貴方と奏でる夜想曲 貴女に奏でる小夜曲
静かすぎるお部屋に、クロカワと私のふたりきり。

そこは、視力をはかったりするお部屋で、奥にある暗幕の向こうが診察室のようだった。

中待合いのようなスペースもありつつ、お部屋の端には水道と鏡が設置されている。

(私、のこのこ付いてきちゃったけど……)

どうしてよいやらわからず、クロカワが手を洗い、ペーパータオルで丁寧に拭う様子を凝視する。

“友達が”なんて言ったけれど、そこにいるのは紛れもなく、素敵なお医者様の“黒川先生”で。

(もう、何をドキドキしてるわけっ)

うどん線の真緑ジャージのクロカワには、そのおもろ可愛さにキュンキュンしていたのに、今は……。

「お待たせ。じゃあ、ちょっとみせて」

「えっ」

突っ立ったままの私の前に、向かい合う格好でクロカワが立つ。

(ち、近いよっ)

「上を向いて。よく見せて」

おずおずと顔を上げる私と、それを見守るように見つめるクロカワ。

「少し触るよ」

いっそう近づく気配に、胸の鼓動が苦しいくらい速くなる。

クロカワの少し骨ばった大きな手。

クロカワの細く長い美しい指。

(あっ……)

その指先が、私の瞼にそっと触れる。

とてもとても優しく、そっとそっと繊細に。

(私、どうかしてる……)

全身が甘く痺れて、頬が熱い。

身じろぎもできず、呼吸さえもままならない。

まるで魔法をかけられたみたいに、淡く甘く縛られている。

そんな今が――切なく甘やかで、とてもはがゆい。

(厚意で診てくださっているのに、私ったらほんとう、はしたない……)

そうは思っても、甘美な魔法は容易く解けやしないのだもの。

「違和感があるのは左だけ、か」

下瞼が、ごくごく微細なちからで押し下げられ、クロカワが注意深く患部を診る。

「麦粒腫。ものもらいだね」

ネットで調べてそうだろうなと思っていたけど、やっぱり。

瞼からクロカワの手が離れて、心の中で大きなため息をつきながら、ふぅと小さく息を吐く。

「違和感に気づいてからあまり時間は経っていない?」

「今朝からかな」

「あまりいじらないようにしていた?」

「我慢した」

「だろうね」

「え?」

顔を上げると、笑顔のクロカワと目が合った。

「えらいえらい」

(もう、そうやって……)

頭ポンポンこそされなかったけど、褒めてもらえて素直に嬉しかったりして。

「ごく軽症なので、このまま点眼して様子を見ていていいと思う」

「よかった」

「あと、完治するまでコンタクトは禁止ね」

「えっ」

そうかなぁとは思っていたけど、うぅ……。

「軽症なのに悪化させたら元も子もないからね」

「……どうしても?」

「どうしても」

「うーん」

ごねたところで、懐柔できるわけもなく。

「セット一式持ち歩いているんでしょ? そこの鏡でどうぞ」

促されて、仕方なしに水道と鏡の場所へのろのろ歩く。

「あ、自分でできないなら、僕が外してあげようか?」

「なっ……で、できるし!」

「えらいえらい」

クロカワは愉快そうに笑うと、少しずつ片付けと帰り支度を始めた。

「シライシは、これから何か予定ある?」

(ええっ、どうしてそんなこと???)

淡い期待に心臓が跳ねる。

でも、覚られるぬよう落ち着いて、落ち着いて。

「別に、もう帰るだけだけど……?」

「じゃあさ、ご飯食べに行こうよ。シライシがよければだけど」

(うそ! 嬉しい!)

「い、いいけど?」

甘い期待に胸は高鳴り、嬉しすぎて舞い上がってしまいそう。

でもでも、あくまでも、冷静に、冷静に……。

なのに、クロカワってば――。

「いいとこ、連れて行ってあげる」

「えっ」

(い、いいとこって何? どこよそれ!?)

動揺する眼鏡っ子の私に、クロカワがにっこり笑う。

「やっぱり」

「は、はい?」

「眼鏡のシライシも可愛いよ」

(なっ……!?)

「さあ、早く出かけよう? そうだ、途中でドラッグストアにも寄ろう。“友達”が目薬選んであげるよ。処方箋は出せないかわりにさ」
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