王子様なんて現れない

6

 カイルとシスターの会話を見てしまってから早数日。

 事の真相を聞き出す勇気が出ないせいで、心中に巣食うモヤモヤが消えそうにない。いつもより態度がぎこちないせいか、何度かカイルに「どうしたの?」と尋ねられてしまったほどだ。その度に曖昧に笑って誤魔化すのだけれど、そろそろ限界な気がする。刺繍や裁縫や読書に没頭しても、頭にこびりついた疑念が離れてくれないのだ。気づけば、カイルがシスターと親しげに話す姿ばかり頭に浮かんでしまう。自罰的で不毛な妄想をしたところで、クリスティが楽になることなんてないのに。

「あれ? これって……」

 ダイニングテーブルに見つけたのは、封筒に入った大事そうな書類。家令にも確認したところ、朝早くい仕事へ出かけていったカイルの忘れ物らしいという結論に至った。届けに行くと申し出てくれた家令を制し、書類を手に取る。一方的な疑念を抱いている上、まだ正式な婚約式を執り行っていないとはいえ、カイルはクリスティの婚約者だ。婚約者が困るようなことは避けたい。それに、これは個人的な事情だが、公共事業の進み具合や領民の様子を見るため、可能な限り伯爵領を歩くようにしている。カイルの職場であるギルドまで歩いていくのは色々と都合がいい。

 そういうわけで、次期伯爵夫人であるクリスティ自ら書類を届けにいくことにした。ギルドは孤児院とは反対の方向に歩くこと二十分。伯爵家からはそこそこ歩くし、孤児院との直線距離はもっと離れている。カイルは一体なんの用事で立ち寄っていたのだろうか。気づけば思いを馳せてしまう自分に思わずため息をついてしまった。

「……はあ」

 少し前までのクリスティなら、ありえなかったことだ。自分が誰と結婚させられるかでさえどうでもよかったのに、まさか婚約者の動向がここまで気になるだなんて。良い言い方をすれば、他人に対して興味が持てるだけの余裕ができたということなのだと思う。けれど、心臓が締め付けられるような感覚は、知らずに済むのなら知らないでいたかった。

 いつもより重い足取りだったけれど、それでもどうにかギルドにはたどり着く。守衛に事情を話して通してもらい、執務室へと向かう。何度か尋ねて来たことがあるので、案内されずとも場所は覚えている。見慣れたベイマツ製の扉をノックしようと手を上げた、が。

「開いてる……」

 ほんの少し扉が開いていること、中で誰かが会話していることに気づく。そっと部屋を覗いてみると、知らない老人が奥のソファに座っているのが見えた。扉に背を向けて座っている、見慣れた暗褐色の髪はカイルだ。どうやら商談相手が来ているらしい。慌てて隠れるようにして扉から距離を取る。話が終わるまで小部屋かどこかで待たせてもらうか、誰か他の人に書類を預けたほうがいいかもしれない。

「事故がなければあれは今頃儂のものだったのに。惜しいことだ」

 鼓膜にざらりとまとわりつくような独特のしゃがれ声。ゾワゾワと背筋が粟立つようだ。クリスティは祖父母という存在と会ったことがないし、伯爵家にここまで年嵩の使用人はいない。ご老人という存在をほとんど知らないも同然のクリスティだけれど、ご老人は皆こんなにも毒気を含んだ喋り方をするものなのだろうか。

「あれは閣下にご満足いただけるほどの女ではありませんよ」

 心臓がどきりとする。耳慣れた声なのに、全く知らない人の声みたいだ。いつもクリスティの名前を呼んでくれる声とも、シスターと話しているのを聞いてしまったときの声とも違う。冷たくて、何の感情も滲んでいないような声。ドクドクと心臓が脈打ち始める。この場にいてはいけないと頭が警鐘を鳴らしているのに、足に根っこでも生えたように離れることができない。ご老人が、「へえ」と愉快そうに相槌を打つのが聞こえた。

「あれに心底惚れたから、販路を一つ手放してでも縁談を破棄するよう懇願しに来たのではなかったか?」

 手にしていた書類がくしゃりと音をたてる。販路を手放したって何、というか大事そうな書類なのにどうしよう、と一瞬で様々なことが頭を回る。うるさく音を立てる心臓の音は、二人に聞こえないか心配になる程だ。話の流れから察するに、あのご老人が本来のクリスティの結婚相手だったのだろう。とてもじゃないけれど好々爺とは言えない、あまりいい噂を聞かないという評価に迷うことなく頷けるようなご老人。従う相手が変わるだけ、と諦めていたけれどこの人と結婚することにならなくてよかったと心の底から思ってしまった。

 胸を撫で下ろすと同時に、疑問が頭を擡げる。縁談を白紙にしてくれたのは叔父だと思っていたのだが、カイルの方だったのだろうか。カイルがどう答えるのかが気になる。音を立てないよう細心の注意を払い、ほんの少しの期待を抱いて扉に耳をつけた。

「まさか」

 けれど、期待とは裏腹に聞こえたのは冷たく無感情な声。愛しさも慈しみも感じない、吐き捨てるようにも聞こえる声。握り潰されたかのような痛みが、心臓に走る。扉から一歩も動けなくなったクリスティに気づく気配のないカイルは、無感情に続ける。

「伯爵位があれば何かと便利ですから。そのためなら販路の一つや二つ、手放すのは惜しくありませんよ」
「酷い男だ」
「どうとでも仰ってください。それより――」

 それ以降は商売の話が続く。絹織物がどうとか、そういう単語が出ていた気がするけれど詳しくは覚えていない。気づけばふらふらとその場を後にしていた。手の中でくしゃりと形を歪めてしまった書類を守衛に預け、未だ震える足で屋敷への帰路を辿る。心臓どころか胃もキリキリと痛み、今すぐしゃがんでしまいたいぐらいだけれど足を止めることはできない。伯爵夫人が道で倒れていた、なんて話題になって嬉しいものではない。

 *

 どうにか屋敷にたどり着き、家令に書類を渡したことを伝え二階へと上がる。無意識にだけれど、母親が使っていた伯爵夫人の部屋ではなく、つい数ヶ月前まで使っていた自室へと足が向いた。

 部屋に入り、ベッドに体を横たえる。化粧を落としていないことも、服を着替えていないことも気にしている余裕はなかった。心臓と胃だけでなく、頭までズキズキと痛い。数日前に見てしまった光景が、脳内でぐるぐると回る。先ほど聞いてしまった会話は、クリスティがここ最近ずっと抱いていた疑念への答えだった。

 カイルはクリスティのことを、愛しているわけではない。爵位を手に入れるために必要だから結婚するだけ。シスターとあれだけ親しそうだったのは、きっとシスターこそカイルが本当に愛している人だからだ。

「爵位目当て、かあ……」

 口にしてようやく、現実として認識できたのだろうか。喉の奥から急に何かが込み上げるような感覚を覚える。横たわったまま体を丸めると、瞳からぼろぼろと何かが溢れた。後から後から溢れる雫を、シーツが吸い取っていく。両親が亡くなったときは一滴も出なかったのに、止めようとしても止めることができない。心臓が痛くて、喉が苦しくて、目が熱い。寂しいのか、それとも悲しいのか、それすらわからない。嗚咽をあげてしまいそうなのを、枕に顔を埋めることで我慢する。声を上げたところで誰に叱られるわけでもないし、誰が駆けつけてくれるわけでもないのに。どうしてか声をあげてなくことはできなかった。

 そうして気が済むまで泣きじゃくること数分。泣くのにも疲れたので、仰向けになって天蓋をぼーっと見つめる。化粧はもうドロドロで見るに耐えない顔になっていることだろう。けれど、今日はもう出かける予定はないし、なんでもよかった。

「そっか、そうだよね……」

 自分に言い聞かせるようにして呟いた声は、思いの外しわがれてはいなかった。声を押し殺していたおかげだろう。一通り泣いたおかげか、頭は随分とスッキリしている。悲しみとも寂しさともつかない感情は、どこかへ消えてしまったようだ。冷静になって考えてみると、妙に納得してしまえたのだ。

 最初から、おかしいと気づくべきだった。自分にとって都合が良すぎると疑うべきだった。両親を亡くしてすぐに婚約してくれる人が現れるなんて。爵位以外何も持たないクリスティに「初めて会ったときから好きだった」と愛を告げてくれるなんて。なんの取り柄もないクリスティの前に、王子様のような人が現れるだなんて。

 そんな夢のようなこと、起こり得るはずがなかったのだ。騙されただとか、裏切られただとか喚いて彼を糾弾することはできない。何も疑わずに信じてしまったクリスティの方が悪い。それに、例えカイルが爵位目当てだったとしても、だ。彼が悪い婚約者だったかと言われればそんなことはない。むしろ、模範的すぎるぐらいに素晴らしい婚約者だった。これは紛れもなく、覆しようのない事実だ。

 両親を亡くして途方に暮れるクリスティに代わり、叔父と一緒になって領地を立て直してくれた。クリスティならできると信じて、孤児院での刺繍の先生を任せてくれた。やりたいと言ったことにはなんでも付き合ってくれたし、行きたい場所にだって連れていってくれた。彼が今までにクリスティにしてくれたことを考えれば、爵位を譲った程度では寧ろ足りないかもしれない。彼がクリスティのことを愛していないのなら尚更だ。

「……私に王子様なんて、現れない」

 言い聞かせるように呟く。誰に言われたのか忘れてしまったけれど、ずっと頭にこびりついて消えない言葉は呪いのようだ。それでも、的を得ていると思った。クリスティに王子様なんて現れるはずがない。王子様が現れるに相応しい人間じゃないのだから。

 仰向けの状態からもそもそと起き上がり、ベッドに腰掛ける。キリキリするような心臓の痛みも、飲み込めないような喉の苦しさも、溶けてしまいそうな目の熱さも全ておさまっていた。悲しいし寂しいけれど、何もかも諦めていたクリスティに楽しい時間をくれた事実が消えてなくなるわけじゃない。本当に愛されていると錯覚してしまうほどに丁寧に扱ってくれたことも、嘘ではない。カイルのクリスティへの気持ちは偽物だったけれど、クリスティがカイルのことを好きだと思った気持ちは本物だ。爵位目当ての結婚なんて珍しくないのに、今の今までバレることがないぐらい完璧にカイルはその本心を隠し通してくれた。それにカイルが婚約者になってくれたおかげで、クリスティはどう頑張っても好きになれそうにないご老人の後妻として人生を終える未来を免れたのだ。感謝しても仕切れないことだろう。

 ――それで十分かもしれない。

 コンコン、と控えめなノックの音が聞こえる。肩を跳ねさせて、「はい」と返事をすると聞こえたのは、「クリスティ? 入ってもいい?」とカイルの声。もうカイルが帰ってくる時間になっていたらしい。出迎えもしないでないていたなんて、と一瞬後悔したけれど、「どうぞ」とすぐに答える。入ってきたカイルは心底クリスティを心配しているように眉を下げていて、聞いてしまった会話は嘘なんじゃないかと思ってしまった。カイルはクリスティの顔を見ると、ギョッとして目を見開く。泣いたせいで化粧がドロドロに崩れていることを今更後悔した。

「!? どうしたんだ、そんなに目を真っ赤にして」
「あっ、えっと……お、お父様とお母様のことを、思い出してて……」

 苦しい言い訳だとは思った。両親の死にそれほどダメージを受けていないことに、カイルはとっくのとうに気づいている。それを思いながら、ズキリと心臓が痛んだ。両親の死すらまともに悼めないような心ない女が、元より愛されるはずもなない。カイルに相応しいのは朗らかで優しい、シスターのような女性。思い返してみると二人が並んでいる姿はとてもお似合いで、クリスティが並んでいるときには出せない自然さがあった。クリスティのように何の取り柄もなく、自己肯定感の低い女で釣り合うような相手ではないのだ。

「今日、書類を届けに来てくれたと守衛から聞いたよ。ありがとう、すごく助かった」
「あ……よかったです」

 直接届けることをしないで、守衛に預けたことには触れない。クリスティが会話を盗み聞いてしまったことに気づいているのだろうかと思ったけれど、その割には動揺しているそぶりは見られない。単純に、仕事中にクリスティが会いに来るようなことがなくてよかったから、何も言ってこないのだろう。そう結論づけた。カイルはクリスティの隣に腰掛けると、そっと抱き寄せる。抱きしめられ、無条件に胸が高鳴ってしまった。

「何があったか、私には言えない?」

 尋ねる口調も、抱きしめる強さも、真綿で包むように優しい。まるで心の底から大事にされているのだと、錯覚してしまいそうだ。嫌なことも辛いことも全て溶かしてしまうような体温に縋り付いて、泣き出してしまいたい。クリスティの聞いた会話は全部嘘で、クリスティのことを誰より愛しているのだと言ってほしい。そんなことはあるはずなくて、望むことすら間違っていると言うのに。

 ――それじゃ、だめだ。

 思い上がってはいけないと、自らを戒める。カイルが愛しているのはクリスティではなく、きっとシスターで、クリスティと一緒になるのは爵位が欲しいから。この世の理ぐらいにわかりやすくて、至極単純な事実。それを忘れて縋り付くわけにはいかない。抱き寄せてくれる腕を名残惜しく思いながら、そっと胸を押す。

「心配かけて、ごめんなさい。もう大丈夫ですから」
「でも……」
「ちょっと疲れただけなんです。その……今は一人にしてもらえませんか?」
「……ああ、わかった」

 渋々、といった様子だけれど最終的には承諾してもらえたので、ほっと息をつく。彼はきっと最後までクリスティにそのことを悟らせることなく、大事に扱ってくれるのだろう。クリスティに夢を見させたままでいてくれるのだろう。その優しさが残酷だと思ったけれど、それでもカイルのことを嫌いにはなれなかった。

「お仕事帰りに煩わせてしまってごめんなさい」
「そんなこと気にする必要はない。あなたは私の大切な人なんだから」

 優しくそう言ってくれる様子はクリスティが夢見た理想の王子様そのものだ。この人に本当に好かれたら、愛されたら、どれだけ幸せなのだろう。――いいや、その幸せはもう十分味わった。

「ありがとうございます、カイル様」

 ぎこちなく笑うクリスティの額に唇を落とすと、カイルは部屋を後にする。クリスティに幸福を与えてくれたカイルに、これ以上の負担を強いるわけにはいかない。袖で乱暴に涙の跡を拭うと、膝の上で拳を握りしめた。
< 6 / 13 >

この作品をシェア

pagetop