身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
6
シルビオが部屋を出て少ししてから、ネリアは礼儀作法以上に重大な事実に気がついてしまった。
「困ったわ」
内心大焦りなのだけれど、王女エリシアならここで動揺を悟らせるような真似はしないだろう。「どうされました?」「エリシア様?」と尋ねる侍女たちに、あくまで優雅に見えるように手のひらを右の頬につける。
「王国からドレスを一着も持ってきていないの。晩餐会に着ていけるような服がないわ」
本当に困ったことである。王国から持ち出したのは、エリシアに着せられた真っ白な衣装だけ。地下牢生活では魔法を使える衛兵が最低限の汚れを払ってくれたのでどうにかなっていたけれど、さすがにこの服で皇帝とその婚約者に謁見するわけにはいかない。そもそも、皇弟と婚約することになったというのに玉座の間での正式な謁見もなく、晩餐会で済まされようとしているあたり軽んじられている気がしないでもないけれど。それでも、粗相をしでかすわけにはいかないのだ。いっそのこと侍女たちに服を貸して欲しいと頼んでみようか、とさえ思ったときだった。
「問題ありませんわ、エリシア様」
「へ」
「セレステ様にドレスを貸していただけるよう、すでに頼んであります」
「えっ!?」
皇帝の婚約者であるセレステ様。まだ顔合わせもしていないのに、ドレスを借りてもいいのだろうか。驚いているとノックの音が響き、侍女が対応に向かう。「い、いいの?」とエリシアを取り繕うことも忘れて確認すると、「ええ。ぜひにと、セレステ様から言付かっております」と笑顔で頷かれる。
「ちょうど届きましたわ」
戻ってきた侍女は濃紺のドレスを両手で抱えていた。「装飾品も貸してくださるようです」と告げながら右手に持つ袋を掲げる。どうやら、晩餐会に必要な服飾品一式を貸してくれたようだ。顔も知らない義兄嫁予定のセレステに、「いいのかしら……」と感謝よりも申し訳なさが浮かぶ。が、二人はネリアを安心させるように微笑んだ。
「セレステ様はお優しいお方ですから、ご安心を」
「それより準備ですわ」
そう言って二人は、テキパキとネリアを着飾り始める。塔で暮らしていたネリアは、エリシアのように全身を手入れされたことはない。おまけにここ数日は、ジメジメとして薄暗い地下牢で過ごしていたのだ。肌も髪も状態としては最悪に近いだろう。それでも二人は文句一つ言わず、ネリアの髪を丁寧に結い上げ、化粧まで施してくれた。
数時間後。鏡を覗き込んだネリアは、ぱちんと口を両手で押さえる。そうでもしないと叫んでしまいそうだった。鏡の中で、濃紺のドレスに身を包み、髪を黒く染めたエリシアが目を丸くしている。そんなわけがないのに、一瞬本気でそう勘違いしてしまった。
――私って、エリシアと似てるんだ……。
双子なのだから当たり前なのだけれど。髪の色だとか魔力の有無だとか性格だとか。似ていない部分があまりに多すぎて、いつしか似ているとは思わなくなっていた。まじまじと鏡の中の自分を見ていると、「エリシア様?」「何かお気に召さないところがありましたか?」と恐る恐る侍女の二人に尋ねられる。
「まさか! とっても素敵で、自分ではないように見えたから驚いていたの」
「まあ……」
「もったいないお言葉ですわ」
安心したように息を吐く二人。エリシアを装ったけれど、紛れもないネリアの本心だ。塔では誰に見せることもないものだからと、ここまで気合を入れて身支度を整えることはなかった。必要最低限の身なりしか気にしたことのないネリアにとって、生まれて初めてのドレスアップは少なからず心躍るものだったのだ。侍女の二人がいなければ、部屋中を飛び跳ねていただろう。
「二人とも、本当にありがとう」
「とんでもありませんわ」
「素敵なドレスを貸してくださったセレステ様にも感謝しなくてはね。お礼の品を選ぶのに、付き合ってくれる?」
「もちろんです」
ニコニコと微笑む二人に、胸が熱くなる。二人がどこまで事情を知っているのかはわからないけれど、諸手を挙げて歓迎されたわけでないことは知っているはず。皇弟の婚約者の侍女を任されるぐらいなのだ、二人とも良家の出身なのだろう。振る舞いも礼儀作法も、ネリアよりよっぽどきちんとしている。それなのに、つい数時間前まで地下牢に閉じ込められていたような、誰からも身分を疑われているようなネリアに無礼を働くことが一切ない。何も聞き出そうとはせず、ただただ忠実に職務を果たしてくれることが、ネリアにとっては何よりありがたかった。
*
「準備はできたか?」
「シルビオ殿下」
「できておりますわ」
晩餐会直前。部屋まで再びやってきたシルビオを、侍女の二人が弾んだ調子で迎え入れる。昼間は人望がない、だなんて言ってしまったけれど侍女からは好かれているらしい。あんなに口が悪いのに、と思ったけれど、侍女に対して挑発的な物言いをしているわけではない。乱暴な口調でそっけない態度だけれど、良いように言えば硬派とも言える。輝く金色の髪に、吸い込まれそうな碧い瞳、優美な顔立ちの彼が硬派なのは、さぞかし好印象を与えるのだろう。しかも皇弟なのだから、地位も申し分ない。ネリアが侍女の立場なら、身分違いの恋心を抱くまであったかもしれない。
「おい」
「! はい」
ぼんやりしているうちに、目の前にまで来ていたらしい。この人、私を訪ねてくるのは今日だけで何回目なんだろう、とどうでもいいことを思いつつ、エリシアらしくにっこりと微笑む。一瞬、虚を突かれたように目を丸くしたシルビオだけれど、すぐに仏頂面に戻った。
「そのドレスはどこで?」
「セレステ様が貸してくださったの」
「ああ……」
納得、と言った様子で頷く様子は素の反応に見えた。詳しく聞いていないけれど、シルビオと皇帝の婚約者は以前から付き合いがあるのだろうか。だとすれば、前に着ていたのを見たことがあるのかもしれない。なんとなく微妙そうな顔をしているのを訝しんでいると、片手が差し出される。城内を案内してくれたとき同様、エスコートしてくれるのだろう。男性にエスコートされることに今日だけで慣れるはずもないので、思わず心臓が高鳴ってしまうのを必死に隠す。エリシアなら大袈裟にいちいち反応することはないはずだけれど、ネリアには難しい。
妙に口数の少ないシルビオに伴われ、連れて来られたのは大広間。待っていると、一組の男女が現れる。シルビオが頭を下げるのを見て、皇帝とその婚約者であることを悟った。皇帝は確かシルビオの兄のはず。静かに頭を垂れながら、ぼんやりと思いを馳せる。
――あんまり似てないのね。
金髪碧眼のシルビオに対し、皇帝は黒髪にヘーゼルの瞳。中性的な顔立ちで優美な印象を与えるシルビオとは対照的に、筋骨隆々な皇帝は全体的に雄々しい印象だ。エリシアとネリアは色彩こそ違えど、双子なので顔立ちは似ている。けれどこの兄弟は、二人とも端正な顔立ちをしているところ以外、ほとんど共通点などないように見えた。
「其方がキシュ王国の王女か」
落ち着いた声がネリアに話しかける。「はい」と頭を下げたまま答えると、「面をあげよ」と促された。ヘーゼルの瞳はネリアをまっすぐに見据えている。「キシュ王国付近の村で何があったかは聞いているな?」と尋ねられるので、再び「はい」と答えた。
「我が国の民の行方に、心当たりは?」
「ございません」
「キシュ王国の国王夫妻の不審な死は?」
「自害したと聞いたのみです」
「国内の貴族が姿を消していることについては?」
「聞き及んでおりません」
衛兵にもシルビオにも聞かれたことを尋ねる皇帝に、すでに答えたことを淡々と繰り返す。初めて顔を合わせるのが玉座の間での正式な謁見ではない時点で薄々気づいていたけれど、この婚約はどうやら思惑があってのことらしい。そう疑ったのが顔に出ていたのか、皇帝は口を開いた。
「キシュ王国は現在、コーア帝国が統治している」
「! さようで、ございますか」
初めて知った事実に驚いたけれど、そうだろうと納得した。国王夫妻と王女どころか、貴族さえ姿を消しているのだ。支配階級を失った民衆が路頭に迷うぐらいなら、落ち着くまでコーア帝国に面倒を見てもらったほうがましだろう。
「民衆の混乱を防ぐため、両国の和平という名目で弟のシルビオと其方には婚約してもらうことになった」
急なことですまない、と謝罪を口にする皇帝。慌てて頭を振るけれど、それ以上の言葉をネリアが紡ぐことはできなかった。一見誠実に見えるけれど、明かされていない情報があまりに多い。帝国が王国を攻めてきたのは、国境沿いの村で帝国民が姿を消しているからその調査のため。ネリアを連れてきたのは、何かしら知っているに違いないと思ったからだろう。そこまでは飲み込めた。
けれど、一時的に帝国が王国を統治するだけなら、わざわざ皇弟と王女で婚約する必要はあるのだろうか。何も知らなさそうな王女をそのまま王国に戻すことが不安なら極端な話、王女を即位させて政治の実権はコーア帝国が握ってしまえばいい。後ろ盾もなく、国力でも劣る帝国相手に王国が逆らえるはずもないのだから。そうしないのは、つまり――。
「陛下。せっかくの料理が冷めてしまいますわ」
「セレステ」
沈黙を破ったのは、皇帝の隣に佇む美しい女性――皇帝の婚約者である、セレステだった。豊かな栗色の髪に優しそうなグレーの瞳。光沢のある深緑のドレスがよく似合っている。心なしか、話しかけられた皇帝の雰囲気が和らいだ。この人が皇帝妃になる方なんだ、ドレスのお礼を言わなきゃ、と逡巡しているとセレステはネリアを見て微笑んだ。
「陛下、私をエリシア様に紹介してくださらないと。ご挨拶もできませんわ」
「ああ……すまない。エリシア殿、こちらは婚約者のセレステ」
「初めまして、エリシア様」
「初めまして。……あ、あの、ドレスやアクセサリーを貸していただき恐縮ですわ」
気持ちが早ったせいでお礼がどこかつんのめってしまう。言うタイミングを間違えた、と焦ったけれどセレステはますます嬉しそうに破顔した。
「気になさらないで。そのドレス、とってもお似合いですから良ければ差し上げますわ」
「えっ!? で、でも」
「お近づきの印です。それより、早く食事にしませんか?」
立ちっぱなしでは疲れてしまいますわ、と屈託なく微笑むセレステ。皇帝と皇弟相手になんて強気なのだろう、とドギマギしたけれどよくある光景らしい。似ていない兄弟は揃って大人しく席に着き、セレステの言葉を契機に使用人とメイドたちが給仕の準備に取り掛かる。どうやら、皇帝一家においてセレステの発言権はなかなかに強いようだ。
席に座り、なんとなくシルビオに目を向けるとセレステの方を見ている。ネリアに見せる挑発的な顔でも仏頂面でもない、穏やかな笑みを浮かべていて、この人そんな表情もできるのかと驚いた。
「困ったわ」
内心大焦りなのだけれど、王女エリシアならここで動揺を悟らせるような真似はしないだろう。「どうされました?」「エリシア様?」と尋ねる侍女たちに、あくまで優雅に見えるように手のひらを右の頬につける。
「王国からドレスを一着も持ってきていないの。晩餐会に着ていけるような服がないわ」
本当に困ったことである。王国から持ち出したのは、エリシアに着せられた真っ白な衣装だけ。地下牢生活では魔法を使える衛兵が最低限の汚れを払ってくれたのでどうにかなっていたけれど、さすがにこの服で皇帝とその婚約者に謁見するわけにはいかない。そもそも、皇弟と婚約することになったというのに玉座の間での正式な謁見もなく、晩餐会で済まされようとしているあたり軽んじられている気がしないでもないけれど。それでも、粗相をしでかすわけにはいかないのだ。いっそのこと侍女たちに服を貸して欲しいと頼んでみようか、とさえ思ったときだった。
「問題ありませんわ、エリシア様」
「へ」
「セレステ様にドレスを貸していただけるよう、すでに頼んであります」
「えっ!?」
皇帝の婚約者であるセレステ様。まだ顔合わせもしていないのに、ドレスを借りてもいいのだろうか。驚いているとノックの音が響き、侍女が対応に向かう。「い、いいの?」とエリシアを取り繕うことも忘れて確認すると、「ええ。ぜひにと、セレステ様から言付かっております」と笑顔で頷かれる。
「ちょうど届きましたわ」
戻ってきた侍女は濃紺のドレスを両手で抱えていた。「装飾品も貸してくださるようです」と告げながら右手に持つ袋を掲げる。どうやら、晩餐会に必要な服飾品一式を貸してくれたようだ。顔も知らない義兄嫁予定のセレステに、「いいのかしら……」と感謝よりも申し訳なさが浮かぶ。が、二人はネリアを安心させるように微笑んだ。
「セレステ様はお優しいお方ですから、ご安心を」
「それより準備ですわ」
そう言って二人は、テキパキとネリアを着飾り始める。塔で暮らしていたネリアは、エリシアのように全身を手入れされたことはない。おまけにここ数日は、ジメジメとして薄暗い地下牢で過ごしていたのだ。肌も髪も状態としては最悪に近いだろう。それでも二人は文句一つ言わず、ネリアの髪を丁寧に結い上げ、化粧まで施してくれた。
数時間後。鏡を覗き込んだネリアは、ぱちんと口を両手で押さえる。そうでもしないと叫んでしまいそうだった。鏡の中で、濃紺のドレスに身を包み、髪を黒く染めたエリシアが目を丸くしている。そんなわけがないのに、一瞬本気でそう勘違いしてしまった。
――私って、エリシアと似てるんだ……。
双子なのだから当たり前なのだけれど。髪の色だとか魔力の有無だとか性格だとか。似ていない部分があまりに多すぎて、いつしか似ているとは思わなくなっていた。まじまじと鏡の中の自分を見ていると、「エリシア様?」「何かお気に召さないところがありましたか?」と恐る恐る侍女の二人に尋ねられる。
「まさか! とっても素敵で、自分ではないように見えたから驚いていたの」
「まあ……」
「もったいないお言葉ですわ」
安心したように息を吐く二人。エリシアを装ったけれど、紛れもないネリアの本心だ。塔では誰に見せることもないものだからと、ここまで気合を入れて身支度を整えることはなかった。必要最低限の身なりしか気にしたことのないネリアにとって、生まれて初めてのドレスアップは少なからず心躍るものだったのだ。侍女の二人がいなければ、部屋中を飛び跳ねていただろう。
「二人とも、本当にありがとう」
「とんでもありませんわ」
「素敵なドレスを貸してくださったセレステ様にも感謝しなくてはね。お礼の品を選ぶのに、付き合ってくれる?」
「もちろんです」
ニコニコと微笑む二人に、胸が熱くなる。二人がどこまで事情を知っているのかはわからないけれど、諸手を挙げて歓迎されたわけでないことは知っているはず。皇弟の婚約者の侍女を任されるぐらいなのだ、二人とも良家の出身なのだろう。振る舞いも礼儀作法も、ネリアよりよっぽどきちんとしている。それなのに、つい数時間前まで地下牢に閉じ込められていたような、誰からも身分を疑われているようなネリアに無礼を働くことが一切ない。何も聞き出そうとはせず、ただただ忠実に職務を果たしてくれることが、ネリアにとっては何よりありがたかった。
*
「準備はできたか?」
「シルビオ殿下」
「できておりますわ」
晩餐会直前。部屋まで再びやってきたシルビオを、侍女の二人が弾んだ調子で迎え入れる。昼間は人望がない、だなんて言ってしまったけれど侍女からは好かれているらしい。あんなに口が悪いのに、と思ったけれど、侍女に対して挑発的な物言いをしているわけではない。乱暴な口調でそっけない態度だけれど、良いように言えば硬派とも言える。輝く金色の髪に、吸い込まれそうな碧い瞳、優美な顔立ちの彼が硬派なのは、さぞかし好印象を与えるのだろう。しかも皇弟なのだから、地位も申し分ない。ネリアが侍女の立場なら、身分違いの恋心を抱くまであったかもしれない。
「おい」
「! はい」
ぼんやりしているうちに、目の前にまで来ていたらしい。この人、私を訪ねてくるのは今日だけで何回目なんだろう、とどうでもいいことを思いつつ、エリシアらしくにっこりと微笑む。一瞬、虚を突かれたように目を丸くしたシルビオだけれど、すぐに仏頂面に戻った。
「そのドレスはどこで?」
「セレステ様が貸してくださったの」
「ああ……」
納得、と言った様子で頷く様子は素の反応に見えた。詳しく聞いていないけれど、シルビオと皇帝の婚約者は以前から付き合いがあるのだろうか。だとすれば、前に着ていたのを見たことがあるのかもしれない。なんとなく微妙そうな顔をしているのを訝しんでいると、片手が差し出される。城内を案内してくれたとき同様、エスコートしてくれるのだろう。男性にエスコートされることに今日だけで慣れるはずもないので、思わず心臓が高鳴ってしまうのを必死に隠す。エリシアなら大袈裟にいちいち反応することはないはずだけれど、ネリアには難しい。
妙に口数の少ないシルビオに伴われ、連れて来られたのは大広間。待っていると、一組の男女が現れる。シルビオが頭を下げるのを見て、皇帝とその婚約者であることを悟った。皇帝は確かシルビオの兄のはず。静かに頭を垂れながら、ぼんやりと思いを馳せる。
――あんまり似てないのね。
金髪碧眼のシルビオに対し、皇帝は黒髪にヘーゼルの瞳。中性的な顔立ちで優美な印象を与えるシルビオとは対照的に、筋骨隆々な皇帝は全体的に雄々しい印象だ。エリシアとネリアは色彩こそ違えど、双子なので顔立ちは似ている。けれどこの兄弟は、二人とも端正な顔立ちをしているところ以外、ほとんど共通点などないように見えた。
「其方がキシュ王国の王女か」
落ち着いた声がネリアに話しかける。「はい」と頭を下げたまま答えると、「面をあげよ」と促された。ヘーゼルの瞳はネリアをまっすぐに見据えている。「キシュ王国付近の村で何があったかは聞いているな?」と尋ねられるので、再び「はい」と答えた。
「我が国の民の行方に、心当たりは?」
「ございません」
「キシュ王国の国王夫妻の不審な死は?」
「自害したと聞いたのみです」
「国内の貴族が姿を消していることについては?」
「聞き及んでおりません」
衛兵にもシルビオにも聞かれたことを尋ねる皇帝に、すでに答えたことを淡々と繰り返す。初めて顔を合わせるのが玉座の間での正式な謁見ではない時点で薄々気づいていたけれど、この婚約はどうやら思惑があってのことらしい。そう疑ったのが顔に出ていたのか、皇帝は口を開いた。
「キシュ王国は現在、コーア帝国が統治している」
「! さようで、ございますか」
初めて知った事実に驚いたけれど、そうだろうと納得した。国王夫妻と王女どころか、貴族さえ姿を消しているのだ。支配階級を失った民衆が路頭に迷うぐらいなら、落ち着くまでコーア帝国に面倒を見てもらったほうがましだろう。
「民衆の混乱を防ぐため、両国の和平という名目で弟のシルビオと其方には婚約してもらうことになった」
急なことですまない、と謝罪を口にする皇帝。慌てて頭を振るけれど、それ以上の言葉をネリアが紡ぐことはできなかった。一見誠実に見えるけれど、明かされていない情報があまりに多い。帝国が王国を攻めてきたのは、国境沿いの村で帝国民が姿を消しているからその調査のため。ネリアを連れてきたのは、何かしら知っているに違いないと思ったからだろう。そこまでは飲み込めた。
けれど、一時的に帝国が王国を統治するだけなら、わざわざ皇弟と王女で婚約する必要はあるのだろうか。何も知らなさそうな王女をそのまま王国に戻すことが不安なら極端な話、王女を即位させて政治の実権はコーア帝国が握ってしまえばいい。後ろ盾もなく、国力でも劣る帝国相手に王国が逆らえるはずもないのだから。そうしないのは、つまり――。
「陛下。せっかくの料理が冷めてしまいますわ」
「セレステ」
沈黙を破ったのは、皇帝の隣に佇む美しい女性――皇帝の婚約者である、セレステだった。豊かな栗色の髪に優しそうなグレーの瞳。光沢のある深緑のドレスがよく似合っている。心なしか、話しかけられた皇帝の雰囲気が和らいだ。この人が皇帝妃になる方なんだ、ドレスのお礼を言わなきゃ、と逡巡しているとセレステはネリアを見て微笑んだ。
「陛下、私をエリシア様に紹介してくださらないと。ご挨拶もできませんわ」
「ああ……すまない。エリシア殿、こちらは婚約者のセレステ」
「初めまして、エリシア様」
「初めまして。……あ、あの、ドレスやアクセサリーを貸していただき恐縮ですわ」
気持ちが早ったせいでお礼がどこかつんのめってしまう。言うタイミングを間違えた、と焦ったけれどセレステはますます嬉しそうに破顔した。
「気になさらないで。そのドレス、とってもお似合いですから良ければ差し上げますわ」
「えっ!? で、でも」
「お近づきの印です。それより、早く食事にしませんか?」
立ちっぱなしでは疲れてしまいますわ、と屈託なく微笑むセレステ。皇帝と皇弟相手になんて強気なのだろう、とドギマギしたけれどよくある光景らしい。似ていない兄弟は揃って大人しく席に着き、セレステの言葉を契機に使用人とメイドたちが給仕の準備に取り掛かる。どうやら、皇帝一家においてセレステの発言権はなかなかに強いようだ。
席に座り、なんとなくシルビオに目を向けるとセレステの方を見ている。ネリアに見せる挑発的な顔でも仏頂面でもない、穏やかな笑みを浮かべていて、この人そんな表情もできるのかと驚いた。