身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる

9

「ははっ、何が何やらって顔してんな」

 ネリアに覆い被さるシルビオは、嘲るように笑う。ソファに押し付けられているせいで、両手首が折れそうなぐらいに痛い。顔を歪めて痛みに耐えると、シルビオはますます笑みを深くした。喧嘩しているときの馬鹿にするような笑い方とも違う。向けられたことのない類の笑みを、どう形容したらいいのかわからない。

 身を捩って逃げようとするネリアに、気づけば馬乗りになるシルビオ。手首を拘束する力が増すせいで、身動ぎ一つできそうにない。ネリアはただ、シルビオと話したかっただけなのに。いずれは王国の様子を見に行かせてもらえるぐらいに信頼を得たい、という思惑はあるものの。彼と結婚することが既定路線なら、できればお互いに歩み寄りたいと思ったのは事実だ。

 だからセレステに相談して、その流れでシルビオの生い立ちも聞いた。本当は本人から聞くのがいいと思うけれど、と前置きして話してくれたセレステ。放っておくといつまでもシルビオはエリシアに自らの生い立ちを話さないだろう、と予期していたのかもしれない。他の誰かから悪意ある形で伝わるよりは、と教えてくれた判断は間違っていないと思っている。

 けれど、本人の預かり知らないところで生い立ちというデリケートな話を勝手に聞き出したのは事実。仲を深める前にまずそのことを謝らなければ、と思ったのだけれど。ネリアの謝罪を聞くのもそこそこに、どういうわけかソファに押し倒されてしまった。

「ど、どいてくださらない?」
「嫌だ」

 丁重にお願いしてみたものの、返事はにべもない。「魔法でもなんでも使って抵抗してみろよ」だなんて、魔力封じの腕輪をつけておいてよく言えたものだ。そもそも魔力がないので、腕輪を外してもらったところで意味はないけれど。

 欲情しているようには見えない碧眼が、冷たくネリアを見下ろす。ろくな閨教育も受けてこなかったけれど、最近の妃教育のおかげだろう。流石のネリアにも、この先の行為は想像がついた。王国がどうかはよくわからないけれど、帝国では純潔性が特に重んじられていないことは知っている。婚約者同士なのだから、婚前交渉に臨んだところで咎めるものは誰もいないだろう。叫んだところできっと、誰も助けてはくれない。

 シルビオもそれをわかっているのか、ネリアの唇をなぞる親指の動きが艶かしい。拘束が外れた手で腕を掴んだけれど、びくともしなかった。どうしよう、と焦りと共に心臓が早鐘を打つ。このままだと勢いのままに初夜を迎えることになってしまう。シルビオに初めてを捧げること自体は別にいい。いずれは結婚するのだし、シルビオの言う通りお互いを知るきっかけになるのなら構わない。王国のためならいくらでもこの身を捧げる気概だ。エリシアがどうしたかはわからないけれど、少なくともネリアはそう思っている。

 ――けど、こんなのって。

 身を屈めたシルビオの、端正な顔立ちが徐々に顔が近づくのを見て覚悟を決めた。ソファにぴたりとくっついた後頭部をどうにか浮かし、「ふんっ!」っという掛け声と共に勢いよく頭を前に突き出す。ゴチンッと鈍い音が頭蓋骨に響き、頭に鮮烈な痛みが走った。

「いってえっ!?」

 心底驚いたような声と共に手首の拘束が外れ、ネリアを覆い被さっていた重さが消えた。割れるように痛む額を押さえて目を開けると、シルビオも同様に額を押さえている。悶絶している隙を突いて、いそいそとシルビオの下から這い出る。ソファの端っこにまで距離を開け、シルビオを睨みつけた。

「おっ、お前っ! 頭突きって、はあ!?」
「手を封じられているのだから仕方ないでしょう?」
「だとしても、王女が頭突きするか!?」
「あら、散々偽物扱いしておいて、今更認める気になりましたの?」
「くそっ、ああ言えばこう言う……!」

 額を押さえたまま頭を抱えるシルビオ。数日前にもしたような言い合いの空気に、全身の力が抜けるように安堵した。どうやらフライング初夜は、無事に回避できたらしい。叫んだせいで荒くなる息を整え、激しく鼓動する心臓のあたりを抑える。ゆっくり深呼吸していると、不意に視界がぼやけた。「! な、何泣いてっ……」と、ギョッとしているシルビオをキッと睨みつけ、袖で雑に涙を拭う。戦慄く唇を開くともう一度泣いてしまいそうだけれど、ぐっとお腹に力を込めた。

「あ、あなたが言うように、本当にこれでお互いを知ることができるのなら、い、いくらでも付き合ってあげるわ」

 情けないぐらいに震えているのが、自分でもわかる。「だって私は王女だから。国のためなら、なんだってやる」と続けるけれど、ひっくり返った声では満足に啖呵も切れない。それでも、ここは精一杯の虚勢を張らなければならないところだ。爪が食い込んで痛いぐらいに、拳を握りしめる。

「けれど、それで私の尊厳を踏み躙れると思ったら大間違いよ」

 シルビオが目を見開く。実際のところ、どうしてシルビオが急にネリアを押し倒したのかはわからない。生い立ちのことを勝手に知られた腹いせかもしれないし、単にネリアのことを揶揄ってギャフンと言わせたいだけなのかもしれない。どちらにせよ、そこに真面目な思惑などないことは確実だ。後から後から涙が溢れるので、拭うことはもはや諦めた。見開かれた碧眼には、見ていられないほどに泣きじゃくるネリアが映る。けれど、それでもシルビオを睨みつけることはやめなかった。

 広い部屋に、ぐず、と鼻を啜りしゃくりあげる音だけが響く。シルビオが部屋を訪れてから、どれぐらい経ったのだろうか。このままだとソファで向かい合ったまま夜が明けてしまいそう、そう思い膝を抱えたときだった。

「……悪かった」

 沈黙を、シルビオの声が破る。ぱち、と瞬くとクリアになった視界で、ばつの悪そうな顔でそっぽを向いた。まさか謝ると思っていなかったので、うまく言葉が紡げない。はく、と口をパクつかせていると、「ごめん」とさらに謝罪を重ねる。が、その後の言葉に迷っているのだろう。「あー……」だとか、「えー……」だとか続けるばかりで、随分と歯切れは悪い。すっかり濡れた袖で涙を拭いて何を言うのか静かに待つ。数分ほど頭を悩ませた末に、ようやくシルビオは口を開いた。

「なんていうか……あんまり知られたくないことを知られた八つ当たり、だった」

 そう告げられた言葉に、ネリアは目を見開く。人のことをこんなに泣かせておいて、その言種はなんというか。

「さ、最低」

 その一言に尽きた。生い立ちを知られたのがそこまで嫌だったのだとしても、八つ当たりで押し倒す必要はあったのか。非難したいことが山ほどあるのに、何から口にすればいいのかわからない。ぐずぐずと未だ鼻を啜るネリアに、「わかってるよ……」とシルビオは項垂れる。金髪が顔にかかるのを見ながら、羨ましいぐらいに綺麗だと何度思ったかわからないことを思った。エリシアほどの白金ではないけれど、彼の金色も十分に美しい。神の加護を受けられなかったネリアとは大違いだ。

「セレステ殿から聞いたんなら知ってると思うけど」

 ネリアが髪色を羨んでいるとは知らないシルビオは、俯いたままポツポツと話し始めた。「俺の母親は平民だから、陛下とは腹違いなんだよ」と続けるのを、瞬きもせずに見つめる。

「母親は実家に戻って俺を産んで、俺が十歳のときに死んだ」
「!」
「これからどうやって生きていこうってときに城から迎えがあって、それで初めて俺の父親が先代皇帝だって知った」

 淡々と告げられるのは、セレステからは聞いていなかった話だ。陛下とは腹違いで、父親の色よりも母親の色を強く引き継いでいること。先代皇帝とも陛下とも似ていないせいで、臣下からは血の繋がりを疑われていること。市井育ちであることを理由に、良く思われていないこと。その辺りを主に聞いていたので、母親が亡くなったことや、自分が皇帝の息子であることをずっと知らなかったことは聞いていなかった。

「なんだ、そのあたりは聞いてなかったのか?」
「え、ええ。陛下とは腹違いで市井育ちだとは聞いていたけれど……」
「まあ、それだけ知ってりゃ十分か。俺が臣下から人望ない理由がよくわかったろ?」
「……」

 皇宮を案内してくれたときに遭遇した、ユルゲン侯の態度について言っているのだろう。冷たく当たられるので言い返しただけ、と思っていたけれど、背景を知るとなんてことを言ってしまったのだろうと気が重い。ぐ、と唇を噛み締めるネリアにシルビオはどう思ったのか、眉を下げて苦笑した。

「お前、多分根はいいやつだよな」
「へ」
「俺の育ちなんて知るわけないし、俺も酷いこと言ってんだからお互い様だろ」

 確かにシルビオも、ネリアの事情など全く知らずに偽王女だのなんだのと疑い悪態を吐いている。先ほどに至っては、八つ当たりで押し倒されまでしたのだ。お互い様で片付けていいのかもしれない。

「でも、それで酷いことを言った事実が消えるわけでも、許されるわけでもありませんわ」
「……」
「だから、ごめんなさい。無神経なことを言いました」

 けれど、それはネリアの良心が良しとはしない。頭を下げて謝る。知らなかったで済ませるのは、ネリアの王女としてのプライドが許さない。エリシアがこういうときにどうするのか考える余裕もなかったけれど、きっと同じようにするのだろう。双子だからなんとなくわかる。

「や、別に……そんな謝られるようなことじゃ……俺も悪いし……」

 頭上からモニョモニョと聞こえる。いつものシルビオからは考えられないほどにしおらしい。顔を上げると、気まずそうなシルビオが相変わらずそっぽを向いてソファに膝を立てて座っている。二人とも、これ以上何を話せばいいのだろうと迷っている空気が漂っているけれど、なんとなく仲直りできたのではないかと思えた。抱えていた膝をようやくおろし、ソファにちょこんと腰掛ける。

「あのさ、聞いていいか?」
「何?」

 ぷら、とお行儀悪く足をパタつかせかけたとき。不意に、シルビオが尋ねた。慌てて足をきゅっと閉じ、今ならなんでも答えようと意気込んだけれど。

「お前は、本当は一体誰なわけ?」
「……」

 端的な質問に、痛いほどの沈黙が訪れる。ネリアの思うなんでも答えられる範囲に、その質問は入っていなかった。突き刺さる視線をひしひしと感じながら、一生懸命に逡巡する。このまま打ち開けてしまおうか、シルビオも生い立ちを話してくれたのだから、と思ったけれど。

「……」
「……」
「……エリシア」
「そんなわけねえだろ!?」

 たっぷり間を取った末に紡いだのは、双子の姉の名前。結局、「なんでも答えよう」という気概が発揮されることはなかった。「この流れでまだその嘘貫き通す!?」と信じられないと言いたげなシルビオの声が、部屋中に響き渡る。つん、とエリシアを取り繕い、すまし顔で口を開いた。

「嘘だなんて酷いことをおっしゃるのね。正真正銘、キシュ王国の王女エリシアですわ」
「ほらもう、そのわざとらしい口調! 疑われるたびにその喋り方してんのわかってんだからな!?」

 ぎくり、と体が強張るのをシルビオは見逃さなかった。「図星じゃねえか」と言っているので、そっぽを向いて誤魔化す。

「いやもうお前、お前本当にさあ……」
「お前、だなんて失礼な方。名前で呼んでくださればいいのに」
「本名教えてくれたら呼んでやるよ」
「エリシア」
「もう一回泣かすぞ」

 突き刺さるような視線から逃げるようにして、顔を背けるけれどそろそろ苦しい気がする。けれど、それでもネリアが自らの正体を明かすことはできなかった。シルビオが生い立ちを話してくれたとしても関係ない。エリシアが任せてくれた、「エリシアの身代わり」という役割は、そう簡単に放棄できるものではないのだ。

「強情だな、ほんと……」

 はあ、と呆れたように息を吐いてシルビオは立ち上がる。パッと顔を上げると、ネリアの前を通り過ぎて扉へ向かうところだった。「あ、ちょ、ちょっと」と思わず引き留めると、「明日」と単語だけが返ってくる。振り向いたシルビオは、頭をガシガシと掻きつつ口を開いた。

「明日こそは口割らせて本名聞き出すからな」
「……明日も、来てくださるの?」
「お互いのこと、よく知りたいんだろ?」

 そう言って踵を返すシルビオ。慌てて、「あの、来てくれてありがとう。おやすみなさい」と声をかけると、「おやすみ」と今度は振り向かずに返された。部屋から出ていくのを見送っても、しばらくそこから動けないネリア。いろいろとあったけれど、なんとなく前進はできた気がする。相変わらずエリシアではないと疑われているけれど、シルビオも会話する気になってくれたのは随分大きい。

「明日からも、頑張らなきゃ」

 そう意気込んで、眠りについた。
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