愚か者の後悔

愚か者の犠牲者たち-ルイス・チャールズ ②

次の日の朝、昨日のクロード伯父様の話の後体調を崩していたルイス兄様が回復し、ピクニックに誘われた。
フォルン領とガレリア領の境にある湖のほとり、そこにある一番大きな椎の木の下は母様とバーバラ妃殿下との思い出の場所だと何度も聞かされていた。

散歩がてら二人でゆっくりと歩き、木の下で昼食を取ったあとずっと黙って湖を眺めていたルイス兄様にぽつりと聞かれた。

「王族教育は何年かかると聞いてる?」

父様がジョージ兄様とルイス兄様に話していたのを何度も聞いているし、半年ほど前に僕自身の教育が始まった時にも説明を受けたのにと不思議に思いながら答えた。

「五年だろう?」

ルイス兄様は湖を見つめたまま答えた。

「ビアンカ姉上は二年かけずに終わらせてる」

そんなわけないだろうと声を上げてルイス兄様を見ると、やっぱり湖を見つめたまま話し始めた。

「本当だよ。僕と一緒に始まった姉上の王族教育は少し前に終わってる。
明日になればわかるけど、姉上は4ヶ国語も習得済だ。習得だけじゃなくてトビアス閣下に付いて商談や議会で議事録を取る補佐もしてる。議会の議事録のサインを確認したから間違いないよ」

そう言うと、呆然と目を瞠る僕に向き直って聞いた。

「姉上の所作やマナー、会話術が母上や伯母上、ホーエン公爵夫人や王太子妃殿下に比べて見劣りすると感じたことはある?」

そう言われて改めてビアンカ姉様の同席する茶会や晩餐会を思い起こし、僕は首を横に振った。

「そもそも比べる対象が間違ってるんだけど、最高位の貴婦人たちに見劣りしないという事は、淑女教育も完璧だって事なんだよ」

言葉にならない僕をまっすぐに見つめてルイス兄様は続けた。

「僕たちは毎日のように『王家の色』と聞かされて思い込まされているけど、そんなものがない事は歴代王と王族の肖像画を見れば一目瞭然だ。王家に連綿と伝わっているのは色じゃなくてビアンカ姉上の持つ左手小指の形だよ。
もちろん、僕たちが王家の血筋ではないと言っている訳じゃない。お祖母様が王族の血を全く引いていない初めての王妃だから、今後は必ず出現するとは限らないと言われているし、実際父上も僕たちもジョージ兄上だってそうなんだから。
だから、色や形でさも王族ではないように蔑んだり貶めたりするのは間違ってる。
父上や父上の周囲がどんなに貶めようと無視しようとビアンカ姉上の立場は揺るがないし僕たちの立場も変わらない。クロード伯父上の言う通り、きちんと自分がこれからどうしていくか考えなきゃいけない」

ルイス兄様は教育が始まって半年ほど経った頃に偶然ビアンカ姉様が天才だと教師陣が話している会話を聞いてしまい、それから今まで一年間ビアンカ姉様をものすごく意識して懸命に追いつこうと努力したそうだ。

「お陰様で努力した事はすごく役に立ってるし、特に2か国語の習得は自信にもなってるよ。でも、やっぱり天才には敵わないや」

こんな事、父上やカッセル侯爵たちの居る離宮では絶対話せないからねとウインクし、

「あーすっきりした!」

思い切り伸びをしながら大きな声でそう言って、ルイス兄様はほっとしたように笑みをこぼした。

その日の夕食時、ずいぶんすっきりした様子のルイス兄様とまだ複雑な気持ちながら周囲へ傲慢な態度を取らなくなった僕を見てもクロード伯父様は何も言わなかったが、母様の夕食後のお茶の時間だからこの後一緒にどうかと誘われた。

案内されて部屋に入ると、母様はゆったりした部屋着で寝台に坐っていた。
母様の顔を見ると涙が溢れてきて、自然にごめんなさいと口にすることが出来た。母様は泣いている僕とルイス兄様のすっきりした顔を交互に見て手招きし、二人一緒に抱きしめてくれた。
母様のいつもの香りがなんだかとても懐かしい気がした。


ガレリア侯爵に先導され、数か国の商談相手とビアンカ姉様、ホーエン公爵夫妻がガレリア侯爵邸に到着した。家臣筆頭のフォルン伯爵と小伯爵クロード卿は先頭に立ち一行を出迎えた。
王子という立場上、僕たちは応接室で出迎える事になり、各国の商談相手はビアンカ姉様から紹介を受けた。
複数の言葉が飛び交う茶会に僕は圧倒されっぱなしだった。
王太子妃殿下と見紛うばかりの優雅さと気品を湛え、商談相手全ての言語を流暢に話して堂々と渡り合うビアンカ姉様と、王子としての品格を備え、全ての言語ではなくとも使える言語ではビアンカ姉様と遜色なく会話しているルイス兄様の姿に、憧れるなという方が無理だった。

歓迎の茶会が終わり、商談相手を滞在用の別邸へ見送った後、突然ビアンカ姉様が、伯父様!と叫んでアラン卿の背中に飛びついた時には目を疑った。
すかさずホーエン公爵が、アレクお祖父様へのハグが先だろう!と割って入ると、フリーデリケ夫人とフローラ夫人がやれやれと言いながらビアンカ姉様をアラン卿とホーエン公爵からから引きはがしてソファに座らせ、夫人二人で両側を固める。

「だって伯父様の背中がこの世で一番落ち着ける場所なんだもの。
アレクお祖父様のハグはこの世で一番安心できるの」

ビアンカ姉様は目の前に坐ったホーエン公爵の手を取って微笑み、苦笑いのアラン卿には上目使いで肩を竦めてそう言った後、ルイス兄様にぱっと笑顔を向けた。

「それよりもルイス!素晴らしかったわ!たった一年で習得するなんて、本当に努力したのね!」

フリーデリケ夫人は笑顔で大きく頷き、フローラ夫人は立ち上がってルイス兄様の手を取って隣に座らせた。
ホーエン公爵は、フリーデリケ夫人の隣を僕に勧めながら目を細めて話しかけた。

「おや、ハリネズミ君はどこに毛皮を置いてきたのかな?」

僕の姉様へのとげとげしい態度を揶揄して『ハリネズミ君』と呼ばれていたことは知っていたが、面と向かって言われたのは初めてだった。
皆の視線が集まり、ビアンカ姉様には幼い頃以来の柔らかい笑顔を向けられて恥ずかしくて思わず俯いてしまった。

「二人ともいい顔になった。シェリル妃は素晴らしい子供たちを王家に授けてくれた。
御母上にそう感謝を伝えてくれ」

俯いた僕の背中を優しく叩きながらホーエン公爵にかけられた言葉に、僕ははにかみながら頷いた。

ビアンカ姉様が離宮で父上や僕たちにあれほど冷遇されても朗らかさを失わず能力を発揮できたのはこの人たちの支えがあったからなんだと納得した。

離宮の優しく隔絶された世界はそこしか知らなければ甘く心地いい。しかしその甘さには気付かないうちに徐々に蝕まれていく毒が含まれていた。
僕たちは苦い薬を無理やり流し込まれて苦しんだが、今では自滅を回避できた事に感謝しかない。


◇◇◇
王国には三つの公爵家があり、そのどれもが良好な関係を保っている。
王族が継ぎ外交を担うホーエン公爵家、国内一の軍を擁し、国の軍事を担うブレナン公爵家、国の穀倉地帯の三分の一を有し、代々優秀な文官を多く輩出するグレイ公爵家、それぞれが互いに敬意を持って協力し合い国を支えている。
バーバラ王太子妃がまだ婚約したばかりの頃の初めての発案で、国民の識字率を上げる取り組みが発表された時には、三公爵家が先陣を切って各家が支援する多くの教会や修道院、孤児院で、子供から大人まで誰でも受けられる無料の授業を開講し周知した。
特に子供たちが参加しやすい様に授業を受けるとパンや豆が貰えるようにし、その費用も各家が負担していた。
根気のいる地道な活動だったが、読み書きできる者が良い仕事につけて賃金も多く貰える事が徐々に浸透していった事で実を結び、人材が見込める事で新しい事業も増え、雇用が増える事で貧困層が減り始め、それに伴って経済も徐々に発展してきた。
その次には文化的な発展を促進するために出版業を新たに立ち上げ、どの家かが独占することなく分業制を敷いて利益を分散させている。

ホーエン公爵家はガレリア侯爵家の共同出資を受け、フリーデリケ公爵夫人が隣国の印刷技術を持ち込んでその部門を担っているが、昨年からビアンカ姉上が経営を一部任されている。
その中の新規部門として今回計画されているのが絵本と既存の本に挿絵を挟んで再出版する試みだった。新事業はビアンカ姉上の発案で、近隣国の新しい絵画の技法を絵本や挿絵として取り入れようというものだ。
サンプルとして持ち込まれた絵画はどれも素晴らしく、僕は一目で心を奪われてしまった。
一心に眺めていると、気に入って頂けましたかと声を掛けられ、思わず、どのように描くのかどうやったらこんな絵が描けるのかと矢継ぎ早に質問攻めにしてしまった。
あまりにも熱心な様子に、同行した絵師の滞在中、絵を教えて貰えることになった。
絵師のケネス氏は近隣国出身、僕の話せる言葉の国の人だった。
この時ほど言葉を習得していてよかったと思ったことはなかった。
一か月ほどの短い期間だったが、描く事に魅せられた僕は、毎日ケネス氏の元に通い夢中になって学んだ。
別れの時は名残惜しく、手紙での師事を約束してもらい固い握手を交わして見送ったのだった。
新規事業の材料や絵の取引が纏まり調印の運びとなった頃、一足先に王宮に帰っていたビアンカ姉上から、ケネス氏の国の美術アカデミーから入学許可証が送られてきた。
国に帰ったケネス氏が、僕の描いた絵を携えてアカデミーへ推薦してくれたらしい。
王家に入学の打診があった事を聞いたガレリア侯爵家から、学費と留学費用の支援の申し出があり、実弟のホーエン公爵から僕の熱心な様子を聞いたお祖父様の国王陛下が留学の許可を出してくれたそうだ。
天にも昇る気持ちとはこのことだ。
それを聞いた父上は大反対で国を出る事をなかなか許してくれなかったが、母上の粘り強い説得でしぶしぶ了承してくれた。

二か月の船旅の末、辿り着いた留学先で最初に受け取った手紙はお祖父様の国王陛下の訃報と、父上の即位の知らせだった。
遠い留学先では手紙も情報も思うように届かず、二年間の留学の末、帰国して目の当たりにしたのは父王と王太子である兄上のあまりにも身勝手な王命による婚約と兄上のあり得ないほど不誠実な不貞の事実、そしてその身勝手さが招いたビアンカ姉上の親友と仲の良かった従兄の葬送の結婚式だった。


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