王子様なんて現れない
4※
「婚約おめでとう、クリスティ」
「ありがとうございます、叔父様」
カイルから婚約の申し出を受けたその日のうちに、叔父に宛てて手紙を書いた。両親が亡くなってからバタバタしていたのがようやく落ち着いてきたこと、カイルと婚約することになったこと、カイルと引き合わせてくれたことに感謝していること。うまくまとめられなかったせいで便箋数枚に及んだけれど、叔父はしっかり読んでくれたらしい。送って一週間後には屋敷に来てお祝いを伝えてくれた。生憎カイルは商談のために出かけていたので、クリスティ一人での応対となったけれど。
「婚約式も結婚式も、喪が明けてからにはなるんですけど……あの、それで、叔父様にお願いがあって」
「ああ、わかっているとも。式の立会人は任せてくれ」
嬉しそうに微笑む叔父に、胸が熱くなる。少し前の自分なら婚約者ができて浮かれることも、それを誰かが喜んでくれることも想像できなかっただろう。まだ喪中で、友人もいないクリスティが大々的にお披露目することはないけれど、唯一の身内である叔父が祝ってくれることが嬉しかった。
「それじゃあ、カイルが伯爵家の家督を継ぐのことになるかな?」
「はい、そのつもりです。あの……だめでしたか?」
「まさか。彼の人柄は私もよく知っているし、何よりクリスティが選んだ人なら何の問題もないよ」
思うがままに幸せになったらいいんだよ、と以前にも言ってくれたことと同じことを告げて微笑んでくれる。自分で何かを選び取ったことのないクリスティにとって、自分の選択を肯定してもらえることは何よりありがたかった。
カイルと婚約してからと言うもの、自分がわかりやすく浮かれていることを自覚している。カイルは模範的な婚約者で、いつだって誠実にクリスティのことを考えてくれた。やりたいことも、行ってみたい場所も、食べてみたいものも。今まで抑圧されてきたせいで自分の意見を主張することが苦手なクリスティに、根気よくどうしたいのかを聞いて意思を尊重してくれた。
行儀作法や語学だけでなく歴史や地理も学んでみたいと勇気を出して言えばその日のうちに家庭教師を手配し、王都で有名な公園に行ってみたいと言えば次の休みには連れて行き、街で流行っている焼き菓子を食べてみたいと零せば何時間でも並んで手に入れてくれた。あまりにも即座になんでも叶えてくれるものだから、最近は軽々しく願望を口にしないようにしている。嬉しいを通り越して申し訳なさすら覚えてくるからだ。
けれど、ささやかな欲求を口にするたび、喜んで叶えてくれる様子は本当に王子様のようで。どんな話もカイルが真剣に聞いてくれるたび、クリスティは自分を肯定されているような気持ちになった。両親は絶対に与えてくれず、たまにしか会えない叔父が与えてくれたのと同じような安心感。毎日一緒にいて絶やすことなく与えてくれるカイルに、気づけばクリスティは骨抜きにされてしまっていた。
*
初めて会った日から変わらず、カイルは伯爵家に滞在している。変わったことといえば、婚約するまでの一ヶ月は客室に泊まっていたのが、正式に伯爵家に住むようになったことだ。喪中のため婚約式も結婚式もまだだけれど、使用人たちはカイルとクリスティをもはや正式な伯爵夫妻として扱っている。両親の使っていた部屋を改装してカイルとクリスティが使うようにしたら、と言う叔父からの提案があったときも、喜んで作業を進めてくれた。クリスティは母親の部屋を使って寝起きするようになったのだけれど、改装した上に生前に出入りした記憶もほとんどないことが手伝って、特に懐かしさを覚えることもない。二十年育ってきた家なのに、全く知らない場所へと引っ越してきたようだ。父親の部屋を使っているカイルとは、寝るまでは共同の寝室で過ごすようにしている。益体もないことを話し合ったり、お酒を嗜んだり、本を読んだり。日によって過ごし方は変わるけれど、寝る前のその時間をクリスティは一日の中で一番楽しみにしていた。
そんなある日の夜のこと。ソファに腰掛けて読んでいた本に栞を挟み、クリスティは隣を見る。カイルも同じように本を読んでいるところだけれど、今日は何を読んでいるのだろうか。前に聞いたときは経済に関する本で、一ページ読んだだけで頭が痛くなったことを覚えている。ページを捲る骨ばった長い指、横から見るとよりわかる分厚い胸板、本に目を落とす横顔は社交界中の女の子を夢中にさせそうなぐらい魅力的だ。今は喪中だからパーティーを始めとしたあらゆる社交界での交流を控えているけれど、喪が明けたらそうも言っていられない。カイルは、伯爵家の家督を継いでからも商人としての仕事を続けることになっている。入籍後はきっと、今まで以上にあちこちのパーティーに顔を出して社交していくことになるのだろう。
クリスティは、カイルと同じベッドで眠ったことはまだない。外へ出かけるときに手を繋ぐことはあるけれど、それ以上の経験は全くない。婚前交渉に厳しくはなく、貞節さがそこまで求められていない国なのに、どうやらカイルは結婚するまで手を出すつもりはないらしい。同じ家に住んでいるのに。それはカイルの誠実さと真面目さの表れだと理解しつつ、クリスティは不安でたまらなかった。カイルは婚約を申し込んでくれたときに、初めて会ったときから好きだったと言ってくれたけれど。流石にその言葉を鵜呑みにするほど純粋なつもりはない。クリスティのことが好きな理由はわからないままだし、裏があるのかもしれないとも思っている。けれど、それでもいいからそばにいてほしいと願ったのはクリスティで、だからこそ不安だった。
嫌と言うほど参加したパーティーに参加したカイルが、ご令嬢に囲まれる姿は容易に想像できる。そして、それを黙って見て、ただただ壁の花でいることしかできないクリスティの姿も。ご令嬢に言い寄られるカイルを見ても、きっとクリスティは何もできない。カイルの腕をとって私の夫ですと主張することもできず、妻なのに指を咥えて見ているしかできないだろう。クリスティよりも容姿端麗で爵位が上の未婚の女の子なんて、社交界には山ほどいる。魅力的な女の子が、もしもカイルに一目惚れなんてしてしまったら? アプローチをかけられたカイルが、それでもクリスティがいいと言ってくれる自信は悲しくなるほどなかった。
「あの、カイル様」
読んでいた本をサイドテーブルに置き、深呼吸をしてから名前を呼ぶ。本から目を上げたカイルは、「どうしたの? クリスティ」と返してくれた。婚約を機にカイルはクリスティのことを呼び捨てで呼び、敬語も使わないで話している。カイルに名前を呼ばれるたび、なんでもないありふれた名前が特別な意味の込められた名前のように感じる。それに、何をしていたとしても一旦それを止めてクリスティに向き直ってくれるところは、たくさんあるカイルの好きなところの一つだ。榛色の瞳にクリスティだけが映る瞬間、この人の特別は自分なのかもしれないと浮かれてしまう。
「わ、私たち、結婚、するじゃないですか」
「うん、するよ」
突然何を言い出すんだろう、と困惑しているけれど決して否定的な言葉は口にしない。そんなところも大好きで、クリスティは安心してカイルになんでも言える。それでも、今から口にする内容はそれでも勇気がいるけれど。口の中が渇くのを感じながら、気を抜いたらひっくり返りそうな声で一生懸命に言葉を紡ぐ。緊張で心臓が口から飛び出してきそうだ。
「そ、それで、えっと、この国はこ、婚前交渉にあんまり厳しくない、から」
「……うん?」
「そ、ろそろ、カイル様と一緒に、ね、寝たいなって、思った、り……」
「……」
「……」
「……はっ!?」
ぽかんと口を開けたままのカイルの顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。呆気に取られたような、全くの虚を突かれたと言っているような表情にクリスティは頭のてっぺんから一気に血の気が引いていくのを感じた。
――間違えた、絶対今言うことじゃなかった。
カイルがあまりに優しいから、魅力的だから、取られたくなかったから、大好きだから。考えていることがまとまりなくごちゃごちゃと溢れる。いまだに顔を真っ赤にして固まっているカイルを見て居た堪れなくなってしまう。こんなことを今言わなくても、結婚したら多分抱いてもらえたのに。どうして待つことができなかったんだろう、と言ってしまってから後悔する。寝るまで一緒に過ごし、おやすみを言い合うだけで幸せだったのに。いつの間にか贅沢になってしまったらしい。
「ご、ごめんなさい、忘れてください!」
そう言って弾かれたようにソファから立ち上がる。こんな浅ましいことを言ってしまって、平気な顔して隣で寝ていられる気がしなかった。とにかく一刻も早くカイルの目の前からいなくなってしまいたくて、扉へ目掛けて走り出す。
「待って」
「っ!」
ぱしっと後ろから腕を掴まれる。振り向くと、顔が赤いままのカイルがクリスティを見下ろしていた。榛色の瞳がギラついていて、心臓が跳ねてしまう。無意識に恐れを抱いたのだろうか、思わず手を引っ込めようとしたけれど強く掴まれているせいでできなかった。
「……寝るだけ?」
「へ」
「一緒に寝るだけじゃ終わらないと思うんだけど、いいのか?」
カイルの言葉に、恐る恐る首を縦に振る。掴まれた手に力がこもる。
「手、出してもいいんだな?」
いつも穏やかで柔らかい口調の彼にしては珍しく、ほんの少し砕けた口調。それにも頷きながら、そういえばと頭に浮かぶ。カイルの過去の話は、今に至るまで聞いたことがない。商人をしていて、平民であるということしか知らない。叔父が太鼓判を押しているから危ない人じゃないのだろうと思っていたけれど。もしかしたら、いつものカイルは商人としてのカイルで、今のは個人としてのカイルの一部なのかもしれない。
大好きな人の、いつもは見せてもらえない部分を見せてもらっているような感覚。それは、クリスティに言いようのない高揚感をももたらす。掴まれた腕はそのままに体ごとカイルの方に向き直ると、思いきり腕の中に飛び込んだ。一瞬だけカイルの体が強張った気がしたけれど、次の瞬間には強く抱きすくめられていた。クリスティを包む体温は陽だまりのように暖かい。
「クリスティ、私に全部くれる?」
ぎゅう、と力強く抱きしめながらカイルはクリスティにそう囁く。もう口調が戻ってしまったと思うとほんの少し残念だけれど、頼めばまたあんなふうに喋ってくれるだろうか。問いかけにこくりと頷きながらそんなことを考えた。
「私の全部、もらってください」
そう言って見上げると、「優しくするから」とカイルが笑う。いつも見る穏やかな微笑みとはまた違う笑みに、心臓がこれ以上ないぐらいに高鳴った。
*
カイルの手が優しく触れるたび、クリスティは底なし沼に足をとられたかのようにずぷずぷと抜け出せなくなるような心地を覚える。男性経験皆無のクリスティは、熱の籠った目で見られることにすら慣れていない。カイルの手が頬を滑り、髪を撫でるたび、言いようのないくすぐったさを覚えてしまう。顔にかかる髪を払ってくれる指先すら熱い。その手を振り払って逃げ出したくもなるし、逆に縋りついて全身で甘えたくなってしまう。
「痛くない?」
「んっ……は、い、きもちいい……」
初めては痛い、と言うのは最近読んだ恋愛小説で読んだ知識だ。痛いのは怖い、とほんの少しの不安を抱いて臨んだ行為だったのだけれど。結論から言えば痛みはほとんどなかった。普段自分で触れることすらしないような部分に埋め込まれている異物感も圧迫感も拭えないけれど、カイルが上手なのだろうか。泣いてやめてほしいと言い出すほどの痛みはなかった。聞いたことはないけれど、経験豊富なのかもしれない。カイルの知らない過去に思いを馳せ、ほんの少しだけ胸がちくりと痛む。目を逸らすかのように頬に当てられた手のひらに頬を寄せた。
「可愛い」
そう言って微笑まれると、胸の痛みなんてどこかへ行ってしまう。欲情の灯った瞳の隙間に慈愛がちらつく。榛色の瞳に見つめられるだけで、お腹の奥が熱くなるような心地よさを覚える。離さないでほしくて広い背中にしがみつくと、甘やかすように頭を撫でられて力が抜けた。
「んっ……あっ、カイル、さまっ」
「クリスティ」
「ひあっ……」
奥を優しく突き上げられ、甲高い嬌声が漏れる。カイルに触れられているどこもかしこも熱くて、何をされても気持ちいい。組み敷いたクリスティを見下ろすカイルの眼差しは、綿菓子のように柔らかくて甘い。心底愛おしそうに見つめられ、お腹の奥が熱くなった。
「可愛い」
「ひぅ……」
可愛い愛おしいとカイルの唇が優しく紡ぐたび、クリスティは胸の奥がソワソワして締め付けられるような感覚を覚える。まるで真綿に包まれているように心地いい。大好きな人の体温を直接肌に感じることが、こんなに気持ちいいことだとは思わなかった。
「クリスティ……」
「カイル、さま、んっ」
カイルの大きな掌がクリスティの頬を覆う。そのまま顔が近付いたかと思うと、啄むように口付けられた。先ほどファーストキスを済ませたばかりのクリスティにとって、鼻で呼吸をすることはずいぶん難しい。口の中で好き勝手するカイルの舌に、されるがままだ。キスで死んじゃったらどうしよう、なんてバカみたいなことを考えたけれど、上顎をくすぐられている間に緩く突き上げられ、そんなことを考える余裕は欠片も残らず吹き飛んでしまった。
「んふ、ふ、ぅ」
とちゅ、とちゅ、と緩やかに楔が打たれる音に混じって、鼻にかかったような甘ったるい声が聞こえる。口付けが深くなるたびに、埋めこまれているものを締め付けてしまう。二つの体が溶け合って混じり合えばいいのに、なんて願うのは幼稚だろうか。しがみつくようにして抱きつくと隙間なく抱きしめられ、このまま死んでしまってもいいと思えた。
「あっ、カイルさま、すき、だいすきっ……」
「あー……可愛い。俺も、俺も大好き」
口付けの合間に、懸命になって愛を伝えると余裕のなさそうなカイルにそう返される。また口調が崩れてる、と一瞬だけ思ったけれど息も出来ないぐらいに深く口づけられたので、やっぱり考え事をする余裕はどこかへ吹き飛んでしまった。クリスティの舌に絡む舌に一生懸命応えようとしていると、呼応するかのように挿れられたものをぐりぐりと奥へと押し付けられる。今までずっと空いていた穴の形がわかったような気がする。
――もうこの人なしでは生きていけないのかもしれない。
熱に浮かされた頭でそんなことを思ったけれど、あながち間違ってはいない気がした。
「ありがとうございます、叔父様」
カイルから婚約の申し出を受けたその日のうちに、叔父に宛てて手紙を書いた。両親が亡くなってからバタバタしていたのがようやく落ち着いてきたこと、カイルと婚約することになったこと、カイルと引き合わせてくれたことに感謝していること。うまくまとめられなかったせいで便箋数枚に及んだけれど、叔父はしっかり読んでくれたらしい。送って一週間後には屋敷に来てお祝いを伝えてくれた。生憎カイルは商談のために出かけていたので、クリスティ一人での応対となったけれど。
「婚約式も結婚式も、喪が明けてからにはなるんですけど……あの、それで、叔父様にお願いがあって」
「ああ、わかっているとも。式の立会人は任せてくれ」
嬉しそうに微笑む叔父に、胸が熱くなる。少し前の自分なら婚約者ができて浮かれることも、それを誰かが喜んでくれることも想像できなかっただろう。まだ喪中で、友人もいないクリスティが大々的にお披露目することはないけれど、唯一の身内である叔父が祝ってくれることが嬉しかった。
「それじゃあ、カイルが伯爵家の家督を継ぐのことになるかな?」
「はい、そのつもりです。あの……だめでしたか?」
「まさか。彼の人柄は私もよく知っているし、何よりクリスティが選んだ人なら何の問題もないよ」
思うがままに幸せになったらいいんだよ、と以前にも言ってくれたことと同じことを告げて微笑んでくれる。自分で何かを選び取ったことのないクリスティにとって、自分の選択を肯定してもらえることは何よりありがたかった。
カイルと婚約してからと言うもの、自分がわかりやすく浮かれていることを自覚している。カイルは模範的な婚約者で、いつだって誠実にクリスティのことを考えてくれた。やりたいことも、行ってみたい場所も、食べてみたいものも。今まで抑圧されてきたせいで自分の意見を主張することが苦手なクリスティに、根気よくどうしたいのかを聞いて意思を尊重してくれた。
行儀作法や語学だけでなく歴史や地理も学んでみたいと勇気を出して言えばその日のうちに家庭教師を手配し、王都で有名な公園に行ってみたいと言えば次の休みには連れて行き、街で流行っている焼き菓子を食べてみたいと零せば何時間でも並んで手に入れてくれた。あまりにも即座になんでも叶えてくれるものだから、最近は軽々しく願望を口にしないようにしている。嬉しいを通り越して申し訳なさすら覚えてくるからだ。
けれど、ささやかな欲求を口にするたび、喜んで叶えてくれる様子は本当に王子様のようで。どんな話もカイルが真剣に聞いてくれるたび、クリスティは自分を肯定されているような気持ちになった。両親は絶対に与えてくれず、たまにしか会えない叔父が与えてくれたのと同じような安心感。毎日一緒にいて絶やすことなく与えてくれるカイルに、気づけばクリスティは骨抜きにされてしまっていた。
*
初めて会った日から変わらず、カイルは伯爵家に滞在している。変わったことといえば、婚約するまでの一ヶ月は客室に泊まっていたのが、正式に伯爵家に住むようになったことだ。喪中のため婚約式も結婚式もまだだけれど、使用人たちはカイルとクリスティをもはや正式な伯爵夫妻として扱っている。両親の使っていた部屋を改装してカイルとクリスティが使うようにしたら、と言う叔父からの提案があったときも、喜んで作業を進めてくれた。クリスティは母親の部屋を使って寝起きするようになったのだけれど、改装した上に生前に出入りした記憶もほとんどないことが手伝って、特に懐かしさを覚えることもない。二十年育ってきた家なのに、全く知らない場所へと引っ越してきたようだ。父親の部屋を使っているカイルとは、寝るまでは共同の寝室で過ごすようにしている。益体もないことを話し合ったり、お酒を嗜んだり、本を読んだり。日によって過ごし方は変わるけれど、寝る前のその時間をクリスティは一日の中で一番楽しみにしていた。
そんなある日の夜のこと。ソファに腰掛けて読んでいた本に栞を挟み、クリスティは隣を見る。カイルも同じように本を読んでいるところだけれど、今日は何を読んでいるのだろうか。前に聞いたときは経済に関する本で、一ページ読んだだけで頭が痛くなったことを覚えている。ページを捲る骨ばった長い指、横から見るとよりわかる分厚い胸板、本に目を落とす横顔は社交界中の女の子を夢中にさせそうなぐらい魅力的だ。今は喪中だからパーティーを始めとしたあらゆる社交界での交流を控えているけれど、喪が明けたらそうも言っていられない。カイルは、伯爵家の家督を継いでからも商人としての仕事を続けることになっている。入籍後はきっと、今まで以上にあちこちのパーティーに顔を出して社交していくことになるのだろう。
クリスティは、カイルと同じベッドで眠ったことはまだない。外へ出かけるときに手を繋ぐことはあるけれど、それ以上の経験は全くない。婚前交渉に厳しくはなく、貞節さがそこまで求められていない国なのに、どうやらカイルは結婚するまで手を出すつもりはないらしい。同じ家に住んでいるのに。それはカイルの誠実さと真面目さの表れだと理解しつつ、クリスティは不安でたまらなかった。カイルは婚約を申し込んでくれたときに、初めて会ったときから好きだったと言ってくれたけれど。流石にその言葉を鵜呑みにするほど純粋なつもりはない。クリスティのことが好きな理由はわからないままだし、裏があるのかもしれないとも思っている。けれど、それでもいいからそばにいてほしいと願ったのはクリスティで、だからこそ不安だった。
嫌と言うほど参加したパーティーに参加したカイルが、ご令嬢に囲まれる姿は容易に想像できる。そして、それを黙って見て、ただただ壁の花でいることしかできないクリスティの姿も。ご令嬢に言い寄られるカイルを見ても、きっとクリスティは何もできない。カイルの腕をとって私の夫ですと主張することもできず、妻なのに指を咥えて見ているしかできないだろう。クリスティよりも容姿端麗で爵位が上の未婚の女の子なんて、社交界には山ほどいる。魅力的な女の子が、もしもカイルに一目惚れなんてしてしまったら? アプローチをかけられたカイルが、それでもクリスティがいいと言ってくれる自信は悲しくなるほどなかった。
「あの、カイル様」
読んでいた本をサイドテーブルに置き、深呼吸をしてから名前を呼ぶ。本から目を上げたカイルは、「どうしたの? クリスティ」と返してくれた。婚約を機にカイルはクリスティのことを呼び捨てで呼び、敬語も使わないで話している。カイルに名前を呼ばれるたび、なんでもないありふれた名前が特別な意味の込められた名前のように感じる。それに、何をしていたとしても一旦それを止めてクリスティに向き直ってくれるところは、たくさんあるカイルの好きなところの一つだ。榛色の瞳にクリスティだけが映る瞬間、この人の特別は自分なのかもしれないと浮かれてしまう。
「わ、私たち、結婚、するじゃないですか」
「うん、するよ」
突然何を言い出すんだろう、と困惑しているけれど決して否定的な言葉は口にしない。そんなところも大好きで、クリスティは安心してカイルになんでも言える。それでも、今から口にする内容はそれでも勇気がいるけれど。口の中が渇くのを感じながら、気を抜いたらひっくり返りそうな声で一生懸命に言葉を紡ぐ。緊張で心臓が口から飛び出してきそうだ。
「そ、それで、えっと、この国はこ、婚前交渉にあんまり厳しくない、から」
「……うん?」
「そ、ろそろ、カイル様と一緒に、ね、寝たいなって、思った、り……」
「……」
「……」
「……はっ!?」
ぽかんと口を開けたままのカイルの顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。呆気に取られたような、全くの虚を突かれたと言っているような表情にクリスティは頭のてっぺんから一気に血の気が引いていくのを感じた。
――間違えた、絶対今言うことじゃなかった。
カイルがあまりに優しいから、魅力的だから、取られたくなかったから、大好きだから。考えていることがまとまりなくごちゃごちゃと溢れる。いまだに顔を真っ赤にして固まっているカイルを見て居た堪れなくなってしまう。こんなことを今言わなくても、結婚したら多分抱いてもらえたのに。どうして待つことができなかったんだろう、と言ってしまってから後悔する。寝るまで一緒に過ごし、おやすみを言い合うだけで幸せだったのに。いつの間にか贅沢になってしまったらしい。
「ご、ごめんなさい、忘れてください!」
そう言って弾かれたようにソファから立ち上がる。こんな浅ましいことを言ってしまって、平気な顔して隣で寝ていられる気がしなかった。とにかく一刻も早くカイルの目の前からいなくなってしまいたくて、扉へ目掛けて走り出す。
「待って」
「っ!」
ぱしっと後ろから腕を掴まれる。振り向くと、顔が赤いままのカイルがクリスティを見下ろしていた。榛色の瞳がギラついていて、心臓が跳ねてしまう。無意識に恐れを抱いたのだろうか、思わず手を引っ込めようとしたけれど強く掴まれているせいでできなかった。
「……寝るだけ?」
「へ」
「一緒に寝るだけじゃ終わらないと思うんだけど、いいのか?」
カイルの言葉に、恐る恐る首を縦に振る。掴まれた手に力がこもる。
「手、出してもいいんだな?」
いつも穏やかで柔らかい口調の彼にしては珍しく、ほんの少し砕けた口調。それにも頷きながら、そういえばと頭に浮かぶ。カイルの過去の話は、今に至るまで聞いたことがない。商人をしていて、平民であるということしか知らない。叔父が太鼓判を押しているから危ない人じゃないのだろうと思っていたけれど。もしかしたら、いつものカイルは商人としてのカイルで、今のは個人としてのカイルの一部なのかもしれない。
大好きな人の、いつもは見せてもらえない部分を見せてもらっているような感覚。それは、クリスティに言いようのない高揚感をももたらす。掴まれた腕はそのままに体ごとカイルの方に向き直ると、思いきり腕の中に飛び込んだ。一瞬だけカイルの体が強張った気がしたけれど、次の瞬間には強く抱きすくめられていた。クリスティを包む体温は陽だまりのように暖かい。
「クリスティ、私に全部くれる?」
ぎゅう、と力強く抱きしめながらカイルはクリスティにそう囁く。もう口調が戻ってしまったと思うとほんの少し残念だけれど、頼めばまたあんなふうに喋ってくれるだろうか。問いかけにこくりと頷きながらそんなことを考えた。
「私の全部、もらってください」
そう言って見上げると、「優しくするから」とカイルが笑う。いつも見る穏やかな微笑みとはまた違う笑みに、心臓がこれ以上ないぐらいに高鳴った。
*
カイルの手が優しく触れるたび、クリスティは底なし沼に足をとられたかのようにずぷずぷと抜け出せなくなるような心地を覚える。男性経験皆無のクリスティは、熱の籠った目で見られることにすら慣れていない。カイルの手が頬を滑り、髪を撫でるたび、言いようのないくすぐったさを覚えてしまう。顔にかかる髪を払ってくれる指先すら熱い。その手を振り払って逃げ出したくもなるし、逆に縋りついて全身で甘えたくなってしまう。
「痛くない?」
「んっ……は、い、きもちいい……」
初めては痛い、と言うのは最近読んだ恋愛小説で読んだ知識だ。痛いのは怖い、とほんの少しの不安を抱いて臨んだ行為だったのだけれど。結論から言えば痛みはほとんどなかった。普段自分で触れることすらしないような部分に埋め込まれている異物感も圧迫感も拭えないけれど、カイルが上手なのだろうか。泣いてやめてほしいと言い出すほどの痛みはなかった。聞いたことはないけれど、経験豊富なのかもしれない。カイルの知らない過去に思いを馳せ、ほんの少しだけ胸がちくりと痛む。目を逸らすかのように頬に当てられた手のひらに頬を寄せた。
「可愛い」
そう言って微笑まれると、胸の痛みなんてどこかへ行ってしまう。欲情の灯った瞳の隙間に慈愛がちらつく。榛色の瞳に見つめられるだけで、お腹の奥が熱くなるような心地よさを覚える。離さないでほしくて広い背中にしがみつくと、甘やかすように頭を撫でられて力が抜けた。
「んっ……あっ、カイル、さまっ」
「クリスティ」
「ひあっ……」
奥を優しく突き上げられ、甲高い嬌声が漏れる。カイルに触れられているどこもかしこも熱くて、何をされても気持ちいい。組み敷いたクリスティを見下ろすカイルの眼差しは、綿菓子のように柔らかくて甘い。心底愛おしそうに見つめられ、お腹の奥が熱くなった。
「可愛い」
「ひぅ……」
可愛い愛おしいとカイルの唇が優しく紡ぐたび、クリスティは胸の奥がソワソワして締め付けられるような感覚を覚える。まるで真綿に包まれているように心地いい。大好きな人の体温を直接肌に感じることが、こんなに気持ちいいことだとは思わなかった。
「クリスティ……」
「カイル、さま、んっ」
カイルの大きな掌がクリスティの頬を覆う。そのまま顔が近付いたかと思うと、啄むように口付けられた。先ほどファーストキスを済ませたばかりのクリスティにとって、鼻で呼吸をすることはずいぶん難しい。口の中で好き勝手するカイルの舌に、されるがままだ。キスで死んじゃったらどうしよう、なんてバカみたいなことを考えたけれど、上顎をくすぐられている間に緩く突き上げられ、そんなことを考える余裕は欠片も残らず吹き飛んでしまった。
「んふ、ふ、ぅ」
とちゅ、とちゅ、と緩やかに楔が打たれる音に混じって、鼻にかかったような甘ったるい声が聞こえる。口付けが深くなるたびに、埋めこまれているものを締め付けてしまう。二つの体が溶け合って混じり合えばいいのに、なんて願うのは幼稚だろうか。しがみつくようにして抱きつくと隙間なく抱きしめられ、このまま死んでしまってもいいと思えた。
「あっ、カイルさま、すき、だいすきっ……」
「あー……可愛い。俺も、俺も大好き」
口付けの合間に、懸命になって愛を伝えると余裕のなさそうなカイルにそう返される。また口調が崩れてる、と一瞬だけ思ったけれど息も出来ないぐらいに深く口づけられたので、やっぱり考え事をする余裕はどこかへ吹き飛んでしまった。クリスティの舌に絡む舌に一生懸命応えようとしていると、呼応するかのように挿れられたものをぐりぐりと奥へと押し付けられる。今までずっと空いていた穴の形がわかったような気がする。
――もうこの人なしでは生きていけないのかもしれない。
熱に浮かされた頭でそんなことを思ったけれど、あながち間違ってはいない気がした。