貴方と奏でる夜想曲 貴女に奏でる小夜曲
想定外の申し出に驚くばかりの私をよそに、彼はとても冷静だった。

「別にね、外堀から固めようなんて魂胆があるわけじゃないから安心して」

「そんなこと、思ってないけど……」

「ならよかった」

冗談めかして言っているようで、彼は真剣に違いなかった。

「ただ、いい大人だからこそ、きちんとしたほうがよいという話はあるとは思う。でも、大切なのは瑞樹の気持ちだから」

「うん」

「とりあえず、僕にはそういう心の用意はあるからね、という話で。そんな深刻にならないで、気楽でいてよ」

「うん、ありがと……」

(どうしよう、これ、泣いちゃうやつかも……)

だって、本当に私のこと、真剣に考えてくれているんだなって。

親に挨拶だなんて、あらたまった席ではなくても、すっごく緊張するし、重たいし、億劫がられてもおかしくないのに。

「瑞樹?」

「だって、柊がいきなり男気とか見せるから、ほんとう、なんか……うん」

「あなたねぇ」

呆れたような口調でいて、やっぱり彼は優しかった。

「そりゃあさ、親御さんに挨拶だなんて緊張しないわけないけど。でも、ずっと一緒にいたいと思ったら、遅かれ早かれ通る道なんだし」

「うん……」

「それに、遅い時間でないにせよ、夜に娘さんをおかえしするわけだからね」

「うん……」

「僕が引き留めたと言って、瑞樹がお小言を言われずに済めばいいなと、都合よく思ったり」

「そんなこと……私なんて、行き遅れの段ボール箱入り娘だもん……」

「あなたねぇ」

彼は席を立ったかと思うと、私の隣に静かに掛けて、よしよしと頭を撫でてくれた。

「まああれだよ、僕のために仕方なく行き遅れてくれていたということで」

「……行き遅れててよかった」

「うんうん。ほら、トマト美味しから食べて」

「食べる」

彼は綺麗にお箸を持ってトマトを摘むと、私の口に入れてくれた。

「美味しい?」

「……ん、おいしい」

「夏になったら、うちの庭でもミニトマトがたくさんとれるんだ。一緒に収穫しよう?」

「うん」

ふたりで過ごす、巡りくる季節の話。

口の中いっぱいに、幸せの味が広がった。


恋人たちの時間というのは、ほんっと瞬く間に過ぎてゆくもので……。

帰り支度をして、玄関で2階から降りてくる彼を待つ。

私は母に連絡して、お付き合いしている彼が送ってくれること、ついては、少しだけ挨拶させてほしいと彼が言ってくれていることを伝えた。

反応は予想通りというか……母、大興奮。

彼が真秀の旦那様のお友達だと伝えると、さらに大喜び。

私はすっかり鼻息が荒くなった母をどうにか制した。

今日のところは玄関先でさらっとだからね、と。

明日は彼だって仕事だし、またあらためてゆっくりね、と。

ほどなくして、ジャケットを羽織った彼が慌ただしく降りてきた。

「ごめんね。忘れ物ない?あってもちゃんと保護しておくけど。ほら、あのセットは?」
 
あのセットとは、アイケア用品一式が入ったポーチのこと。

「大丈夫だよ。バッグから出してないし」

「ならよかった。管理できない人は――」

「コンタクト装着する資格はない、でしょ?」

「そのとおり」

彼はにっこり笑うと私の頭をくしゃりと撫でた。

(ああ、もう時間なんだ……)

これから家まで車で一緒だけど、それでもやっぱり淋しさが募る。

「瑞樹」

「……うん?」

「ぎゅっとしてもいい?」

私は言葉で答えるかわりに、彼にひっしと抱きついた。

(いい大人のくせに、もう完全に駄々っ子だ……)

「もっと一緒にいたいよ」

“着衣”で食べる晩ごはんで、ほっとしていたくせに。

“着衣”ではしない行為に、怖気づいていたくせに。

なのに――。

「帰りたくないよ」

「僕も、本当は帰したくないよ。でも、明日はちゃんと仕事に行って欲しいし」

「ん」

「お家の人に心配かけて欲しくはないし」

「ん」

「次の土曜日は会える?」

「うん」

腕の中で大きく大きく頷く私。

「翌日が休みならゆっくりできるし」

「うん」

「瑞樹さえよければ、泊まっていってくれてもいいし」

「……うん」

抱きつく腕に思わずぎゅっと力が入り、彼が小さくくすりと笑う。

「“着衣”ではしない行為をするかどうかは、瑞樹の気持ちしだいでいいので。気楽にね」

「ちゃんと……“装備”整えてくるもん」

今度は、彼の腕にきゅっと力が入る。

「僕のほうが気楽でなくなっちゃうかも」

彼は穏やかに笑うと、その腕でいっそう強く私を抱きしめた。

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