貴方と奏でる夜想曲 貴女に奏でる小夜曲
困った……朝からなんだか目の調子が悪い。

(やっぱり、ちくちくする……)

鏡をみたところ、目立つほどの腫れはない。

今のところ痒みも我慢できないほどではないけれど。

(神様、どんなプレゼントくれてんですか……)

鏡の前で思わず盛大にため息をつく。

もちろん、仕事を休むわけにはいかない。

私は左目に明らかな違和感を抱えつつ出勤した。

(ああもう、鬱陶しい。やっぱり痒いし……)

昼休み、社屋にあるカフェテリアのお一人様席で、ちょっとぐったりげんなり。

目や耳の不調って、いきなり命を落とすことはないにせよ、けっこう厄介だ。

(そうだ、“目”といえばクロカワ!)

なんて……目といえばも何も、最近ではもう何かにつけて脳内に登場する超レギュラーだし。

(クロカワのこと考えすぎ……)

ひとりごちつつ、手帳に大事にしまったその名刺を取り出して、クリニックのURLにアクセスする。

すると、今月の担当医表の一点に目が留まった。

(今日、クロカワじゃん!)

見たところ、通常クロカワは土曜日の担当らしい。

ところがなんと! 今日の午後の外来には赤字で“黒川”の名前があるじゃないの!

たぶん何らかの事情でいつもと担当医が違うよってことで赤なんだろうけど。

(えーと、目の不調っていうのは放っておくと大変になるって言うし?)

“アクセス”のボタンをポチっと押して確認すれば、会社帰りに寄るには好立地。

予約優先とはあるけれど、待ち時間を了承済みなら飛び込みOKみたいだし。

(神様、粋なプレゼントに感謝します!)

そうして、現金な私は午後の仕事をバリバリこなし、定時退勤を成し遂げた。


受付時間内に到着できたはず、なのだけど――。

「恐れ入ります、初めてかかるのですが」

「あっ、えーと……はい」

なんだろう? 受付担当の女性の態度に、それこそ何が違和感が?

「コンタクトの初回処方をご希望とかでは……?」

「ないです」

「承知いたしました。それでは、こちらの問診票にご記入をお願いいたします」

受付終了間際に滑り込んだせいか、待合室は空っぽで院内はひどく静かだった。

とりあえず、受付のそばの長椅子に掛けて、せっせと問診票を記入する。

「申し訳ありません。初診の受付は15分前に終了しておりまして」

(えっ)

その声に「はっ」として顔をあげると、白衣姿のクロカワが立っていた。

品のいい白いシャツに、シックなネクタイ、眼鏡はもちろん黒縁ではなくお洒落なほう。

まぶしいくらい白衣が似合う“黒川先生”。

そして、その後ろでは先ほど対応してくれたスタッフさんが、おろおろと心配そうにこちらを見ている。

すると、クロカワはスタッフさんに向かって、とても優しく穏やかに言った。

「時間ですのでもう上がってください。締め作業もほぼ完了しているようですし、大丈夫ですよ」

「で、でも……」

「残っていただいて本当に助かりました。さあ、早くお迎えに行ってあげてください」

「で、ではっ……すみません、お先に失礼いたしますっ」

スタッフさんはそう言ってクロカワと私にそれぞれ頭を下げて、大急ぎで出て行った、のだけど――すぐまた超特急で戻ってきて、ガラス扉の表に何やら札をかけて、すぐまた走り去っていった。

たぶん“本日の診療は終了しました”とか、そういうお知らせに違いない。

(私ってば、なんて非常識なんだろう)

診療案内を見たとき絶対に注意書きがあったはずなのに、舞い上がっていて見落として……。

「あの、ごめんなさい。私、初診の注意を見落としていたみたいで……」

ほんとう恥ずかしくて、情けない。

「まあよくあることだよ。それに、いつもならコンタクトの初回処方とか余程の混雑でもない限りできるだけ受けてあげているんだけどね」

クロカワはふんわり笑って、それから「んんー」と言って伸びをした。

「さっきのスタッフさん、保育園からお迎え要請がきていたから、早く帰してあげなきゃと思って」

そんなご事情があったのに受けてくれようとしたスタッフさんに余計に頭が下がる。

(ほんとう私ってばもう、ああ……)

けれども、クロカワは私を責めたりしなかった。

「それで?」

「えっ」

クロカワがやや首を傾げるようにしてこちらを見る。

「今日はどうされましたか?」

思い切り優しく微笑まれて、胸がきゅうっとなる。

(ど、どうしよう)

なんだかドキドキしてまともに顔が見られない。

「問診票、拝見しますね」

「あっ」

完全にあわわってなってる私の手元から、クロカワが問診票を取り上げる。

「“目に違和感、異物感がある”と……」

「ごめんなさい、あの、大したことないと思うのでっ」

「一応診てみましょう」

(ええっ)

「そんな、診療時間終わってるし。ほんとう、もうっ……」

私は“とんでもないっ”と両手をぶんぶん左右に振って遠慮した。

「あなたねぇ」

私を見おろしながら、クロカワが愉快そうにおっとりと笑う。

(ああもう、またそうやって……)

仕方のない人だなぁと呆れた調子で、だけど思い切り優しいのだもの。

私ときたら――小憎らしいのに、やっぱりとっても嬉しくて。

「では、黒川医師の診療は本日終了なので」

「はい」

「ちょっと目の病気に詳しい友達がみてあげるよ」

「ええっ。そんなっ……」

「ほら、友達のアドバイスは素直に聞くものだよ」

すると、クロカワは白衣の裾を軽やかに翻して、さっさと奥へ行ってしまった。

(ちょっ……もう……)
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