落とされる気なんてなかったのに

《 先生side —気づけば目で追っていた—》

職員室の窓から見える中庭。
 昼休みのざわめきの中で、七海が友達と笑っているのが見えた。

(……あの笑顔、変わってないな)

 十数年前、兄の家に遊びに行くたび、
 いつも小さな足で駆け寄ってきてくれた女の子。

“はるまお兄ちゃんっ!”

 呼び声も、笑顔も、懐っこさも。
 全部そのままだ。

 だけど――。

(……昨日と、少し違う)

 気のせいだと思った。
 新しい担任に変わったばかりで、緊張しているだけだと。

 でも、今日の七海の表情はどこか落ち着きがなく、
 時々、寂しそうに視線を伏せていた。

(七海……何かあったのか?)

 教師として心配するのは普通のこと。
 だけど胸にひっかかるこの感じは、
 “普通の心配”とは少し違った。

***

 数学の時間、七海はノートを取りながらも、
 時折、遠くを見るような目をしていた。

(集中してない……眠いのか?)

 声をかけようとして、やめた。

 教師と生徒。
 公の前で特別扱いはできない。

(落ち着け。七海だけ特別扱いするな)

 自分にそう言い聞かせて、
 黒板に式を書き続ける。

 それでも。

 ペンをくるくるまわす癖、
 間違えたところを小さく丸で囲む癖、
 分からないときに眉をほんの少し寄せる癖。

(……こんな細かいところまで覚えてるなんて)

 自分でも驚く。

 七海は“生徒のひとり”のはずなのに。

(……なのに、どうして)

 こんなに目が離せないんだろう。

***

「七海。少し、いいか?」

 また呼び止めてしまった。
 意識していなかったけれど、
 気づけば彼女に声をかけていた。

「……はい」

「今日、少し元気なかったな」

 七海の肩が小さく揺れる。

「……そんなことないですよ」

「嘘だな」

「っ……!」

 七海の表情は、
 嘘をつくときだけ、ほんの少し震える。

 それを昔から知っている。

「無理に言わなくていい。
 でも、困ってるなら……俺は力になりたい」

 七海がはっと顔を上げる。

(……その目。昔と同じだ)

 頼るときの、少しだけ甘えるような、
 泣きそうな瞳。

 胸がきゅっと痛む。

(だめだ。そんな顔されたら……)

「先生……」

 小さな声で名前を呼ばれた瞬間、
 胸の奥がじりっと熱を帯びた。

 “はるまお兄ちゃん”と呼ばれていたころの気持ちが
 一斉に蘇る。

 守りたいと思ってしまう。
 支えたいと思ってしまう。

(……いや、違う。これは教師として……)

 自分に言い聞かせても、
 心は冷静ではいられなかった。

***

「帰り道、暗くなってから危ないから気をつけろよ」

「あ……はい」

「ほんとに、何かあったら言え。
 昔みたいに頼ってくれていい」

 その瞬間、七海が少し微笑んだ。

 その笑顔が――。

(……可愛い、なんて思ってしまったのか)

 胸がざわついた。

 違う。
 そう思っちゃいけない。

(七海は生徒で、俺は教師だ。
 その線を越えるつもりは……ない)

 ないはずなのに。

 七海が靴を履き替えるとき、
 指先がふるえていたこと。

 誰かを思い出したみたいに、
 頬が少し赤かったこと。

 それを見た瞬間、
 胸の奥がぎゅっと痛んだ。

(……誰かのことで、あんな顔してたのか?)

 その疑問が、
 妙に心に刺さった。

***

(……七海)

 帰りゆく背中を見送りながら思う。

 あの日、事務所前で偶然ぶつかったときも、
 彼女の瞳はどこか潤んでいて、
 何かに戸惑っているように見えた。

 今日の七海も、
 同じように揺れていた。

(……誰なんだ?
 七海をあんな顔にさせているのは)

 生徒として心配。
 それは当然。

 けれど、それだけではない。

(……七海に、何かあったなら……
 俺は……ほっとけない)

 自覚したくない感情が、
 胸の奥で静かに、生まれはじめていた。
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