落とされる気なんてなかったのに

《第10話 「ゲームじゃない」って言われたのに——》

その日一日、胸はずっと落ち着かなかった。

 授業中も、休み時間も、放課後になっても。
 黒板の文字を写しているふりをしながら、
 私の頭の中には昨日のことばかりがぐるぐるしていた。

 階段で、先生に引き止められたこと。
「七海……」って、呼ばれた声。
 そして、その手を振り払って、
 私を連れて行った玲央くんの背中。

(……胸が、まだ痛い)

 どちらのことを思い出しても苦しい。
 でも、今胸の真ん中にいるのは——

(玲央くんの顔だ……)

 きつく抱きしめられたときの、
 耳元で震えた声。

『怖かった……あのまま、お前……先生の方へ行くんじゃねぇかって』

(そんなこと言われたら……
 もう、知らないふりなんてできないよ……)

***

 放課後、帰り支度をしているときに、
 机の中でスマホが小さく震えた。

〈玲央〉
『今日、絶対時間とれ』

(“絶対”って……)

 その一言だけで、胸が跳ねる。

〈七海〉
『仕事、忙しいんじゃ……』

〈玲央〉
『忙しい。
 でも、それより先にお前に言うことある』

(……言うこと)

 昨日、

『後で言う。絶対逃げんなよ』

 そう言われた言葉が、
 胸の奥でゆっくり熱を帯びる。

(もしかして……今日、それ……言うつもり?)

 喉が、カラカラに乾いてくる。

〈玲央〉
『スタジオ終わったら、屋上来い』
『逃げたら迎えに行く』

(屋上……)

 心臓が、ドクンと強く鳴った。

***

 教室を出ようとしたとき。

「七海」

「っ……はるま先生……」

 先生に呼び止められた。

 振り返ると、
 先生はいつものやわらかい笑顔を浮かべているのに、
 その目はどこかぎこちない。

「今日は……顔色、悪くないですね」

「え……あ、はい……」

「昨日よりは、少し……楽そうに見える」

(楽なんて、全然じゃない……)

 でも、先生に本当のことは言えない。

「……何か、変わりましたか?」

「……っ」

 “変わった”っていう言葉が、
 玲央くんのことを真っ先に思い出させた。

 階段で引き止められたこと。
 そして、奪うように抱きしめられたこと。

(変わってないって言えない……
 でも、変わったって……言えない)

 返事に詰まって俯いた私を見て、
 先生はほんの一瞬だけ目を伏せた。

「七海」

「……はい」

「どんな答えを出してもいい。
 ただ……自分を傷つける選択だけはしないでください」

「え……」

 先生の声は、優しいのに、どこか必死だった。

(先生……
 私が何で揺れてるか……なんとなく気づいてるのかな……)

 胸が痛くて、
 視線を合わせていられない。

「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」

「……はい」

 私は頭を下げて、
 先生の前から逃げるように教室を出た。

(これから……玲央くんに会うなんて……
 絶対、知られたくない……)

***

 玲央くんの仕事が終わるのを事務所で待って、
 スタッフさんの視線を気にしながら
 こっそり屋上へと続く階段を上がる。

 ドアを開けると、
 街の夜景と冷たい空気が一気に入り込んできた。

 そして——
 柵にもたれて夜空を眺めている玲央くんの背中。

「……来たな」

 振り向きもせず、
 声だけが冷たい空気を震わせる。

「……遅かったら、迎えに行こうと思ってた」

「お、遅すぎました……?」

「ギリセーフ」

 振り向いた玲央くんは、
 照明に照らされて横顔が綺麗に浮かんでいた。

 胸がぎゅっとなる。

「七海」

「……な、なに……?」

「こっち来い」

 玲央くんが、
 柵のそばまで手招きする。

 少し躊躇して近づくと、
 それだけで心臓が苦しくなる。

(また……抱きしめられたら……どうしよう……)

 玲央くんは、
 夜景じゃなくて私だけを見ていた。

***

「昨日さ」

「……はい」

「先生に言っただろ。“七海は俺がもらいます”って」

「っ……!」

 いきなり核心の言葉を出されて、
 胸が跳ねる。

「……あれ、
 かっこつけて言ったわけじゃねぇから」

「……」

「本気だった」

 その言い方があまりにもまっすぐで、
 息が詰まる。

「落としゲームとか……
 そんなの、もうどうでもいい」

「……え……」

「七海」

 名前を呼ばれた瞬間、
 肩がびくっと震えた。

 玲央くんの手が、
 そっと私の手を包む。

「最初は……
 “俺に靡かない女”が珍しくて面白かった」

「……っ」

「お前だけ、俺に甘い顔しないから。
 無視されたみたいでムカついて……
 落とすゲームにしてやろうって思ってた」

 知ってる。
 それは全部、最初から聞いていたこと。

 でも、
 この先が、怖かった。

「でもな」

 玲央くんは、
 ふっと短く息を吐いて、言葉を続ける。

「気づいたら……
 落ちてんの俺のほうだったんだよ」

「っ……!」

「キスの時、震えたの……
 お前だけじゃねぇから」

 心臓が止まりそうになった。

(震えてたの……私だけじゃ、なかった……?)

「抱きしめたとき……
 お前の体温が俺の胸にくっついて……
 マジで離したくねぇって思った」

「……玲央、くん……」

「先生に奪われそうになったとき……
 人生で一番ムカついた」

 玲央くんの声が、
 少しだけ低くなる。

「七海」

 手をぎゅっと握られる。

「俺、
 お前が好きだ」

「っ……!」

 屋上の空気が、
 その一言で全部変わったように感じた。

「七海のこと、
 女としてちゃんと好きだ」

 冗談じゃない。
 からかいでもない。

 真剣な目が、
 私だけをまっすぐ捉えている。

(どうしよう……
 本当に、言われちゃった……)

 足元がふらっと揺れた気がした。

***

「……なにか言えよ」

「……っ……」

 言葉が出ない。

 嬉しい。
 嬉しくないわけがない。

 胸が、
 壊れそうなくらい熱くなっている。

(だって……
 あんなふうに抱きしめられて……
 今だって、こんな顔で見られて……
 嬉しくないはず、ないのに……)

 でも。

 先生の声も、頭から離れない。

『どんな答えを出してもいい。
 ただ……自分を傷つける選択だけはしないでください』

(私……
 このまま“はい”って言ったら……
 きっと先生を傷つける……)

 胸の奥に、小さな罪悪感が生まれる。

(でも……
 先生のことを思って“待ってください”って言ったら……
 今度は玲央くんを、もっと傷つけちゃう……)

 息が詰まって、
 喉がぎゅっとなる。

「七海」

 玲央くんが、
 私の顔を覗き込んで眉をしかめる。

「……泣きそうな顔すんなよ」

「な、泣きそうなんか……」

「してる」

 玲央くんは、
 少し困ったように笑った。

「そんな顔させたくて、
 告白したわけじゃねぇよ」

「……ごめん……なさい」

「謝るな」

 夜風が吹き抜ける中で、
 玲央くんの声だけがあたたかかった。

「今すぐ答えろとは言わねぇ」

「……え……」

「先生のことも……
 お前の中にいるの、分かってるから」

 その一言に、
 胸がずきんと痛む。

(やっぱり……
 全部、気づかれてるんだ……)

「だから……
 ちゃんと俺を見てから決めろ」

「……玲央くんを……?」

「そう」

 玲央くんは、
 しっかりと言葉を置いていく。

「先生じゃなくて、
 家族でもなくて、
 周りの目でもなくて」

 指先で、そっと私の胸のあたりを軽くつつく。

「ここ。
 お前の心臓が、
 誰の名前を呼びたがってるか」

「……!」

「それ、ちゃんと確かめてから……
 俺に答えろ」

 優しいのか、残酷なのか、
 分からない言葉。

 でも——
 逃げ道を残してくれたのは、
 確かな優しさだった。

「なぁ七海」

 玲央くんは、
 少しだけ声を落として言う。

「俺に……
 期待しててもいいから」

「…………」

「先生と迷うくらいなら……
 ちゃんと、
 俺のほう、見とけよ」

 そのまっすぐな言葉に、
 胸がきゅっと締めつけられた。

***

「……ごめん、なさい。
 今、すぐには……返事、できない……」

 やっと絞り出した声に、
 玲央くんは目を伏せて、小さく息を吐いた。

 一瞬、胸がひやりとする。

(傷ついたよね……
 今のは……)

 そう思った瞬間——

「……そっか」

 玲央くんは、
 ふっと笑って私の頭をぽんと撫でた。

「じゃあ、猶予やる」

「ゆ、猶予……?」

「俺のこと、
 ちゃんと好きになってから“はい”って言え」

「っ……!」

「中途半端な“ごめんなさい”言われるほうが、
 よっぽどムカつくから」

 軽く笑っているのに、
 その目はどこまでも真剣だった。

「覚悟しとけよ、七海」

「……な、何を……」

「これから本気で落とすから」

 あの日の“ゲーム宣言”とは違う。
 本気で、私の心だけを狙った言葉。

(こんなの……
 好きにならないほうが無理じゃん……)

 胸が、静かに、でも確実に
 玲央くん側へと傾いていくのを感じた。

 それでもまだ——
 私は先生のことを考えてしまう。

(ねぇ、はるま先生。
 私、どうしたらいいんだろう……)

 夜の屋上で、
 星にも届かない小さな願いが
 胸の中で揺れては消えていった。
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