笑顔の記憶
 三メートル四方のブルーシートの上には、真っ赤なベストを着て皆の注目を集める体長百センチを超える巨大なくまが腰を下ろしている。
 それは、『AYU』の看板マスコットとなっているが、亜由にとっては心理的コストが高かった。

 一年前のある晴れた日。
 亜由は地域の広報誌で見つけたフリマに、恋人の謙信と一緒に足を運んだ。
 会場となっていたのは、市民公園。色とりどりのテントが連なり、人々の声が心地よいざわめきとなって辺りに広がっていた。
 芝生の上に敷かれたブルーシートの上には、古着やレトロな食器や小物、ハンドメイドのアクセサリーなどが所狭しと並べられ、どこからともなく流れてくるアコースティックギターの演奏が心地よく耳を撫でる。キッチンカーからは、焼きたてパンの香ばしい匂いや、クレープの甘い匂いが漂っていた。
 亜由の視線は慌ただしく揺れ動き、そのわくわくする賑やかさと自由な空気感に自然と心を奪われていった。
 フリマは、毎月第二・第四の日曜日に開催されていて、予約なしの入場無料。その日から二人の休日デートはすっかり市民公園のフリマが定番となった。

 そうして何度目かのフリマの帰り道。
 夕暮れに染まり始めた空の下、謙信がふと口を開いた。

「亜由、服売ってみれば?」

 唐突に言われて、足を止めた。

「え?」

 理解できず問い返すと、謙信は優しく微笑んだ。

「亜由、いろいろ作ってるじゃん。今日着てるそのワンピースだってそうだろ? すげえお洒落だし、似合ってると思う」

 そんな言葉を掛けられ急に照れ臭くなった亜由は、ぎこちない笑みを返して視線を逸らした。

「でも、ただの趣味だし。どれも売れるような代物じゃないよ」

 お気に入りの、でも、自由気ままな趣味でしかない自作のワンピース。布選びも、パターンも、夜な夜なこっそり楽しむ小さな世界。そんなものを「売る」なんて、考えたこともなかった。

「買うか買わないかは、客が判断することだろ? 俺はいいと思うよ。やってみる価値はあると思う」

 自分では取るに足らないと思っていたものに、価値があるかもしれないなんて。そんなふうに言ってもらえたことが、内心嬉しくて仕方なかった。それも、誰よりも自分を理解してくれていて、正直で信頼できる謙信の言葉なら尚更だ。彼はいつも的確なアドバイスをくれる。
 自分の店を持ちたい――誰もが一度くらいは夢見るだろう。亜由も密かにそんな夢を持っていた。けれど、行動に移すにはそれなりの覚悟と時間と費用がかかる。失敗すれば職を失い、借金を抱えることだってある。その点フリマなら、一日の出店料金は三千円と格安だ。たとえ商品が売れなくても、三千円の損失で済む。おそらく謙信は、そこまで考えて提案とアドバイスをくれたのだろう。今どき二人で三千円のデートなんて、映画館に行くこともできない。亜由には、フリマがどんなテーマパークよりも魅力的に映った。
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