笑顔の記憶
 謙信の言葉がきっかけで創作意欲が漲り、亜由は半年で三十着の洋服を完成させ、いよいよ三日後に迫るフリマ出店に心踊らせていた。
 翌日の金曜日、仕事を終えて帰宅し、商品の最終チェックをしながら値札を付けていると、インターフォンが鳴った。モニターに映るドアップの謙信を目にし、思わず笑みがこぼれる。
 勢いよくドアを開けると、毛むくじゃらの物体が亜由の視界を覆い尽くした。

「うわぁ、痛っ!!」

 驚いた拍子に下駄箱に肘をぶつけて、亜由は呻き声をあげた。ここが山中なら、腰を抜かしていたかもしれない。

「ごめんごめん、そんなに驚くと思わなかった」

 苦笑いを浮かべる謙信が抱えていたのは、赤いベストを着た茶色の巨大なくまのぬいぐるみだった。

「こいつ、看板マスコットにしたらいいんじゃないかと思ってさ。俺からの出店祝い!」
「えーっ、嬉しーい! ありがとう!」

 そんな会話を交わしてから、一年が過ぎようとしていた。気が付けば、亜由はフリマの常連出店者となっていた。
 けれど、隣に謙信の姿はない。
 駐車場に車を停め、荷物とくまのぬいぐるみを台車に積んで、ひとりで芝生広場に運ぶ。到着したらブルーシートを広げ、『AYU』の手作りの立て看板を設置し、ぬいぐるみを定位置に座らせる。それからハンガーラックを組み立てて商品を並べていく。手慣れたものだ。
 謙信とは、フリマ初出店の前日に別れた。ぬいぐるみを貰った翌日のことだ。会って話すこともないまま、たったひとことのメールだけで、あっけなく終わりを迎えた。

「幸せな思い出をありがとう」

 そんなメールに気付いて慌てて電話をかけるも、既に不通となっていて、それからすぐに謙信のマンションに駆けつけたが、ドアの新聞受けはテープで塞がれていた。いつの間にか引っ越していたのだ。要するに、振られたということだ。
 それでも、いつか何らかの形で謙信からまた連絡があるかもしれないと一年間待ち続けてきたが、その日が訪れる気配はない。
 酷い別れ方だと人は言うけれど、理由が全く思い当たらない亜由は、今でも狐につままれたような気持ちでいた。亜由には、謙信との楽しくて幸せな記憶しか残っていなかった。

「そのぬいぐるみは売り物ですか?」

 不意に声を掛けられ、振り返った。

「いえ、これは売り物ではありません」

 答える亜由に、女性は続ける。

「娘がどうしてもその子がいいとごねてまして……」

 女性と手を繋ぐ三才くらいの女の子が、べそをかいている。

「不躾なお願いですが、もしよければ譲っていただけないでしょうか?」

 思いがけない交渉に、亜由は当惑した。

「でも、値段がよくわからないので……」

 ハンドメイドの一点ものとは思えないが、よく見ると、ベストを着ていたり、デザインが凝っているような気もする。

「では、二万円で譲っていただけないでしょうか?」

 大きさからすれば、妥当な金額だと思えた。

「……わかりました」

 いつか処分しなければいけないと思っていた。手元にあることで、いつまでも謙信のことを忘れられずにいたからだ。だからといって、自分の手で処分するのは気が引けた。絶好のタイミングだったのかもしれない。

「おねえちゃん、ありがとう! くまちゃん大事にするね」

 小さいけれど、甘やかされてわがままに育ったわけではなさそうだ。きちんと躾されているのがよくわかる。
 大事にしてくれるなら、必要としている人に譲るほうがいいに決まっている。
 亜由は自分を納得させるように心の中で呟き、満面の笑みで手を振る女の子と母親を見送った。
 売るつもりだったわけではない。けれど、譲ったというと聞こえが良すぎる。実際は、三千円で買い取ってもらった形になる。手放せば安く、持てば高くつくぬいぐるみなのだ。
 その日、商品は完売し、確かに達成感があったが、荷物を積んだ台車がやけに軽く、亜由の胸の奥には少し寂しさが残った。
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