王子様なんて現れない

3

 両親が亡くなったと聞いてから、一ヶ月が経とうとしていた。

 亡くなった両親の葬儀に遺産整理、一時的に叔父が当主代行を務めることになる手続き、それから両親が買い集めたよくわからない絵画や壺の売却等々。クリスティにできることはほとんどなかったし、手続きをしてくれたのはほとんど叔父とカイルだ。二人がいなかったら、自分は一体どうなっていたのだろう。家令や使用人たちに手伝ってもらってどうにかしようとしただろうか。想像してみて、無理だっただろうと首を振る。クリスティではきっと、当主としての役目は果たせなかった。そもそも使用人たちが変わらずに働き続けてくれているのだって、叔父とカイルがしっかり采配してくれたからだ。決していい雇用主ではなかった両親に雇われた使用人たちは、伯爵家に対する忠誠心が薄い。人使いの荒い両親のせいで、定着率は低く入れ替わりは激しい。クリスティが幼い頃からいるような使用人など、一人もいない。二人がいなければきっと今頃、頼りないクリスティに見切りをつけて一人残らず出ていっただろう。

「はあ……」

 喪服に身を包んだクリスティは、庭に出てガゼボのベンチに座り息を吐き出す。一ヶ月ほど滞在していた叔父が自領へと戻るのを見送ったのは、つい先ほどのこと。何度も頭を下げるクリスティに叔父は、「ようやく自由になれたのだから、これからは思うがままに幸せになったらいいんだよ」と言ってくれた。

「思うがままに……」
「こんなところにいたんですか」
「! カイル様」
「隣に座っても?」
「どうぞ」

 隣に腰掛けるカイル。叔父は自領へと戻っていったけれど、カイルは伯爵家に滞在したままだ。――おそらくは、婚約の話を進めるために。

 チラリとカイルを盗み見る。婚約の話はカイルが初めてここに来た日、叔父が話を出したとき以来話題には上がっていない。あまりに突然のことでクリスティが困惑しきっていたから、気を使ってくれたのだと思うのだけれど。彼は婚約についてどう思っているのだろうか。

「あの、カイル様……」
「ん?」

 名前を呼ぶと、榛色の瞳がクリスティを見つめる。射抜くようにまっすぐな視線がクリスティを捉えて離さない。顔が熱くなり、体温が高くなる。思わず目を逸らして黙り込んでしまった。膝の上で握りしめた手のひらが、じんわりと汗ばむ。呼びかけたのはクリスティで、話さなければならないことはたくさんあるのに、うまく言葉が出てこない。今までに受けた授業では、こういう場合にどうしたらいいか教えてくれなかった。

「いい庭ですね」
「へっ?」

 見かねたのか、カイルの方から話を振ってくれた。他愛もない雑談をして緊張をほぐそうとしてくれているのだろうか。こういう、些細な気遣いにこの一ヶ月何度も助けられたことを思い出す。初めてまともに関わる同年代の男性に緊張し通しだったクリスティに対して、カイルは馬鹿にすることも呆れることもない。優しく穏やかに接してくれるカイルに心を開くまでにそう時間はかからず、気づけばクリスティにとって安心を与えてくれる存在になっていた。

「えっと、はい。私、この家で一番お庭が好きです」
「庭師のトムさんが喜びますよ」
「そう、だったらいいんですけど」

 庭師のトムは職人気質で寡黙な人だ。クリスティが庭が好きだと言ったところで、そうですかとしか言わない気がするし特に喜ぶこともないだろう。「クリスティ嬢がここで過ごすのが好きな気持ち、よくわかります」と同意してくれる言葉に、胸の奥がジワリと熱くなる。両親はきっと、クリスティがガゼボで過ごすことが好きだなんて知らなかったし、興味もなかった。今までクリスティに興味を持って心配してくれたのは、叔父だけだった。

「……」
「クリスティ嬢?」
「……カイル様、ありがとうございます」
「改まってどうしたんです?」

 気にすることありませんよ、と微笑むカイル。父方の祖父母は早くに亡くなっていて、母方の祖父母は遠方に住んでいることもありもう何年も連絡をとっていない。社交界中から煙たがられていた両親に人望なんてものはなく。縁がありそうだと思った家に葬儀の連絡はしたのだけれど、参列できない旨の返事が返ってきただけで誰も花を供えには来なかった。

「私一人では、お葬式をあげることもできませんでした」
「私は何も。それをいうならレイモンド様のおかげですよ」

 謙遜するカイルに首を振る。結局両親の葬儀はクリスティと叔父、それから使用人といった身内以外は、カイルしか参列してくれなかったのだ。赤の他人であるカイルが文句一つ言わずに手伝い、花まで供えてくれたことは、十分感謝に値することだ。

 それに比べて、自分は。血の繋がりがあって、曲がりなりにも二十年育ててもらったのに。両親が亡くなり、縁談の話もなくなった。側から見れば失ったもののほうが多いはずなのに、涙は一滴も出ないし悲しくも寂しくもない。それよりも、まだこの庭に自由に出られるというささやかな幸せに喜んでしまったほどだ。なんて薄情なんだろう、と自分で自分が嫌になる。

「クリスティ嬢?」

 気付かぬうちにぼーっとしていたのだろう。心配そうにカイルが顔を覗き込む。「な、なんでもないです」と言ったけれど、信じてはいないらしい。眉間に皺が寄ったままだ。けれど、それ以上追求するつもりもないらしく。一瞬だけ何か言いたげに口を開いたけれど、結局何も言わずにクリスティから視線を外した。

「……」
「……」

 沈黙が二人の間に流れる。せっかくカイルが、クリスティが話しやすいように気を使ってくれたのに。顔色を伺うことは得意でも、空気を読んでうまく話すこともできない。圧倒的に人生経験が足りないのだ。両親に言われるがままでいいやと、諦めてきたツケが回ってきている。もっとうまく話せたら、もっと自分に自信が持てたら、そうしたらもっとカイルと仲良くなれたのだろうか。

「クリスティ嬢」
「は、はい!」

 名前を呼ばれ、大袈裟なぐらいに肩が跳ねる。こんなことでいちいち動揺していて情けない、と思ったけれどカイルは何も言わなかった。パッと顔を上げて隣を見る。カイルは真っ直ぐすぎるぐらいに真っ直ぐ、クリスティだけを見つめていた。目を見て話すのはどちらかといえば苦手だけれど、柔らかい榛色はいつまでも見つめていたくなるほどに魅力的だ。

「もし、何か話したいことがあるならいつでも言ってください」
「え……」
「私はいつだって聞きます。それと……」

 そこで言葉を区切ると、視線を逸らして唇を引き結ぶ。言いにくそうなその様子からは、彼が一体何を言おうとたたのかは窺えない。なんとなく見覚えのある横顔を眺めていると、カイルはクリスティの方を振り向いた。

「すみません、やっぱりなんでもないです」

 それだけ言うと、正面に向き直る。視線の先には、ガゼボの外に広がる庭。一ヶ月前とは違い青空の下で揺れるカスミソウは、眩しいぐらいに咲き誇っている。あと一ヶ月ぐらいは見頃だろうか。新緑と微かな花の匂いを運ぶ風が、クリスティの頬を撫でる。今の時期に庭に出るのが一番好きだと、どうしてか今ようやく自覚した。

「……昔も、誰かとこうやってカスミソウを見ました」

 無意識に言葉が口をつく。今の今まで忘れていたような昔話に、きっと興味なんてないだろう。それでもカイルはじっと耳を傾けてくれる。顔も名前も覚えていない誰かとカスミソウを眺めて、おしゃべりして、一緒に本を読んで。思い出すと胸がじんわりと温かくなる。ひとりぼっちのクリスティにとって唯一の友達だったのに、どうして思い出せないのだろう。

「仲良くしてもらったのに、酷い、ですよね……」
「……逆なんじゃないですかね」
「え?」

 カイルは俯いて眉間に皺を寄せている。自嘲するような、何かを見下すような顔はこの一ヶ月の間で初めて見るものだ。いつも穏やかな彼にしては珍しい表情にどきりとする。

「クリスティ嬢じゃなくて、そいつが酷いことを言ったんじゃないですか?」
「……」
「自分に酷いことを言ったやつを忘れても仕方ありませんよ」

 やけに冷たい口調だけれど、そういう人が身近にいたのだろうか。俯いた目元には影が落ちる。クリスティに怒っているわけではないとわかっているけれど、近くで誰かが怒っていると身構えてしまうのは条件反射だ。恐る恐るカイルから距離を取りながら、先程の言葉を反芻する。

 ――そう、なのかな。

 酷いことを言われたから、それがショックで忘れてしまったのだろうか。けれど、そもそもクリスティにとって十歳より前の記憶は全て曖昧だ。ギチギチに詰め込まれたスケジュールを一生懸命こなし、怒られないように叱られないように立ち回るのに必死だったのだから。思い出すたびに胃の辺りが締め付けられるように痛くなる。

「酷いことを言われたのかは、覚えてないんです、けど……」
「……」
「でも、私にとって大切な人だったのは確か、です」

 十歳以前の記憶は曖昧で、唯一の友人と呼べそうな存在のことも今の今まで忘れていた。顔も名前もやっぱり思い出せないし、その子が今どうしているのかもわからない。けれど、胸が温かくなるような思い出はきっと、悪いものではない。顔を上げたカイルは虚を突かれたように目を見開いている。頬に赤みが差したようにも見えたけれど、どうしてかすぐにそっぽを向いてしまったのでよくわからなかった。
 
「……カイル様」

 どうして今なら言えると思ったのかはわからない。うまく話せなかったとしてもカイルはきっと、馬鹿にしないし咎めることもしないだろうとわかったからかもしれない。呼びかけた声は自分でもわかるぐらいに固く緊張している。膝の上で震える拳をぎゅっと握りしめた。

「婚約の話、なんですけど」

 カイルが振り向く気配がするけれど、顔を上げることはできなかった。固く握りしめた拳を見つめながら続ける。

「わ、私、何にもないんです」
「え?」
「今まで、両親の言うとおりにして生きてきただけで、教養とか特技とか……何にも、何にもないんです」

 俯いた顔を上げられないほどに情けない。人に誇れるものが一つもないことを、二十年生きてきて初めて恥じている。両親に言われるがままに生きる人生が窮屈で孤独だったのは事実。けれど、そこから抜け出す努力をしてこなかったのもまた、紛れもない事実だ。カイルと結婚したところで、カイルが得られるのは爵位だけだろう。社交性にも乏しいクリスティが、社交界で満足に妻としての役目を果たせる気はしない。考えれば考えるほど、クリスティと結婚するメリットはないように思う。

 けれど、それでも。それでも、クリスティはカイルに少しでもその気があるなら婚約者になって欲しかった。これまでの一ヶ月、クリスティに安心を与えてくれたのと同じように、これからもずっとそうであって欲しかった。

「あ、の、でも、えっと……それで、なんて言ったらいいのかわからない、んですけど……」
「クリスティ嬢」
「は、はい!」
「私と、婚約してもらえませんか?」

 突然の言葉に、都合のいい幻聴を聞いたのではないかと疑ってしまった。けれど、勢いよく振り向くと真剣な面持ちのカイルがクリスティを真っ直ぐに見つめていて、幻聴ではないことを知った。一気に顔に熱が集まり、心臓が騒がしく音を立て始める。婚約してほしいことを言おうとしたのにまさかカイルの方から言われるなんて。もしかして、女性の方からそういう話をするのはマナー違反だから、気を使ってくれたのだろうか。でも、それにしたってどうしてクリスティの言いたいことがわかったのか。頭の中で聞きたいことがぐるぐると回るけれど、どれも言葉にはならない。

 不意にカイルが立ち上がる。どこかへ行ってしまうのだろうか、と思っていると彼はクリスティの前に跪いた。

「あなたのことが好きです。初めて会ったときから」

 そう言われた瞬間、周りの音が何も聞こえなくなった。跪いてクリスティの手を取るカイルは、まるで絵本に出てくる王子様のよう。思わず手を引っ込めようとすると、逆に強く握りしめられる。触れたところが発火したかのように熱くて、たじろぐクリスティをカイルは射抜くように見つめる。さらりと流れる暗褐色の髪も、見上げてくる榛色の瞳もやっぱりどこか見覚えがあるのは気のせいだろうか。そう思ったけれど、瞳に映る自分の顔があまりにも真っ赤なので何も言えなくなった。

 はく、と口を開けたけれど言葉は何も思い浮かばない。こういうとき、何を言ったらいいのだろう。行儀作法は嫌と言うほど身に付けさせられたけれど、教養とか言うものは一つも持ち合わせていない。家庭教師から学んだ知識は何一つとして知恵に変わっていないのだ。

 だから、クリスティはわからない。昔に読んだ絵本のように、お姫様を迎えに来る王子様が目の前に現れたときの正解を知らない。こんなとき、絵本で見たお姫様はなんて言ったんだっけ。思い出そうと記憶を辿ったときだった。

 ――お前に王子様なんて現れない。

 そう言ったのはいったい誰だったか、顔も声も名前もモヤがかかったようにぼんやりしている。だと言うのに、営利で冷たい刃物のような言葉は、昨日言われたかのようにクリスティの胸に深々と突き刺さったまま。まるで、浮かれるクリスティを戒めるようだ。頭から冷水を浴びせられたように、冷静になる。頭の芯から温度を失くしていく感覚で、我に返った。そうだ、いったい何を浮かれているんだろう。

「どうか、私と婚約してくれませんか? クリスティ嬢」

 王子様なんて、現れるはずがない。わかりきっていたことだ、ずっと昔から。目の前の彼は王子様じゃないし、クリスティはお姫様じゃない。何の取り柄もないクリスティのことを好いてくれる理由はわからないし、もしかしたら裏があるのかもしれない。それでも。

「……はい、私でよければ」

 それでも、握りしめられる手を握り返すことを選び取った。振り解くなんてことは、したくなかった。
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