政略結婚した顔も知らない夫に気づけば溺愛されていたようです~御曹司は甘く攻めて逃がさない~
第一章 夫婦だけど顔も知らない
一章 夫婦だけど、顔も知らない


 目の前には婚姻届。

 なんの感動もないまま、私は記入が必要な箇所にさらさらと書き込んでいく。

 結婚なんてこんなものなんだな……。

 自分の名前が書かれた、薄っぺらい紙きれを見る。

 たかがこれだけのこと。

 それで私の大切な人を守ることができるなら、何枚でも書く。

 三年前のあの日。

 私は顔も知らない誰かと夫婦になった――。



《鈴木(すずき)主任。すみません、ウーロン茶が足りなくなりそうです》

 インカムからスタッフの悲痛な声が聞こえてくる。

 私、鈴木初香(ういか)が勤める『グレースカメリア東京』は、サミットや国際会議、有名人の結婚式や企業のパーティーなどが行われる、国内屈指の高級ホテルだ。

 その一角で、今スタッフは必死になって動き回っている。

「あと十分だけ耐えて、手配してあるから。それまではアルコールとオレンジジュースを多めに出して対応して」

 ここ最近の企業が催すビジネスがらみのパーティーは、アルコールよりもソフトドリンクの出が多い。それを事前に注意していたはずなのに、今回の担当は発注をミスしていたみたいだ。

 昨日のうちに気が付いて手配したけれど、ちょっと間に合わなかったか。後で宴会部の明石(あかし)課長に引継ぎをしておいた方がいい。

《今、ドリンク届きました》

 インカムから問題解決の声が聞こえてホッとしたのも一瞬で、すぐに背後のお客様から声をかけられた。

「すみません、お手洗いはどちらかしら?」

「はい、ご案内いたします。こちらへどうぞ」

 声をかけられた私は、お客様をレストルームまで案内する。

 会場に戻る間に、ひと息つく間もなくインカムから応援依頼が来て急ぎ足になる。

 はぁ、一年ぶりの宴会部の仕事はこたえるな。

 二十五歳。このホテルに新卒で就職して三年。学生時代のホテル内にあるカフェテリアでのアルバイト経験を含めると、もう五年ここで働いていることになる。

 身長百六十センチ。体重は普通……だと思う。不規則な仕事で忙しくなると食事を抜くことも時々ある。

 肩に届く髪は生まれつき色素が薄く、高校生の時は先生に注意されたりもした。ただ見た目も性格も地味なのでわざとそうしているのではないと、すぐに理解してもらえた。

 どこにでもまぎれてしまえるほど、取り立てて特徴のない私に、裏方であるホテルの仕事はとても合っていると思う。

 正社員で入社後二年間、宴会部で働いていた。だから一年前に配属された現在の客室係よりも仕事の歴は長い。

 おかげで体が覚えていてなんとかなる場面もあるが、細かい部分で勘が鈍っていてひやひやする場面が何度かあった。

 今回大手企業の創業百周年パーティーが行われることになった。順調に準備が進んでいたのだけれど、宴会部内で感染症が大流行し普段は客室係の主任として働いている経験者である私が、ピンチヒッターで駆り出されたのだ。

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