです」
「記憶が、って。何も覚えてないの???」
「ご厄介になったいきさつは真秀からざっくりと。でもその他は正直1ピコも」
「ミリを通り越してピコとか、ほぼゼロじゃない……」
「そうとも言う?」
「あなたねぇ……。とりあえず朝ごはん食べよ。ああ、洗面台は廊下の奥にあるからどうぞ。タオルでも何でも自由に使ってかまわないけど、あいにく女性用の化粧水だのはないのであしからず。僕はキッチンのほうにいるから適当に来て」
「何から何まで恐れ入ります」
「この家は僕ひとりなんで、気楽にどうぞ」
朝ごはんは、コーヒー、オムレツ、サラダとフルーツ、ホームベーカリーで焼いたレーズンパン。
ダイニングテーブルに向かい合って座って、それぞれに手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
ゆっくり朝食をいただきながら、私は昨夜のあれこれをダイジェストで聞かされた。
「なんだか僕のことをずいぶん気に入ってくれたみたいで。一方的に僕を友達認定したうえ、クロカワ呼びを宣言され、シライシ呼びを強要され。さんざん飲んで笑って、泣いて怒って落ち込んで。電池が切れて寝てしまいました、と」
「なんと」
「で、松尾夫妻に相談したら、それもう絶対起きないやつだから諦めろと言われ。トリセツ兼指示書を送りつけられ、託され。僕の車で我が家へお連れしたしだい」
「あらまあ」
「ちょっと、誰の話かわかってる?」
「グッジョブ!クロカワ!」
「適応すんの早すぎでしょ……」
「えへへ、それほどでもぉ」
「褒めてないから」
なんだろう? このおそろしく気楽で気安く居心地のよい感じは?
思い切り寛ぎながらちょっと不思議な心持ちで、きれいな仕草でコーヒーを飲むクロカワを観察してみる。
眼鏡は昨日のお洒落なやつではなく頑丈なだけが取り柄のような黒縁眼鏡。ダサさは私の眼鏡とどっこいくらい?
極太の白いラインが入った真緑(?)のジャージは、名前の刺繍と校章入り。
しかも、中に着ているTシャツには“手土産”という謎のプリントが!?
まったく、ネタ装備としか思えぬいでたちである。
「しかしさ、さすがの僕も初めてだったよ」
「ん? 何が?」
「だって、あんなことされても起きないなんて」
「……え?」
「外したの、ぜんぜん気づかなかったでしょ」
「ええっ」
咄嗟に「まさか!?」と胸元を見るも、そもそもちゃんとブラをつけているのは間違いなく。
そんな私の様子を見て、クロカワは呆れたように苦笑いして、人差し指でその美しい目元を指差した。
「目。コンタクトだよ」
「へ?」
「僕が外した。まったく、プライベートで何させるんだよ」
「……ああ!」
「松尾夫妻からの指示書に、コンタクトは絶対外させることって。必要なものは一式持ってるはずだから、必ず外させてって。どうせまえにトラブルとかあったんでしょ? でも、本人まったく起きないし」
「夢じゃなかったんだ……」
「何?」
「い、いえ、なんでもっ」
「管理のできない人は装着する資格ないんだからね。わかってる?」
「ごもっともでございます……」
眼科医にお小言を言われる二日酔いの朝。
後片付けすると申し出ると、クロカワは「じゃあよろしく」と言い、さらに「着替えてくるから、車で送る」と言って席を立とうとした。
「あの、ビオラはっ」
「さっきの部屋に集合で」
着替えを済ませて現れたクロカワは、昨日のフォーマルに対して今日はもちろんカジュアルで。
イケメンは何を着ても結局イケメンなのだと再認識。
そう、たとえ極太うどん線が入った真緑のジャージでも……。
「同じ曲がいいんだっけ?」
「うん。好きなの、アザラシヴィリの『ノクターン』。素敵な曲だよね。ビオラのは初めて聞いた」
「僕も好き。いい曲だよね。シライシはクラシック好きなの?」
「まあね。そんなに、詳しいわけじゃないけど……」
「ふーん」
そうして、私はとてもとても贅沢に間近でビオラの生演奏を聞いた。
温かく穏やかで、心安らぐ優しい音。
楽器はいつから? どうしてビオラを? 最初はやっぱりバイオリンを? 練習時間はどれくらい?
どうしてそんなに美しく奏でられるの?
どうしてそんなに優しい音が出せるの?
どうして、どうして、どうして――?
私、どうしてこんなにクロカワのことが知りたいんだろう???
クロカワの車で送られながら、私は彼を質問攻めにした。
だって、この時間が終わるのが淋しくて……それを誤魔化すように、かき消すように。
「お酒は強いほう?」
「シライシよりは強いんじゃない?」
「そういうことは聞いてない……。てか、昨夜は私だけごめん。クロカワは運転あるから飲めなかったのに」
「いいよ。酒は普通かな。苦手ってわけでもないけど、飲まなくても平気な感じ?」
「ふーん」
「どっちかっていうと、甘いモノのが好き」
「へぇー。では、ご趣味は? あ、音楽以外のね」
「何それ。お見合いか」
「いいから」
「そうねぇ、手芸を少々」
「うそ」
「ほんと。だって、松尾夫妻のリングピロー作ったの僕だもん」
「ええっ」
「“かわいい”は正義なので」
あの真緑のジャージを着て、大きな背中を丸めながら、チクチクと針仕事をするガチガチ黒縁眼鏡のクロカワ。
ああ、なんというモテ職業の無駄遣い。
そして、そんな妄想でキュンキュンしている私っていったい……。
「あの、絶対にお礼するから。昨日と今日のお礼とお詫び。あと、お借りしたハンカチも洗ってお返しするし。あ、なんなら新品とかプレゼントするし」
「いいよ、そんな気にしないで」
「そ、そういうわけにはいかないよ!」
ナチュラルにまた会える機会が欲しくて押し売りよろしく食い下がる。
すると、クロカワは朗らかに笑って言った。
「友達なんだから、貸し借りがどうとかいいんだけど。でもまあ、シライシの気がすまないっていうなら僕の貸し一つということで。何かお願いでも考えとけばいい?」
「うん!」
目的地である自宅近くのコンビニへ到着すると、クロカワは自分も降りて後部座席に置いてあった私の荷物を取ってくれた。
こういうところ、ほんとう紳士だと思う。
「引き出物、カタログギフトでよかったね」
「それ、ほんっとそれ」
「じゃあ、気をつけて」
「うん、ありがと」
「あと……」
「え?」
「眼鏡、いいと思うよ」
「えっ、と……」
「眼科医としてもだけど、友達からのアドバイス」
「でも、似合わ――」
「“かわいい”よ、眼鏡のシライシも」
(えっ……)
だって、“かわいい”は正義なんだよね?
「じゃあ、僕はそろそろ。家に帰るまでが結婚式だからね」
「遠足か!てか、校長先生か!」
「じゃあ、どっちも?」
「んなわけないし」
アホなやりとりに興じながらも、心の中は別の感情で大忙しだった。
(もう、どうしたらいい……!?)
私は友人クロカワの正義の鉄槌に、メロメロに打ちのめされてしまったのだった――。


